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神への信仰とは

私は両親が熱心な創価学会員だったことから
幼少の頃より学会活動に参加していた

しかしそれも高校に通う頃には疎遠になり
いつしか脱会をした

先日 池田大作名誉会長が亡くなられた
私が学会と袂を分かつ原因となった方だ

先に述べておく
宗教というデリケートな題材を取り合う上で
以降に述べる内容は私個人の考えや経験であり
他者の考えを批判する目的も
自己の正当性を賛美いただくためのものではないことをここに付記する
まだ独自の解釈を含めた表現があると思うので
ここにあることだけが真実ではないことも併せて記す

同氏が会長であった頃
創価学会は大きく会員を増やすことになる
世界中に支部を広げ会員を増やした

折伏大行進(しゃくぶくだいこうしん)というものを
ご存知だろうか?

1950年代に創価学会にて行われた信徒拡大運動のことである

当時の会長は初代・2代目と務めた戸田 城聖氏
池田氏は当時 青年部の幹部であった

信徒拡大に当たっては他の宗教を邪教と唱え
入信者の家の仏壇や神棚を燃やすなどの行為を行った
一部の入信活動で自殺者も発生している

それでもこの運動で多くの一般人が入信している
その組織力に注目したのが地方議会などの政治家達だ

創価学会は貧しい者や大都市に越してきた若者達を中心に
入会活動を行っていた
地域の支持基盤として安定した投票が見込めるのは
地方議員にとって絶好の材料となった

そしていつしか創価学会を支持基盤とした公明党が誕生し
政局に大きく影響するようになる

政教分離は一体何なのか
まったく滑稽な話である

しかしこれは結果の話だ
利用する者が利用しやすい者を利用してきた結果だ
それは創価学会内部でも起きていた

牧口常三郎と戸田城聖は日蓮正宗という宗教と出会う
教師であった両人はその教義に触れ
この教えの正しさを教職員達に広く伝えるための組織を考案する
それが創価学会の前身となる創価教育学会の設立である

教職員を会員としてスタートしたこの組織は
戸田氏が行っていた出版業(当時の参考書の出版)を
金銭的な支えとして活動を拡大させていった

戸田氏の事業は戦後の行政整備の過程で立ちいかなくなり
経営者としての側面に陰を落とし始める

創価学会 第2代 会長に就任した戸田氏は
前述した折伏大行進を実施
それまで教職員を中心としていた学会員を
一般人まで拡大したことで大きく入信者を増やした

池田氏はその跡を継ぎ
入信活動を拡大させていった

表だけ見るとこうして組織が大きくなり
いつしか政界に影響を与える宗教団体となったことがわかる

しかしそれがこの団体の本質を変えてしまった
彼らが説く宗教とはこんなに俗物的なものであったのか?

いやそもそも日蓮正宗の下部組織だった
創価学会がなぜこのように変質してしまったのだろうか

創設に関わった牧口氏・戸田氏
彼等が信じるにたる教義とはなんだったのか

みなさんは日蓮という人物をご存知だろうか?
1200年代の日本にいた仏教僧である

歴史の教科書に多少は表現されているので
知っている人もいるかもしれない

ただ創価学会の話と変に繋げて見られているので
胡散臭く感じている方もいるかもしれない

当時の日本は飢餓に苦しむ世であった
その頃の仏教はいわゆる
金を払えば死後の世界で極楽いけるとする大乗仏教と
自身が修行をせねば解脱出来ないとした上座部仏教に分かれていた

日蓮は修行の最中一つの疑問に突き当たる
それは今広まっている仏教は現世での幸福を説いていないということ

六道輪廻の考えは仏教の元ではあるが
人間界を解脱して極楽浄土に至るには
現世での修行が大事であると

ではこの現世での苦しさはなんのか?
どれほど この世が苦しくとも
死して極楽に行けると信じて寺に金を捧げ続けるのか
それで人は幸せになれるのか?
解脱した釈迦は本当に現世の民にそのような苦境のみを
お与えになったのか?

日蓮はこの大きな疑問に自分なりの答えをつけている
それが南無妙法蓮華経の題目に表れている

南無とは仰せの通り
妙法蓮華経とは釈迦の教え(経典)のこと
つまりお釈迦様の教えの通りですという意味

仏教で広く唱えられている
南無阿弥陀仏は極楽浄土に導く阿弥陀如来への賛美ということになる

つまりあの世を見るか
今生きている現世を見るのかということなのである

日蓮の解釈では
生きるが修行ならばそれも幸福でなければならない
というものだった

だからこそ他の腐敗した仏教や
自身の修行に専念し世を顧みない仏教を
痛烈に批判し貧しい者や苦しんでいる弱者に対して
金で救われる死後よりも
今を尊く大事にして生きよと教え広めたのだ

日蓮は多くの批判や苦境に立たされてきた
政府に対し内乱と外圧で国が亡ぶと伝えたが
元寇の失敗によりその予言が外れたと批判された
それは予言ではなく警告なのであって
腐敗政治と飢饉の中で死にゆく人々に何もしない幕府
それを批判するための揶揄である

日蓮のこうした状況を創価学会は自分達に対する
批判と重ね合わせて
日蓮聖人もそうだったと良いように捉えている

いやそう考えると今信仰されている多くの宗教も
そういった側面を持っている

多くの人が同じ神・同じ思想を持てば
その影響は大きくなり
いずれは政治や社会そのものに影響を与え始めるのだ
その都度 苦境や困難に苛まれた予言者やメシアは
神と同様に祀り上げられ
それを信仰する人々の苦境や困難も
同じ苦労・苦悩なのだと諭された

それは本当にそうなのか?
時代も違えば環境も違う
その中で同じ苦労や苦悩を体験することが
本当に同様の教義に至ることなのだろうか?

日蓮の教えは尊いものだと
学会員だった私も信じていた
しかしあまりにも誇張し過ぎているとも感じていた

信仰の対象はいつも何かしらの奇跡を起こす
キリストの復活やモーセの海割り
日蓮も処刑を奇跡で免れている

それが神の啓示を受けた者だといえば
神の教えを真に理解した者だといえば
無知な大衆はそこに頼り追い縋るのだろう

宗教が持たざる者の心の支えになってきたのは
世界の歴史が証明している
そしてその規模が大きくなることで
国や政治を大きく動かしてきたのもまた事実だ

宗教というものが非常にデリケートであることは
重々承知している

私は思う
神がいても世界は混沌としているだろう
旧神学者唱える完璧な世界など存在しない
存在しても我々人間は感知出来ない以上
それを前提にして世界を思考するのは不可能だ

かといってニーチェのように
神は死んだ と超現実主義を考えるのも極端だと思う

量子の世界の中で
パラレルワールド理論というものがある
平行世界が無数に存在するとして
我々は光以上に速い物質を感知出来ない
感知出来ないなら存在していても知ることは出来ない

それは霊的なものと呼ばれるものかもしれないし
神聖と思われるものを含むかもしれない

しかし観測出来ない以上
我々は推測することしか出来ない
そして推測することにも特に意味があるわけではない

なぜならば
その概念は我々に影響を成さないからだ

極楽浄土がパラレルワールドの別次元に存在していても
我々は感知することが出来ない
ならばそれを求めて現世の苦悩を味わう必要はない

努力は必要だ
でも望んで苦境に立たされる必要はないのだ

宗教は万能ではない
すべてを救ってくれる万能薬でも
万人を救ってくれる救済でもない

神はいる
でも認知は出来ない

だからこそ
それを意識するかしないかは
その個人に委ねられる

信じる者は救われるとは限らない
でも救われる人もいる

神を都合の良い存在においてはならない
他者を批判し否定する材料にしてもいけない

ただ自身が信じる形で
自身が信じる神を信仰すれば良い
神を尊び自身の努力を続ければ
少なくとも自分が納得した人生を送ることが出来るはずだ

自分信じた神のせいにして
人を批判することに何の意味もない
ましては仏教そのものと別の道を歩き出した創価学会に
本来信じる教義を感じることはない
だからこそ私は脱会する道を選んだ

人が集まれば多くの考えがある
日蓮宗も多くの宗派が存在して
その教義はそれぞれ微妙に違っている
キリスト教にも宗派がある
信じるところは皆同じというわけにはいかないのである

これが宗教の難しさだと私は感じる
だから宗教という形にこだわらずに
神を信仰するという自身の考えを持っている

その神は釈迦やキリストでもアッラーでもない
その神は認知の出来ない超常的存在であり
時に奇跡を起こし 時に厄災を起こす存在である

神は尊く世界そのものである
では私はただ生きていることでその信仰を示そう
自身の努力と成長を願い叶える
それも自身と神への向き合い方だと信じている

これを読まれている人々へ
神や宗教との関わり方について少しでも良いので
考えてみて欲しい
きっと良い機会だと思うから

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