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好きな本を読む

 最近、久しぶりに図書館へ行って、リンドグレーンの「長靴下のピッピ」を借りて読んだ。読んだのは岩波少年文庫の大塚勇三訳のもので、この訳者さんが訳したピッピを読むのは初めてだった。それで思ったのは、やっぱりこの訳者さんの文章が好きだということ。そしてやっぱり、リンドグレーンが好きだということ。
 ピッピのような精神で生きていたいなあ。パワフルで、生き生きとしていて、怖いものなし。こんな魅力的な女の子キャラクターが他にいるだろうか。ピッピと似たキャラクターが他にいるかといわれたら、わたしが知らないだけかもしれないけれど、ちょっと思いつかない。こんなすてきで唯一無二なキャラクターを思いつくなんて、リンドグレーンはやっぱり天才だ。そして同じ世界に生まれてこられた自分は、幸せ者だ。

 自分はやっぱりこの訳者さんが好きだなとか、リンドグレーンが好きだなとか、そうやって自分が好きなことやものに気がつくことは、自分を理解するということでもあるのだけれど、大切なことだと思う。最近よく思うのは、自分の好きなことやものが分かってくると、自分が何をすべきなのかが分かってくるということ。それは、人生という大きな流れの中でもいえることだし、日々の生活の中で、今何をしようか、と考えるときにもいえる。

 とくに今の世の中には、おもしろそうで楽しそうなコンテンツが山とあふれている。本だけでいっても、この世の中には、絶対に読みきれないだけの種類と量の本がある。本が好きなくせに本屋さんが苦手だったりするのは、読めないのに読みたい気持ちだけをむやみにかき立てられるからだと思う。あれもこれも読みたいのに読む時間がないと思うと、心が少々かき乱される。焦るしちょっと苦しい。読みたい本全部を買ってもいられない。

 でも自分の好きが分かっていると、そう、たとえば自分がどんな本が好きなのかを分かっていると、時間がたっぷりあるときは別だけれど、忙しいときや、読書に使える時間があまり多くはないとき、自分がどの本を読めばいいのかが分かる。わたしなら、リンドグレーンや岩波少年文庫の本を読めば、心から満足できて、その時間を充実したものにできると分かる。読む本に迷わなくてすむ。

 それは、自分の可能性をせばめるということじゃない。岩波少年文庫の中で、新しいお気に入りを見つけることもあるし(実際、ずっと読んでみたいと思いながら機会がなくて読まずにきた、アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」。とうとう読むことができたのだけれど、さっそく新しいお気に入りになりそうである。)、自分のすべきことが分かるということは、自分の行動の軸ができるということでもあって、そうすると、むしろ、安心して他のことにも目を向けられるようになるのである。むしろ新しいことや新しい世界に興味を持ったり、挑戦してみたりしようという、それも、そわそわした状態ではなく、安心した落ち着いた状態で、興味を持ったり挑戦してみようとしたりするゆとりが生まれるのである。
 たとえば、人の今まで興味を持ってこなかった話を、もっとちゃんと聞いてみようという意欲が湧いてきたりする。最近でいえば、いとこにそれはボールだとかファールだとかいわれても、わけも分からずにごっこ遊びをやっていた記憶があるくらいの野球のルールをちゃんと理解しようと、説明してくれた弟の話に耳を傾けた。

 人が使える時間には、どうしても限りがある。その中でリンドグレーンを読めばいいと分かっているということは、リンドグレーンだけを読むようになるとか、他のものには目もくれなくなるということではない。ただ、そういう感覚を持っていると、心がなんとなく安定するのである。むしろどんと構えて、他のものにも目を向け、吸収しようとできる状態になれるのである。もちろん読みたい本があったら、時間さえ許せば、ということにはなるかもしれないけれど、いくらだって読めばいい。それを制限する必要はまったくない。
 今は図書館で見つけた森見登美彦の「ペンギン・ハイウェイ」が気になっている。今読んでいる本を読み切ったら、次はそれを読んでみようかな。

 最後まで読んでくれてありがとう。これを書いている今日は美術館へ行って、最高の時間を過ごしてきました。速く書くことは自分には無理だともう分かっているのだけれど、もっと気軽に色んなことを発信していきたいと思っています。それでは、また。

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