【連載小説】怒らない恋人/第一章:4
大輝と莉奈を引き離したい私の思惑とは裏腹に、大輝はますます遠慮が無くなっていた。飲み会で4人が対面したことをきっかけに、私の前で莉奈の話をしてもオッケーだと勝手に解釈してしまったらしい。おかげで、私と大輝のメッセージのやり取りには、莉奈の名前がずらりと並んでいる。試しにメッセージ内の検索機能を使って莉奈の名前を数えてみたら、私の名前よりも莉奈の名前の方が多くて悲しくなるだけだった。何やってんだ、私は。
まあでも、莉奈は以前ほど正体不明の謎の存在ではない。そのことを考えれば、少しは気が楽だった。少しずつだけど、共通の話題もできつつある。
だけど、事件は起きてしまった。事件と呼ぶには些細なことかもしれない。だけど、私にとって大事件だった。
その日は、私と大輝が付き合い始めて1年になる記念日だった。もともと私は記念日を気にするようなタイプではない。誕生日やクリスマスならともかく、「付き合い始めた記念日」を祝うなんて学生のやることだと思っていたし、いちいち記念日を作るのは疲れる。だけど、大輝が言ったのだ。
「来月で付き合い始めて1年になるから、当日は盛大にお祝いするよ。楽しみにしてて」
……と。
大輝がそんなことを言わなければ、私も記念日なんて意識しなかった。「私は記念日とか気にしないタイプだから」と返したけれど、大輝が付き合い始めた日を覚えてくれていたことは純粋に嬉しかったし、彼がその気なら、たまには祝ってみるのもいいかなと思ったのだ。
私の中で期待値が膨らんでしまったのもいけなかったのだろう。記念日当日、私は仕事だったけど、職場を出てすぐにスマホを確認した。でも、大輝からのメッセージも着信も無い。
たぶん、大輝も仕事が長引いているのだろう。そうに決まっている。メッセージも着信も無かった時点で嫌な予感はしていたのだが、その嫌な予感から目を逸らしたくて、私は自分に言い聞かせていた。大輝は仕事が忙しいだけだと。
大輝からは「盛大にお祝いする」とまで言われていたのだから、私の方から連絡すると催促しているように思われる気がして、メッセージは送れなかった。
家に帰ってからも、常に視界に入る場所にスマホを置いてずっと待っていたけれど、大輝からの連絡は無いまま、夜中の0時を過ぎて日付が変わった。
夕飯も食べずお風呂にも入らずに待っていた私は記念日が終わってしまったことに絶望し、そして、絶望している自分に絶望した。「付き合い始めた記念日」をこんなに楽しみにしてしまった自分自身がショックだった。
夕飯も食べていないからお腹が減っているはずなのに、もしかしたら、まだ大輝から連絡があるんじゃないかと僅かな希望を抱いていて、スマホの液晶画面と睨み合う。夕飯の準備をしたりお風呂に入っている僅かな間に大輝から連絡があったらどうしよう。その不安は希望的観測が大半を占めているのだと気が付くのにそれほど時間はかからなかったから、結局、私は多大なる敗北感と虚しさに包まれながら大輝にメッセージを送った。
『仕事忙しかったの?』
私にも連絡できないくらい大輝は忙しいのだから、きっと既読にはならないだろう。既読にならないでくれと願った。それなのに、ほとんど秒で既読になって、返事が来た。
『今日は仕事が早く終わったから、さっきまで莉奈と会ってた。潤也くんの誕生日プレゼントを選んでたんだ』
後頭部に向かって真っ直ぐ隕石が落下したら、きっとこんな感じだろう。それくらいの衝撃を受けた。大輝はやっぱり記念日の約束を忘れていた。それだけならまだいい。よりによって莉奈と会っていた。そして、莉奈の恋人、潤也の誕生日プレゼントを選んでいた。よそのカップルの記念日について考えていた。どういうこと。莉奈。いったいどこまで邪魔をするんだ。
たまらずに音声通話を発信する。大輝はすぐに出てくれて「どうしたんだ? 」と心配そうな声で答えた。その声に条件反射でホッとしたものの、何を話せばいいのかわからない。「記念日のお祝いはどうなったの!? 」なんて、子供っぽく詰め寄ったら呆れられそうだ。
「ちょっと声が聞きたくて……」
やっとそれだけを口にした途端、何故か涙が出そうになった。私は、こんなにも大輝に会いたかったのだ。記念日なんて気にしないタイプだったはずなのに。しかも、誕生日とかクリスマスとかではなく、「付き合い始めた記念日」だ。
私の様子がおかしいことに、大輝はすぐに気が付いたようだった。スマホの向こう側から心配そうな声が聞こえてくる。
「由依、元気ないよな? 大丈夫か? こんな時間に突然連絡してくるのも珍しいし……。ひょっとして、何か話したいことでもあるのか?」
あんたが記念日を忘れていたせいで悲しいんだよ! そうやって怒鳴ることができたらどんなに楽だろう。だけど、記念日の件で感情的に大輝を責め立てても、きっと私が惨めになるだけだ。
「何でもないよ。本当に声が聞きたかっただけ」
「正直に話してくれないか。由依に嫌な思いはさせたくないし、困らせたくない。嫌なことがあるなら、解決しよう」
大輝はやっぱり優しい。夜中に突然電話しても、ちっとも迷惑そうな素振りも見せず、怒らずに対応してくれる。それどころか、私の様子が普段と違うことに気が付いて心配してくれる。その優しさと気遣いに、私の気持ちも落ち着いていった。大輝がこんなにも優しい対応をしてくれているのに、私は記念日を忘れられたくらいで感情的になって彼を責めようとしている。
「あのね、大輝。今日……じゃなくて、昨日が何の日だったか覚えてる? 」
できるだけ穏やかな口調で、何気ない問いかけに聞こえますようにと祈りながら口にした。けれど、大輝は「あっ。ごめん……」と、とても悲しそうな声を出す。「忘れてたよ、本当にごめん」と。
私のためにこんなにも大輝が悲しんでくれていると思うと、もう私の怒りや悲しみなんて消滅したも同然だった。……なのに。
「……でも、由依は、記念日は気にしないタイプって言ってたじゃないか」
謝罪のあとに「でも」という単語を続けられると、一瞬にして誠意を感じられなくなるのは不思議だ。どんなに真剣な謝罪でも、手品の鳩のごとく瞬時に消えてしまう。その結果、一旦は落ち着いていた私の怒りはあっさり復活した。
確かに、私は言った。「記念日とか気にしないタイプだから」と言ってしまった。だけど、他ならぬ大輝自身が「盛大にお祝いする」なんてハードルを上げまくってくれたせいで、私は記念日に過度な期待をしたのだ。結果、こんなにも怒っているし、悲しんでいる。
どうして自分から言い出したことを忘れているのか。守れないなら約束なんかしないでよ。今日くらいは一緒にいてほしかった。
「今度、由依が欲しいものを一緒に買いに行こう」
まだ伝える言葉を整理できていないうちに大輝がそう言ったので、私は慌てた。
記念日に高価なプレゼントを買ってほしいと強請る強欲な女にはなりたくない。今のところ、私が伝えたいことは微塵も伝わっていない。
「違うの。プレゼントが欲しかったとか、そういうわけじゃなくて」
考えろ。考えろ、私。どうすれば私の気持ちは大輝に伝わるのか。めんどくさい女にならず、なおかつ、自分のモヤモヤを晴らせる一言を。
「たまには私のことを優先してほしいだけなの」
これだ。私が言いたかったことは、これなんだ。やっと言ってやった。「莉奈さんじゃなくて」という言葉は、かろうじて飲み込んだけど。
「え? 俺の中では、いつでも由依が最優先だよ」
私がやっとのことで自分の気持ちを口にしたのに、大輝はあっさり打ち消してきた。
私が最優先? どういうこと? まさか大輝は、私よりも莉奈を優先している自覚が無いのか。
「俺は由依が一番大切だし、いつも由依のことを考えてる。仕事してる時でも、友達と遊んでる時でも、莉奈と一緒にいる時でも、俺の中には由依の存在が居るんだ」
大輝の言葉を聞けば聞くほど目眩がしてきた。
だいたい、この会話の流れで大輝が莉奈の名前を出してくるのもおかしい。大輝は意識していないかもしれないが、莉奈だけ特別扱いじゃないか。
「由依は俺にとって、誰よりも特別な存在だ。いつも一緒にいてくれてありがとうな」
え? 何言ってるの? 一緒にいないよね?
混乱しながらも、なんとか自分なりに大輝の言葉を解釈する。これはつまり、私と大輝では、「優先する」の定義がまったく違うということだ。私は大輝と物理的に距離を縮めたい。休みの日には会いたいし、記念日には隣にいてほしい。でも、大輝は心理的な距離で満足している。たとえ休日に会えなくても、大事な記念日を忘れてすっぽかしても、大輝の心の中を占めている割合が多ければ、それが大輝の最優先。
信じられない。まさかこんなにも2人の考え方がすれ違っているなんて。
私のモヤモヤは何も解決しないまま会話が終了しそうな気配がスマホ越しに伝わってきたので、慌てて言葉を続ける。
「ちょっと待ってよ。これからも2人が一緒にいるために、お互いの不満を解決することは大切だと思うの」
「何言ってるんだ。俺は、由依に対してなんの不満もないよ。由依は俺にとって、完璧な理想の恋人だ」
大輝にそう言われた途端、言葉を続けられなくなる。
完璧な理想の恋人。喜んでいい台詞の筈だ。それなのに、この複雑な気分はなんだろう。全肯定されている台詞なのに。
「そっか……。ありがとう、大輝」
「うん。大好きだよ、由依」
少女漫画みたいな会話。たぶん、子供の頃の無邪気な少女だった私が憧れ続けていた夢の会話だ。君は僕の理想だよ、大好きだよ。でも、ちっとも嬉しくない。ただ、モヤモヤした気分が溜まっていくだけ。どうしてだろう。
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