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オレンジ/おやすみばく/③ぎんなんと目白

オレンジ

おやすみばく


③ぎんなんと目白


 その日はイチコの父親の命日で母親がお供えに炊き込みご飯を作った。差し出された夕ご飯の茶碗の上にはぎんなんがたくさんのっかっていた。
 見ているととても幸せな気持になった。

 イチコの父親が亡くなったのは三年前の真冬で、前日がバレンタインデーで、看護師さんがイチコの掌に小さなチョコレートを載せてくれた。その頃には母親が病院に泊まり込むことが多く、いつも胃がキュッと締め付けられるような感覚でいて、学校から病院を経由して家に帰り洗濯物を片付けたイチコは、母親にしっかりとしたものを食べてもらおうと茄子とひき肉のカレーを作った。下ごしらえもいらず火も通りやすいし、何時でも温め直して食べられると思ったのだ。深夜十二時を過ぎた頃母親から電話があり、タクシーで病院に向かった。父親の五か月間の入院生活はその日の明け方近くに終わった。母親が電話をかけに行って病室に二人きりになった時、イチコは小学校以来封印していた「パパ」という名前で父親を呼んでみた。就職して大阪にいる兄の到着を待つ母親を病院に残して、親戚に対応するためにイチコは一旦自宅に戻った。タクシーを降りてもまだ空は真っ暗で、雪が一枚一枚軌跡を残すように舞っていた。どこで生まれるのだろう。高くからゆっくりと降りてくる。カレーは全部親戚の人たちが食べてくれた。それからイチコは一度もカレーを作っていない。明けて一日たった葬儀の日は春を思わせる暖かい陽気だった。入院生活が長くなった父親のために自宅からおくりだした。社宅から新しい家に移って六年を経ていたが、その間に三度入院していた。父親の会社の若い人たちと兄の同僚たちが手伝いに来てくれて通夜の前からずっと忙しく動いてくれていたのだが、葬儀の日の午前中には手持無沙汰な時間もできて、隣接する公園で三人四人かたまって談笑する姿が見られた。イチコは二階の自分の部屋の窓から額縁の中の絵を見るような面持でそれを見た。誰一人の顔も覚えていないがみんなひどく美しく見えた。

「こないだの映画の話、今週の水曜日はどうかな」
 お昼休み、イチコの席に両手をのせてしゃがみこみ頭をぴょこんと出した姿勢でリラちゃんが云った。リラちゃんは栗毛色の肩までの髪を目立たない色のヘアゴムやピンでいつもきれいにアレンジしている。大柄で華やかな女の子だ。クラスの中でも所謂目立つ女子たちのグループにも属しているし、テニス部の同僚たちとも仲がいい。イチコはあまり積極的に友人を作るタイプではない。一人でいることに不自由を感じない。お弁当を一人で食べるのも平気だ。たまに学校行事の時に所在ない気分になるくらいだ。おもしろがる人は面倒くさいし、気を使ってくれる人には申し訳ない。一人が大丈夫であっても集団の中で一人になるのはそう簡単なことではないなと思う。でも何人かでかたまってスマホをいじっている光景を見ると一人でいるのとそれほど相違ないようにも見える。自分よりずっと一人になるのが上手なのではないか。ただ内情はやはり交錯しているようで、リラちゃんは以前みんなでランチしているときにしきりに今会話している友人への悪口を送ってくる人がいて辟易してしまったらしい。昔なら後で「あのときさ」なんてカミングアウトもあっただろうけど今は同時進行だ。その場で消化した方がいいのだろうか。蓄積するよりも。特筆するような感情でないのなら。イチコがいろいろなグループに所属していないのはスマホを持っていないことも一つの要因だろう。七年物のガラケーを使っている。父親のくれたメールが残っている。めったにメールなどくれなかったから数件しかない。保護されている。保護した自分を思うとセンチメンタルな気分になる。「今日は来なくていいよ」どんどん新しいメールが積み上げられて最古の場所に重ねられている。
 
「うん。大丈夫」 
 先週の水曜日は父親の命日だった。用事があるからと断った。映画の話で盛り上がって、近くのショッピングモールの中にある映画館で上映していて、割引のきく水曜日に行こうというところまできて、その日は用事があると断ったのだ。リラちゃんは他の子を誘って行かなかったのか。「ごめんね。こないだお父さんの命日だったんだ」その時は云わなかった。気を使わせてしまうような気がした。間が悪いと思わせてしまうだろう。いろんなことに臆するきっかけをつくってしまうかもしれない。そうして今告げたのは、事後というタイミングと、優先順位をつけたと思われたくないという気持からだ。それでもリラちゃんはちょっと息を飲むような表情になった。あっという感じ。それから「ごめんね」と云った。「え、いやいや。そんなじゃなくて。こっちこそ。ありがとうね」イチコはぱたぱたと手を振って見せた。「お母さんが炊き込みご飯作ってくれて」「炊き込みご飯?」「うん。待ってたから。ごめんね」今度はリラちゃんがぷるぷると首を振った。「お父さんが好きだったの。お母さんもお兄ちゃんも私もみんな白いご飯の方が好きなんだよね。白いご飯とおかずってのが。だから普段はあんまり作らないんだけど。命日には作る。あと他の日にも時々作る。私の知らない記念日があるんだね」そう云ってイチコは笑った。「それでね。夕ご飯。私の炊き込みご飯の上にぎんなんがいっぱいのっかってたの」「ぎんなん」「うん。不自然なくらいいっぱい。ぎんなん好きなんだよね。でもね。茶碗蒸しとかだと一個しか入ってないじゃない」「うん。百合根とかもそうだね」「お供えだから鶏肉とか全然入ってないの。すごく地味なの。でもぎんなんだけ。七個くらい」「よそってくれたのね」「うん。きっと。探して探して」リラちゃんは机の上にのせた手の上にほっぺを傾けて少し伏し目がちになる。そんなリラちゃんを見乍らイチコはこの人に話せてよかったなと思う。

 映画が終わってイチコが母親から頼まれた買い物をしている間にリラちゃんはショッピングモールのミニクロワッサンのお店で席を確保して待っていてくれた。カウンターの横並びの席で、リラちゃんはスマホの画面を指でだどっていた。イチコが隣にすとんと座ると「あっごめん」と云った。「いいよ」いろいろチェックしなければいけないことがあるのだろう。足跡もつけなければいけないし、翌日の朝の話題で一人だけ時差のある話をしてはいけないのだ。クラスメートのSNSかな。「一緒に見てもいい?」「うん」数ページ捲ってから、二人心の中で「あ」と声を出して、そのまま静止した。「今日はママと炊き込みご飯を作りました。ぎんなんがいっぱい」水色にピンクの花柄のランチョンマット。和食器。箸置き。そして炊き込みご飯。ぎんなんのトッピング。彩にパセリ。もう咲いているのか、菜の花が二輪添えられている。偶然ではないだろう。リラちゃんはあの人たちと映画に行かなかったのかと斜め前の席にかたまっているのをなんとはなしに見たので覚えている。背中でリラちゃんとの会話をきいていたのかな。そうして母親に今日はぎんなんのいっぱいのった炊き込みご飯を作ってとリクエストしたのかな。たとえば本当は手作りの温かいご飯じゃなくて出来合いのもので体裁を整えて画面の中にかりそめの世界を作る。そんなパッケージだってありうるかもしれない。けれど違うのだろう。彼女はイチコみたいに十も年が離れた兄がいるわけでもなくて、姉妹みたいに若いお母さんで、デコラティブなエプロンを装着して、娘に頼まれてノリノリでこの炊き込みご飯を作ったのだ。きっと。幸せなコンテンツを提供したのだ。別にいいか。でもリラちゃんの表情は何種類かの小さなネガティブな感情がないまぜになったような色合い。「なんかほろ苦いよ」「えっリラちゃん、なんか上手いなあ。あれ意外と歯ごたえもあるんだよね」「うん。きゅってしてるね」気がついた。二人でいると会話がぽんぽんとはずんで心地よくて、いつの間にか一緒にいることが多くなったのだ。「でもさ。これちょっと装飾過多じゃない」「そうだね」リラちゃんは笑った。

 仏壇の花瓶に梅の花が飾られている。昔父親が露店で梅の木を買ってきた。この家に移るときに母親は社宅の庭に埋めていた梅の木を掘り起こして運んで新しい家の庭に埋めた。上手く根付いて毎年二月になると花を咲かす。それは仏壇のある部屋からよく見える。暦の上での春が来ると父と母は外を眺めて鶯が来たと喜んでいた。先週ニュースの季節の便りを見ていたら「目白」という字幕とともにいつも鶯と呼んでいた鳥が画面に登場して、イチコは母と一緒に愕然とした。「お父さん、知らずにいっちゃったよ」
 今日も窓の外に目白が来ている。白く縁どられた目をきゅっとつむって「ごめんなさい」と云っているようだ。それは一段とかわいくて正座してお茶でも飲み乍らしみじみ愛でればいいのだけど、目白が来ているのに気がつくとイチコは慌てて自分の部屋に携帯電話をとりに走る。静かに障子戸をあけてカメラを向ける。今日はとてもきれいに撮れた。空の青と梅のピンクと目白の黄緑。マカロンを並べたみたいだ。画像を公開したくなる気持もわかるような気がする。夜、母親の隣に小さな子供みたいに寝転んで見せてあげる。空の雪ができる境目の辺りから父親が閲覧を許されてそれを眺めている。何も持っていないから、いつか呼び起こされるようにそっと心に書きとめておく。ぎんなん、それから目白。   

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