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「心に響く」

「ギーターンジャリ」
   タゴール作・伊藤晋二訳・私家版(上・下巻)
 
 旅行好きな祖父は、旅に出るたび、私と弟に絵葉書を買ってきてくれた。白秋の「落葉松」の詩を添えたものが、その中にあった。文語体の詩のいかめしさが、小学生だった私たちにはおかしくて仕方なかった。「カラマツハ サビシカリケリ タビユクハ サビシカリケリ」。その意味を探ろうともせず、文字だけを連呼しては大笑いしていた。白秋さんには大変失礼なことをしたと思う。
大人になって、黄金に色づいた落葉松の道を踏みしめた時、サビシカリケリはしみじみと心に落ちた。言葉のリズムと晩秋の風情と心の憂いがひとつになって、このまま朽ち葉の中に溶けてしまいたいと思った。「からまつの林の道は/われのみかひともかよひぬ/ほそぼそと通ふ道なり/さびさびといそぐ道なり」
嬉しいんだか悲しいんだか、どこをどう歩いても、歩く軌跡は、すべて自分の人生だ。引き返したくなったり、えい、突き進むしかないと思ったり。あれこれ迷ったはずなのに、振り返ると、そこにはしっかりした一本道だけが残されている。たくさんの人と出会い、楽しくわいわいやってきたはずなのに、後ろに残された一本道はどこか寂しい。
 ともあれ、文語体の詩を舌で味わう心地よさは、あの「サビシカリケリ」から始まったようだ。口と耳が音にする愉しみを覚えていて、いい詩に出会うと声に出したくなる。口語体の詩もいいけれど、構えた文語体が、いかにも「詩」という感じがして私は好きだ。
昨年、タゴールの詩集『ギーターンジャリ』を手に入れた。美しい言葉を聞いた時、恍惚感で我を忘れたという少年時代のタゴールの逸話に惹かれたからだった。タゴールの母国語であるベンガル語が、どんな響きを持つのか知らない。けれど、美しい言葉が心にしみわたっていくさまは、想像できた。タゴールの言葉への感性は天性のものだったろう。だが、その感性は人生とともに深まっていったのに違いない。妻、子ども、父を弔い、その傷を癒すイギリスへの旅の中で英訳した原稿が、W・Bイエーツの目に留まり、タゴールの名は世界中に響き渡った。一九一三年、タゴールは、この詩によって東洋人初のノーベル文学賞を受けた。
初めて『ギーターンジャリ』を読んだのは、岩波文庫の「タゴール詩集」だったように思う。今回手にしたのは、ベンガル語も記載された私家版だ。訳者は伊藤晋二氏で、彼は英訳されたものを和訳したのではなく、独学でベンガル語を学び、苦労の末、本を完成させた。模様のように美しいベンガル語の横には、表音記号もつけられている。だが、たどたどしく口にしても恍惚感には程遠い……耳の悦楽は、いつかベンガル語のできる人に巡り会うのを待つことにしよう。
一方、日本語の訳は、きりりとした文語体だ。声に出すと、背筋がしゃんとした。「蓮の花びら/幾重にも/咲き開かん/永久に/その蜜/隠されざるべし。/誰が眼/空にかかりて/見つめおらなん、/我が家の外にて/」。
 人生の一本道には、様々な出来事が落葉のように散り沈む。ふっと足を止めた時、体験と言葉とが結びつき、言葉の本当の意味に気づく時がある。ああ、こういうことだったのかと。言葉と心が響きあう瞬間。それもやはり恍惚感、のようなもの。「サビシカリケリ」でもいい。「タノシカリケリ」なら、なおいい。思いを深めて歩いてみたい。心に響く言葉を探しながら。


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