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戦国その14 関東の覇王 後北条(伊勢北条家)氏政、氏直の家臣団と軍団

伊勢北条家の軍制 五色備えの配置→論功行賞所領の宛行からの方面軍化

(北条氏康の軍団編成・五色備え)

(1537年に五色備え原型成立)氏綱の陣立てものが、氏康の代に発展。

1546年「河越の夜戦」 1564年「国府台の合戦」で旗頭衆の戦死で一時崩壊カ。

1554~1567年相・駿・甲の三国同盟状態、対 越後・上杉謙信 (氏康の実権:1541~1571年)

<氏康の軍師>

大和晴統 (*)彦三郎・兵部少輔。京都出身。室町幕府奉公衆のひとり。のち北条家の御家門方。北条氏康の三人軍師のひとり。息に晴親。<大和源氏の子孫らしいです。>

▽大和晴親 (*)兵部少輔。晴統の息。評定衆。のち上野国の那波城主。<中央の将軍家とのパイプ役。>

知行地から割り出した軍事編成


<青備え>

 東武蔵 上総方面軍。 御由緒家・荒木 <関東平野を席捲する青波ですね。>

↑富永直勝 (1509~1564)神四郎。伊豆衆21家の一家。5家老衆のひとり。青備え旗頭。武蔵江戸城主。江戸衆を率いる。1564年「国府台の合戦」に先鋒を務め、太田康資の離反により討死。<富永守重は一門か。><初代の江戸城(軍事的)主><将軍・足利尊氏の馬廻衆で先陣を勤める、富永(設楽・伴ノ)五郎左衛門の子孫でしょうか。宣伝効果を狙って全国的に名前の通ってる武門の家を重用したということでしょうか。><死亡する合戦からして直勝と康景とは同一人物かそれとも親子か。神四郎と、弥四郎の違いはありますが。『小田原旧記』では「五色備え」の代表は栗橋城主・富永右衛門尉。事跡は遠山左衛門と混同されるのでしょうか。><子孫は猪俣と苗字をかえて、真田と戦争を始め、秀吉の「小田原征伐」のきっかけを作ってしまいますが・・><松平広忠を保護した富永氏を滅ぼした神君・家康公の過去正当の為に、江戸幕府の富永家事跡抹消で富永氏の系譜全般があやふやとなっているのか・・>

富永* (*)右衛門尉。伊豆衆21家の一家。5家老衆のひとり。青備え旗頭。1564年直勝の戦死後は政辰が江戸城を継承する。栗橋城主。<1564年第二次「国府台の合戦」に戦死する康景のことか。直勝、康景は親子か。><江戸在番なのか、栗橋在番なのかよくわかりません。戦時においては前線の栗橋に出張するのでしょうか。遠山家の江戸在番とともに連動する関係でしょうか。河越城の大道寺氏と、玉縄、河越を往還する北条(福島)氏のような位置付けでしょうか><歴博のある佐倉城の一角に建っていた太田道灌が建てた江戸城本丸の櫓が、遠山・富永家が関わっていた可能性のある建物かも>

.荒木* (*)右衛門尉。御由緒六家の一門。青備え所属。氏康の20将衆のひとり。

南条* (*)九衛門尉。伊豆衆21家の一家。青備え所属。氏康の20将衆のひとり。<1567年右京亮・重長が国府台の合戦に軍功を挙げ深沢を領す。南條重頼、則親は一門か。一門は小田原衆が多い。>

板部岡康雄 (*)右衛門尉・能登守。小田原衆。相模、伊豆に所領。氏康の馬廻・側近。のち田中融成を養子とする。青備え所属。氏康の20将衆のひとり。<孫作・泰行は一門か。>

朝倉* (*)平次郎。伊豆衆21家の一家。江戸衆。「役帳」185貫。青備え所属。氏康の20将衆のひとり。

▽朝倉* (*)右京介。<御馬廻衆の右京進、玉縄衆の右馬助は一門か。>


<黄備え>

 北東武蔵 相模守備軍→武蔵方面軍に。 御由緒家・荒川  <のちに北条最強とよばれる黄備えです。>

⇔↑北条綱成 (1515~1587)福島・勝千代・孫九郎・左衛門大夫・上総介・道感。準一門衆。元今川家重臣・福島正成の息、北条氏綱の娘婿。5家老衆のひとり。1521年父が戦死。北条為昌の後見人となる。1540年頃駿河長久保城主(初代)。1546年河越城主。河越衆を率いる。同年「河越の夜戦」に軍功。のち玉縄城主を兼任。「地黄八幡」の旗指物で武名の誉れ高い。氏照・氏邦とともに上総久留里城を攻略。1558年6月常陸・下野に侵攻。1570年駿河深沢城主として武田軍から死守。黄備え旗頭。73歳。弟に北条綱房(福島勝広)。<主・北条為昌の養子となって河越北条を相続するということか?>

▽北条綱房 (*~*1549)福島・弁千代・孫二郎・刑部少輔。福島正成の息。兄に綱成。玉縄城主・北条為昌の養子となる。1546年河越城の攻防戦に、大軍に攻囲される河越城へ単騎伝令の武功。<1549年以降消息不明。綱高と同一人物ということか?>

↓▽北条氏繁 (1536~1578)福島・玉縄・善九郎・常陸介・左衛門大夫・「北条康成」。北条綱成の息。北条氏康の娘婿。玉縄衆。1554年「加島の合戦」に先陣。1571年北条氏一門のみ許される「氏」の字を拝領。北条氏政の家老職。戦陣では「尊勝陀羅尼」の幌(母衣)。一時、武蔵岩付(岩槻)城主。下総進出の足懸りとして1576年下総飯沼城主。黄備え旗頭。息に氏舜、氏勝。弟に北条氏秀。<河越在番なのか、玉縄在番なのかよくわかりません。戦時においては前線の河越に出張するのでしょうか。大道寺家の河越在番とともに連動する関係でしょうか。江戸城の遠山氏と、江戸、下総栗橋を往還する富永氏のような位置付けでしょうか。>

石巻康保 (*)勘解由・左衛門尉。黄備え所属。氏康の20将衆のひとり。1569年評定衆のひとり。1579年評定衆退任。

石巻康信 (*)下総守。相模衆14家の一家。評定衆のひとり<1577~1588>。<惣領家の石巻康保が旗本馬廻衆の筆頭(1569~1579)。>

.荒川* (*)豊前守。御由緒六家の一門。黄備え所属。氏康の20将衆のひとり。

▽荒川* (*)善左衛門。1573年北条氏政から従軍の功を賞される。

横井* (*)越前守。伊豆衆21家の一家。伊勢早瑞に出仕し、三崎城主。黄備え所属。氏康の20将衆のひとり。

▽横井* (*)神助。1528年軍功。

行方直清 (*)なめかた・与次郎。玉縄衆のひとり。江戸と葛西に所領を持つ。1562年氏康から舟方について指令を受ける。直清の跡を弾正が継承。

行方* (*)なめかた・弾正。相模衆14家の一家。黄備え所属。氏康の20将衆のひとり。


<赤備え>

 東相模 相模・伊豆守備軍→武蔵方面軍と、伊豆守備軍に分裂。 御由緒家・山中  <武田の赤備えとかぶるので、のちに黄備えに吸収されたんでしょうか?>

↑北条綱高 (*)高橋綱高・治部少輔・常陸介・綱種。準一門衆。堀越公方家重臣・高橋高種の息。母は伊勢長氏の娘。5家老衆のひとり。赤備え旗頭。玉縄衆を率いる。弟に高橋氏高。玉縄(甘縄)城主。<玉縄北条氏が旗頭をつとめるようです。北条為昌のこと?綱房のこと?どこにも記載されていなくてずっと迷っていたんですが、第三者があらわれました(2010年12月WIKIに新情報が!綱高をみつけた人すごいっす。)>

.山中頼次 (*)彦四郎・内匠助。599貫。御由緒六家の一門。江戸衆、のち河越衆。1564年「国府台の合戦」に活躍。<頼元、康信、盛定、彦八郎は一門か。>

▽山中* (*)主膳正。御由緒六家の一門。江戸衆。赤備え所属。氏康の20将衆のひとり。

↓○清水康秀 (*~1591)太郎左衛門尉・上野介・康英。伊豆衆21家の一家。評定衆のひとり。綱吉の息。弟に英吉。1545年駿河長久保城主(三代)。1558年古河公方・足利義氏の小田原訪問に「北条五宿老」の一人として列席。赤備え所属。氏康の20将衆のひとり。息に正次。<実際は氏康の後見の父・清水綱吉との親子二代の事跡か。><1569年武田の駿河侵攻に蒲原城を守備し戦死する清水氏あり。>

▽清水正次 (*)小太郎・太郎左衛門尉・政次。康秀の息。伊豆衆。武田との抗争に軍功。駿河の長久保城主。

間宮康俊 (*~1590)豊前守。相模衆14家の一家。玉縄・北条氏繁の家老。下総方面攻略の先鋒として活躍。1590年氏勝とともに松田康長を救援し山中城を守備。笹下城主。698貫。赤備え所属。氏康の20将衆のひとり。息に康信。<信常・信忠親子、政光は一門か。>

佐藤* (*)大見・左衛門尉。伊豆衆21家の一家。大見の三人衆のひとり。赤備え所属。氏康の20将衆のひとり。

▽大見* (*)平五。御家中役ノ衆。三浦半島に所領をもつ。<佐藤氏の一門か。>


<白備え>

 西相模 伊豆守備軍→駿河方面軍(対武田)に。 御由緒家・有竹 <大藤鉄砲隊を備えた近代装備部隊ですね。>

↑笠原康勝 (*)弥太郎・能登守。伊豆衆21家の一家。5家老衆のひとり。笠原越前守家。信為の息。1546年父から所領の一部を譲られる。1554年「加島の合戦」に先陣。1557年父の死により家督。下田城主。下田衆を率いる。[白備え旗頭]。のち小机城主。一門に笠原康明。養子に(松田)政尭。<綱信、康明、照重、弥十郎は一門か。><1569年武田の駿河侵攻に蒲原城を守備し戦死する笠原氏あり。>

安藤清広 (*)源左衛門。伊豆衆21家の一家。「役帳」57貫。御馬廻衆のひとり。<血縁的に狩野氏と関係有りか。>

▽安藤* (*)左近大夫。[白備え所属]。氏康の20将衆のひとり。<清広は一門か。>

.有竹* (*)在竹・又太郎。御由緒六家の一門。[白備え所属]。氏康の20将衆のひとり。

中条* (*~1564)出羽守。江戸衆のひとり。武蔵多東郡に所領を持つ。1564年「国府台の合戦」に戦死。[白備え所属]。氏康の20将衆のひとり。<西三河の中条氏が関東に里帰りしたか。それとも昔から関東に残留した一門の末裔か。「出羽守」の名乗りは西三河中条氏に関連あり。><羽生豊前守と同一人物とも。>

大藤* (*~1572)与七・式部丞。足軽衆筆頭。相模国田代城主。1500貫。1561年相模「大槻の合戦」上杉謙信との戦に軍功。武田信玄上洛の援軍として出動し、「三方々原の合戦」で討死とされる。[白備え所属]。氏康の20将衆のひとり。<氏綱の代に紀伊国から召抱えられた大藤氏の子孫でしょうか。信玄死亡の情報漏洩を畏れた武田家に屠られたのでは。><1584年に軍功を賞される大藤式部丞は別人か。>


<黒備え>

 西相模→当初駿河方面(対武田)から、上野方面軍に配置換え。 御由緒家・多目・山角

.多目元興 (*~1577)周防守。御由緒六家の一門。5家老衆のひとり。黒備え旗頭。対武田に備え駿河国泉頭城に大森長門守とともに守備。駿河河東衆を率いる。1546年「松山城奪還戦」に従軍。のち上野国平井城主。<先祖の多目六郎(元忠?)は1524年氏綱の先鋒大将。>

.山角定次 (*~1564)主殿助。軍奉行・山角定吉の息(次男)。1564年「国府台の合戦」に戦死。息に定吉、定安、定行、常定(常貞)。<京都衆 or 伊豆衆?><山角紀伊守は福島伊賀守とともに氏直の旗本武者奉行。>

▽山角康定 (*)四郎左衛門尉・上野守・定利。定吉の息。1572年から小田原の評定衆。黒備え所属。氏康の20将衆のひとり。<跡職は上野守・康資が継承するか。>

伊丹* (*)右衛門尉・黒備え所属。氏康の20将衆のひとり。<水軍衆?、駿河もしくは伊豆に残留するか。右衛門大夫と同一人物か。>

▽伊丹* (*)右衛門大夫。江戸衆のひとり。武蔵に所領を持つ。

大谷嘉信 (*)帯刀・左衛門。伊豆衆。黒備え所属。相模衆14家の一家。氏康の20将衆のひとり。

福島* (*)伊賀守。黒備え所属。相模衆14家の一家。氏康の20将衆のひとり。のち氏直の旗本武者奉行。

▽福島* (*)四郎右衛門。玉縄衆のひとり。小机に所領を持つ。<伊賀守の一門か。>


≪個人的感想≫ 後北条氏最強時代の五色備えです。『小田原旧記』の「五家老衆」、「二十将衆」を素直に読んでみて下さい。「五色備え」旗頭の五家老に対して、与力の二十将の割り当てが・・。以下の表に考えている事を示してみました。大道寺氏が河越衆の筆頭ではありますが、河越城は北条綱成との関連もあり、玉縄衆、小机衆、河越衆のローテーションを超越して北武蔵の監督人に大道寺氏があり、岩槻城を奪取してからは、幼少の北条(太田)氏房が入りますが後見として大道寺氏があったのではと考えました。


「武家家臣団研究」ということで自分なりに、「五色備え」の軍制と、所領役帳での家臣の配置とを鑑みて、考察しています。

 「五色備え」は、北条氏綱が試みた「五段構えの陣」の一手旗頭の五大将が発展したものだと考えます。なので、大将の下には当然その率いる軍団を形成する与力が付属させられていたと考えます。

 当初は陣構えを形成する軍団としての五色だったと考えられますが、城代として入城した城の配置をみると、裏にそれなりの妥当な目的があって、合理的に五色の大将が配置されていることが判るとおもいます。

 五色備え体制の発展略図:武将配置を追っていけば五色備えを担う一手衆が、家臣団の中から自然淘汰されていきます。

 北条氏の領土拡張に伴い、出先の城の御番役となり、出先機関のリーダーとなり、地域に根着いた方面軍的なものとなり、彼らが順調に侵略を進め発展拡大することにより、多目、富永、笠原氏は、常に最前線の城将となって領土の拡大戦争に貢献し続け、その出発点となった根城は、小田原城に近いものから、続々と当主の氏康、氏政、氏直に近い子弟に割り当てられ、中心部の一門登用化が進んでいってるのではないでしょうか。

 織田信長も畿内に進出してからは、領土拡張は地方の御番役である方面軍軍団長達にまかせ、畿内中心部の領土支配は次々と、自分の身内へと切り替えて、支配を整備し直しています。

 後北条氏は五代かけて、ゆっくりと順番に進めてきた政策を、織田信長は一代で性急に達成しようとしたところに、家臣達の猛烈な反発と、軍団長の反逆心を育ててしまう、家臣団統制の問題点となってしまったのではないでしょうか。

 北条氏はその点、堅実に、着実に、ひとつの明確な目標に向って、家臣全体の役割分担ができているように思われます。

有力家臣の五色備えの旗頭から 北条家当主の兄弟で担当方面を分担指揮、一族の直轄軍化

里見義弘=上総「三船山合戦」に勝利し後北条家を撃退。1570~73年里見優位。

④代目 北条氏政の家臣団

(実権:1571~1580) 小田原旧記。 <織田信長や丹羽長秀と同世代の武将達ですね。>

北条氏政 (1538~1590)新九郎・相模守・左京大夫。北条氏康の息(次男)。1559年家督継承。上総「三船山合戦」に敗北。1571年氏康の死去後、武田晴信と同盟。1574年武蔵羽生城、下総関宿城を攻略。古河公方領を支配。1579年「御館の乱」に弟・上杉景虎を見捨てる。武田家と敵対し、織田・徳川勢力と同盟。1580年2月織田家重臣・瀧川一益の取次ぎで織田信長に「鷹・13羽」を献上。1581年6月瀧川一益の取次ぎで織田信長に「馬」を献上。1582年3月「甲州遠征」の織田信長に兵糧「米千俵」を献上。53歳。

<北条氏政の御家門(血縁)衆>

北条氏照 (1540~1590)大石・由井・油井・源三・陸奥守・氏輝。北条氏康の三男。武蔵国衆、滝山城主・大石道俊(綱周)の婿養子。1564年三田氏を滅ぼす。1569年武田家と「三増峠の合戦」。下総・下野・常陸に侵攻。1573年古河公方・足利義氏から領土を奪う。1579年9月織田信長に「鷹」を献上。51歳。滝山、八王子、関宿、古河、小山、榎本、水上城主。関東「東征軍」旗頭。

北条氏邦 (1541~1598)藤田・虎寿丸・新太郎・安房守。北条氏康の四男。武蔵国衆、天神山城主・藤田泰邦の養子。石戸城の毛利氏を攻略。本庄城攻略。のち前田家に出仕。鉢形城主。関東「北征軍」旗頭。瀧川一益の没落後に箕輪城主。上野支配。

北条氏規 (1545~1600)今川・助五郎・左馬助・美濃守・氏規・宗円・一睡。北条氏康の四男。母は今川氏親の娘。同盟のため今川義元の人質となり、松平元康と幼年を送る。1565年頃から北条家に復帰。相模三浦郡・上野館林付近を担当。三崎城主、のち1590年には伊豆韮山城主。関東「西征軍」旗頭。小田原籠城ののち、秀吉、家康に出仕、河内狭山藩主。56歳。

上杉景虎 (1554~1579)北条・三郎。北条氏康の息。母は遠山康光の妹。北条幻庵、上杉謙信の養子。付家老・遠山康光の補佐を受ける。上杉景勝との家督争い「御館の乱」に敗れ自害。25歳。<養父・謙信から関東管領職を約束されていたとも。>

関東管領上杉家の版図

↓▽北条氏忠 (*)佐野・六郎・左衛門佐。北条氏康の息(北条氏尭の息とも)。上野国の豪族、佐野宗綱の養子となる。

↓▽北条氏光 (*~1590)竹王丸・四郎・右衛門佐・久野北条。北条氏康の息(北条氏尭の息とも)。北条幻庵の養子。1572年武蔵小机城主。1579年伊豆大平城主として武田勝頼に備える。1582年相模足柄城番。1590年小田原城に籠城。1590年高野山にて没。<氏隆の長ずるに及び、幻庵家の家督を氏隆に戻すか?>

↓▽北条氏隆 (*)北条氏信の息。父の死により、北条幻庵の後見で1585年家督。武蔵小机城主。

<北条氏政の御親類一門衆>

↑↓北条氏繁 (1536~1578)福島・玉縄・善九郎・常陸介・左衛門大夫・「北条康成」。北条綱成の息。北条氏康の娘婿。玉縄衆。1554年「加島の合戦」に先陣。1571年北条氏一門のみ許される「氏」の字を拝領。北条氏政の家老職。戦陣では「尊勝陀羅尼」の幌(母衣)。一時、武蔵岩付(岩槻)城主。下総進出の足懸りとして1576年下総飯沼城主。黄備え旗頭。息に氏舜、氏勝。弟に北条氏秀。<1578年といえば「御館の乱」に絡んで、戦死でもしたのでしょうか。>

↓▽北条氏秀 (*~1583)孫次郎・治部少輔・北条康元玉縄衆。北条氏繁の弟。1559年上野国の沼田氏の跡職を継承。1560年上杉謙信の南下政策により沼田城から撤退。1571年兄とともに氏康から「氏」の字を下賜される。北条氏政の家老職。のち1574年から武蔵国江戸城代。1574年氏繁の出陣に兄の岩槻城の留守居となる。1582年下総関宿城代。<1583年といえば、徳川家との抗争で戦死でもしたのでしょうか。>

↓.垪和氏続 (*~*1580)「北条」・又太郎・伊予守。御由緒・山城衆の一門。伊予守の息。駿河興国寺城主。1557年家督継承。武田信玄の駿河侵攻に対して前線の城将となる。氏康から北条一門の待遇。1546年8月上杉朝定、上田政広の籠もる「松山城攻略」に従軍。武蔵松山城主。1561年上杉謙信に奪回される。1571年駿河興国寺城主として武田家と抗争。1579年に隠居。1128貫。息に康忠。<大道寺家に続いて武蔵平野の重鎮に。><彦十郎は一門か。>

↑.伊勢貞運 (*~1590)備中守・定宗。御家門衆筆頭。評定衆のひとりカ。1576年関宿城の改修奉行。小田原征伐に戦死。<氏康の三人の軍師のひとりか。>

いろいろと関りの有る伊勢氏

↑.小笠原康広 (1531~1598)(北条)・六郎・兵部少輔・播磨守。北条家の外戚。室町幕府奉公衆・小笠原元続の息。北条家準一門。北条氏康の娘婿。小田原の町奉行。北条氏康の武者奉行。1592年徳川家に出仕。息に小笠原長房。<先祖は幕府奉公衆。中央とのパイプ役です。><氏康の三人の軍師のひとりか。>

吉良氏朝 (1543~1603)足利・蒔田・今川・堀越・左兵衛督。北条氏の客将、蒔田殿と呼ばれる。北条氏綱の娘婿・堀越貞基(今川家臣)の息。のち蒔田殿・吉良頼康の養子。妻は北条氏康の娘。一門衆として待遇される。武蔵国世田谷城主。

<北条氏政の小田原三家老>

遠山政景 (*~1580)弥六郎・右衛門大夫・甲斐守・丹波守。御由緒・山城衆の一門。江戸衆。遠山綱景の息(出家していた弟とも)。北条氏政の「政」の字を拝領。結城義親との取次ぎ役。のち葛西城主。<遠山康光の弟ということになります。>

.大道寺政繁 (1533~1590)駿河守。北条家の宿老。御由緒六家の一門。大道寺盛昌の孫。1570年父・資親の跡職を継承し河越城主。河越衆筆頭。1569年武田軍の「伊豆侵攻」に従軍。武田軍の「小田原城攻囲」に籠城。「三増峠の合戦」に従軍。下野「唐沢山城攻略」に出陣。1582年「神流川の合戦」に松田憲秀とともに先陣。上野国松井田城主。信濃小諸城主、上野惣社城主を歴任。息に直繁、直重、直次。

松田憲秀 (*~1590)(北条)・左馬助・尾張守。後北条氏の宿老。松田顕秀(盛秀)の息。母は北条綱成の一門の娘(妹?)。内藤綱秀の縁戚。1555~58年頃家督相続。小田原衆筆頭。2798貫。1582年北条氏直に従い「神流川の合戦」に従軍。先陣を勤める。息に笠原政尭、松田秀治。1589年息の直秀に家督を譲り隠居。<康定、康長、康隆、康吉は一門か。>

↑▽松田康定 (*~1590)筑前守・康光。松田顕秀の次男、憲秀の弟。息に康長、康郷。

▽松田康隆 (*)(北条)・新次郎。松田顕秀(盛秀)の息。憲秀の弟。松田城主。息に康郷(養子?)。<母は北条為昌の娘とも。>

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