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我がためならざる公立小学校

塾に通って受験バトルをする人間にとって、公立小学校の授業はかなり物足りない。


1年生の最初の授業でタイルセットなるものを渡され、当時から即座に暗算で解ける足し算を1分ほどかけて丁寧に丁寧にやらされたのは今ではいい思い出である。数年したら流石にタイルセットはお払い箱になり掛け算も割り算もやるが、より1桁多い計算をするのにもう1年かかることもざらだ。高学年になっても、市販の問題集なら公式解説のすぐ次にあるような基礎の問題が教科書章末に『応用問題』として出題される。


算数以外も遅々としてちょっとしか進まない。理科は計算問題のひとつも出ない、社会で地元のことをやるならテストでじっくり出せばいいものを大半は簡単なカラーテストで済ませる、国語とて扱うのは簡単かつ短い文章で、貰った次の日には全部読み切れてしまう。受験バトルを戦い抜くにはあまりに遅い。中学は小学校の延長であるように見えないでもないが、高校以降とくらべるとあまりに軽い。


しかしそれでいいのだ。人より抜きんでることを重視しない、全員が受けて共通の知識をはぐくむのが義務教育なのだから。


そもそも、小中の授業では高校以上の教育機関との接続はあまり考えられていないそうだ。つまり、中3までで一通り完結するカリキュラムになっている。かつては中卒で都会に出て働く人が金の卵ともてはやされ、今でも1%や2%ながら事情があってより上位の学校に進学しない人がいるのだから当然というべきか。高校では一定程度選抜されたことを前提として授業がサクサクと進む。


義務教育の敗北という言葉を最近目にする。しかし、勉強面で家での教育が期待できずとも9年間登校すれば現代社会に生きる上で大切な一定のことを一通り習えることは義務教育の勝利であろう。自分で体系立てて、仕事の傍らホームスクーリングで子供に教えるとなると相当厳しい。学校にお任せする価値は相応にある。
あるいは敗北しているようにしか見えなくとも、敗北していることを日本語で発信できる、これだけで価値がある。無論、これは知識そのものに限らない。生活の基礎、人付き合いの基礎などは私も小学校で身に着けた。


偏差値表に登って夜の9時半まで受験バトルをするための義務教育ではないのだ。その点ではやはり我がためならざる公立小といえるだろう。

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