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「あるがままに」

 「阿弥陀堂だより」南木佳士・文芸春秋

 引き出しから、期限切れのチケットが出て来た。見たかったはずの展覧会なのに、ずるずると機会を逃したものだ。人が溢れ、建築物がひしめく都内へ出るのが、だんだんおっくうになってきた。人が人だけの為に作り出した空間は、健康な人には合理的で快適でも、心や体が弱っている人には刺激が強すぎるのかもしれない。立ち止まる隙を与えない人の波。ひっきりなしのアナウンス。点滅する文字やライト。その中でふっと気を抜けば、自分が流れとは無関係な不用物になったような心細さを覚える。自然物が多い場所では、反対に、あるがままの自分を受け入れてもらっている、そんな安心感の中に身をゆだねる事ができる。その違いはどこから来るのだろう。
小説の舞台は信州だ。読みながら、土の香りを含む湿った故郷の空気を感じていた。パニック障害になった主人公の妻が、山村暮らしで息を吹き返していく様子は、私自身も生き直しを迫られているように、身につまされた。昨年は正月もお盆も故郷に帰らずじまいだった。大事なことを忘れているぞと物語から告げられた気がして、望郷の念が湧いてきた。
主人公の孝夫は小説家だ。新人賞を取ったものの後が続かず、高名な女医である妻の美智子が生活を支えている。その美智子が人間不信からパニック障害に陥る。美智子は、都会から逃げ出す事ばかり考えるようになった。二人は、孝夫の故郷である信州の谷中村で暮らす事を決意する。そして、美智子は村の診療所で働き始める……。
村の阿弥陀堂には、堂守りのおうめ婆さんがいる。彼女は九十六歳だが、たった一人、お堂で暮らしている。生活空間にはかまどと井戸。食べ物は畑で採れる野菜と村人が運んでくれる味噌や米だけ。用便も畑で済ませる天然暮らし。自然と同化して暮らすおうめ婆さんの言葉を、村役場に勤める口のきけない娘、小百合が「阿弥陀堂だより」に綴っている。おうめ婆さんの、こんな言葉がある。
「お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。話しているうちに、自分がこの世の者なのか、あの世の者なのかわからなくなります。もう少し若かった頃はこんなことはなかったのです。恐くはありません。夢のようで、このまま覚めなければいいなと思ったりします」
声に出して、何度も読んでみた。仮に長生きできたとして、私はこのような境地に至れるだろうか。自信は、全くない。
孝夫と美智子は、素朴な人々と自然の包容力によって再生の方向へと導かれていく。孝夫は、偽りのない自分を書きたいように書く事で、書くという行為の本質に近づいていく。美智子は医師としての誇りと自信を取り戻す。
 文章の中に「小説とは阿弥陀様を言葉で作るようなものだ」との一文があった。 小説だけに限らない。生きる事すべてに、この言葉は当てはまるだろう。自分が信じるものを、素直に形にすれば「阿弥陀仏」になる。そこに虚飾や打算、名誉欲が混じれば、下手物になる。
溢れる物で砦を作り、有り余る情報の鎧や盾で身を固め、鋭利な言葉の剣を振り回す現代社会。だが、本当に自分が求めているものに近づく道は、自分を大きく見せるのではなく、矮小化するのでもなく、あるがままの自分を受け入れて、自然と同化して生きる事ではないだろうか。
 

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