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漫画『チ。』長め感想(ネタバレあり) 継承とアイデンティティ

グロいものが苦手でその点はキツかったが面白かった。地動説をテーマとした史実に忠実な物語ではなく、継承をテーマとしたフィクションだった。

途中から、『声の文化と文字の文化』という本の内容を思い出しながら読んだ。文字記録の文化が広まる前と後では、人の認識にも大きな違いがある。ヨレンタの「文字は奇蹟」という台詞を彼女の感受性の豊かさゆえとしている感想を見かけたが、個人的な感性というよりその時代や環境が用意したものだと思った。
言ってしまえば、その都度感じる感覚や考え方、発想といったものそれ自体それぞれが共通の言語に置き換えられた時点で、そしてそのようなコミュニケーションが積み重なる中に生まれ育つ時点で、それが「個人的な」感性であることは難しい。逆に言えば、斬新な表現形態や独自用語で何かを表現すれば、それが共通言語で表現したときに陳腐で凡百な内容であっても、受け取り手はそのようには認識しにくいだろう。厳密な意味で「個人的な」感性があるとすれば、それは経験の積み重ねというよりも、他人と比較して差異が目立つ物理的身体的特性という一貫性になるだろうが、それさえも知らしめられ類型化されればその意味で「個人的」ではなくなっていく。

関連して、アイデンティティと代替可能性というテーマも感じる物語だった。ほとんどの物事は、自分が辿りつけなくても、結局やがては誰かが辿りつく可能性が高い。自分が思いつかなくても誰かが思いつく。自分が関与しなくても、誰かが関与する。時代背景など、同じような一定の条件を供えた環境の誰かが。という話でもあった。神の視点では、具体的人物は重要ではないかもしれない。最終巻でのあの展開はそういう捉え方もできる。
しかし、ピャスト伯とその師、バデーニ、ラファウに顕著だが、彼らが求めたものは真理だけではなく、それに「辿りつける」確立された理想のアイデンティティだったようにも思える。だからこそ、人生を賭けたものが「間違っていた」ピャスト伯とその師の描写、知の共有を拒否するバデーニがオクジーの本の内容等を残していた描写には特に心を動かされた。
その点、自身が盲目的であると理性的に理解しながらも、信じる仮説と意思をできるだけ確実に他者へ渡そうとしたヨレンタは違った。彼女の場合、アイデンティティ的な願望は少女の頃こそ描写されていたが、女性だから認められないというカウンター的なものではある。修道院長になってからは、純粋な知への好奇心、亡き友人への想い、大いなるものへの畏敬で行動原理が成り立っているように見える。

最終巻のラファウの描写は、漫画のエモ要素部分ばかりに感化されすぎた一部読者を想定した警戒のつもりなのだろうか?彼はヨレンタと違い、1巻からして「世界と対等あるいはそれ以上になれる自分」というようなアイデンティティを求めていたので、最終巻の「何者か」になりたすぎる人の末路みたいな流れに意外性は全く感じなかったが。1巻で「美しさ」「感動」が重視されたのは、アイデンティティの確立という、世界チョレーなラファウの行動原理が、真理やそこへ辿りつく道が歪められそうな要素を多分に孕んでいたからじゃないか。「美しさ」「感動」を実際に覚えるとき、圧倒されていてそこに我はないと思うから。

ノヴァクの最期は涙が出たが、それはノヴァクが決して生粋の馬鹿や生粋のサイコパスではなく、誰にでも当てはまりうる存在だったからだ。しかし、大した信念はなかった。「大したことのない」信念ならあったかもしれないが、それは、違和感を思考に適用したり疑問に思ったりすることのない、自分自身との距離がないゆえ丁寧な自覚も難しいような信念である。彼は、愛する娘には言えない内容の仕事にも意義を見出し適応する努力をしていた。(それゆえか、)他所では聞いたことのないような弾圧を自身がしていたことに気がつかなかった。そして、そのような妥当性のない弾圧を自身がしていたことを知り動揺した。しかし、自分の言動がどのような意味を持ちうるのか、どんな影響を与えるかは、一定の予測はできるとしても、結局のところどんな人間にもほとんどわからない。「常識的な」信念をもってしても、「大した」信念をもってしても、その信念という名の一種の仮説は結果的には大間違いを引き起こすかもしれないのだ。だからこそノヴァクの最期は心に迫るものがある。

また、「真理」そのものだけでなく、「真理」を取り巻く最終結果に、少なくとも生きているうちはどう足掻いても知ることができないという根源的な絶望も感じた。世界はこんなにいろんな側面を見せてくれて、私には知りたいという願望が備わっているのに、全てを知るのは叶わない願いであるという苦しみ。その願いが強ければ強いほど苦しみも強く、そこから逃れるための生々しい試行錯誤が人間の歴史に痕跡を残していくように感じた。


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