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「透明な力」

「春と修羅」
   宮沢賢治
                      

 中学生の時、社会科の中川先生がたびたび本を紹介してくれた。
 読みなさいと勧めるのではない。授業の中でさりげなく本のタイトルを口にされた。時には内容に触れることもあった。熱く語るというわけではないのに、本の題名がやけにくっきりと心に残ったのは、わたしが本好きだったからだけではなく、先生の言葉の端々に本に対する温かな思いが滲んでいたからだろう。
ある時、テニス部の男子が五時間目の社会科の授業に遅れてきた。遅刻をした生徒は、椅子の上で正座して授業を受けるという約束ごとがあった。
遅刻したテニス男子は言い訳をした。
「すみません、大会があるので練習してました」。
すると、先生が言った。
「勉強は、テニスをしながら商売の先生から義理で教わることじゃないんだぞ」
 きょとんとした男子生徒に向かって、先生は再び言った。
「今日は正座はなし。そのかわり図書館に行って、宮沢賢治の詩集から『稲作挿話』の最後の部分をコピーして来い」
「稲作挿話」のコピーはみんなに配られた。
「これからの本統の勉強はねえ/テニスをしながら商売の先生から/義理で教わることでないんだ/きみのようにさ/吹雪やわずかの仕事のひまで/泣きながら/からだに刻んでいく勉強が/まもなくぐんぐん強い芽を噴いて/どこまでのびるかわからない/それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ……」
 それは詩集『春と修羅』の中の「稲作挿話」の一部分だった。明るくて前向きな力が伝わってきた。
「中三にもなって、宮沢賢治の『春と修羅』を知らないとはなあ」
 先生のあきれた声。賢治の童話や「雨ニモマケズ」の詩なら読んでいたけれど、『春と修羅』は初めて聞くタイトルだった。
「今日は図書館で『春と修羅』を借りよう」とわたしは思った。
 以来、詩集はわたしの手もとにいつもある。むずかしい言葉や複雑な心象風景は、あえて読み飛ばしてきた。何度も読み返したので、『稲作挿話』はそらんじている。わからなかった言葉の断片が、年を経るごとにわかるようにもなった。詩集を開けば、わたしは緑のもやがかすむ森や林をさまよっている。ぬかるみやぽしゃぽしゃした雪の中を歩いている。青い色と透明な風。光を反射して薄桃色やトパアズ色に染まっている雲の中に浮かんでいる。この詩の中の風景に守られたい、この風景を守りたいと祈りにも似た気持ちになる。
 疲れたとき、気持ちが沈んだとき、『春と修羅』を開く。曇っていた私の心はしだいに澄む。それは水の濁りが鎮まっていくのに似ている。底の方に沈んでいった濁りは、またいつしかかき乱されて、再び濁る。けれど、そのたびに本を開く。
 以前友人から、意地悪なことを言っている人の頭から黒い煙のようなものが立ちのぼるのが見えたという話を聞いた。俄かには信じがたかったが、ひと呼吸おいてから、信じられる気がした。心の中の濁りが黒い煤になったのかもしれないと思った。
「森のイスキア」の佐藤初女さんが、著書の中でこんなことをおっしゃっている。
野菜は炒めたり茹でたりするとき、一瞬、透明になる。玉葱もニンジンもほうれん草もきれいな透きとおった色になる。そのとき、野菜が植物から食物へと命の移しかえをしているのではないかと。心を込めて食物の命と向き合う人の言葉だと思った。
 ならば、人もまた、命の移しかえをするときに、きっと澄んだきれいな心になるはずだ。例えば「わたくし」を捨てて、だれかの為に生きようとするときなどに。あるいはまた、この世での生を終えて体から旅立つときに。
 同じく『春と修羅』の中の「眼にて云う」にこんな一節がある。
「あなたの方から見たらずいぶんさんたんたるけしきでしょうが/わたくしから見えるのは/やっぱりきれいな青空と/すきとおった風ばかりです」
 くるしみや哀しみや迷いを底の方に沈めて、澄んだ目で世界を見たい。
 シミだらけで黄ばんだ詩集。だが開けばそこから賢治の透明な言葉が立ちのぼる。表紙を見ただけでも、その本の手触りからでも、わたしを透明にしてくれる力が、心に静かに浸みてくる。


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