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織田軍その1 六道大軍団長(南畿西方面):佐久間信盛・信栄の家臣団と軍団

南畿西方面軍:二代目軍団長、佐久間信盛の軍団。
与力軍団の荒木(池田)村重の軍団、筒井順慶の家臣団、三好康長の軍団。南畿西方面軍:初代軍団長、原田(塙)直政の軍団。

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南畿(西)方面軍 初代軍団長原田(塙)直政


<個人的感想>
 南畿(西)方面軍は石山本願寺に対して天王寺砦を中心に対峙する予定だったが、軍団長・原田直政が荒木・筒井・松永・三好遊撃軍団を糾合し積極的に野戦を挑み 敗戦 戦死した事により軍団崩壊。原田一門は敗戦の責任を負わされ追討されたと推測されます。

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軍団長の跡職を継承したのは織田家重臣筆頭の佐久間信盛ですが、近視眼的に石山本願寺を押さえ込む事に執着し、南大和、西紀伊(雑賀)方面、淡路、阿波方面への積極的な領土拡張に貢献していなかったため、信長様の意向で失脚されたのだと推測されます。

 南畿(東)方面軍は、瀧川一益、のち北畠信雄が軍団長に該当すると考えています。伊賀や、志摩、東紀伊(熊野)方面を視野に入れての配置と推測されます。
 佐久間信盛の追放後は、神戸信孝が南畿西方面軍、信忠の東方遠征により、南畿(西)方面の「御名代」に

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→熊野攻撃、四国攻め 三好(織田)信孝の家臣団/miyosi,nobutaka

更に、四国平定軍と、高野山方面の南畿東方面軍(編入か)に。
天正年間、織田主力軍の変遷 ↓佐久間信盛管轄領、橙(オレンジ)色。

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地方方面軍への移行。
 のちに織田信忠軍団に編入される。


足利幕府再興後
 <将軍義昭 任命 摂津三守護の家臣団>

<摂津衆>  (内部抗争: 和田家 対 池田家 対 伊丹家)
足利義昭の直臣(1568~1573)。幕府・織田家の間で淘汰される。 畿内で共同戦線を張る関係上掲載しました。
 ≪下記の佐久間軍団も参照して下さい≫ 赤文字は本能寺の変以前に死亡した武将。

⇔○和田維政 (1532~1571)足利義昭家臣。近江の豪族。1568年10月将軍・足利義昭任命の守護、幕臣。高槻城主。摂津三守護の一人。織田信長の臣として活動を始めるが、荒木村重と争い属将・中川清秀に討たれる。<尾張犬山の家老・和田新助とは別人です。>

⇔○伊丹親興 (*~*1574)兵庫頭・大和守・貞親。細川氏旧臣、伊丹親永の息。伊丹城主。摂津三守護の一人。1566年松永久秀と結び三好方・池田勝正と抗争。1568年織田信長に応じて三好氏を攻撃。1569年三好三人衆から将軍・足利義昭の籠もる二条御所を救援する。以後信長に従い但馬・山名祐豊、播磨・浦上宗景と戦う。1570年には大坂天王寺で三好康長・三人衆と戦う。1573年足利義昭に従い信長に反する。1574年信長と結んだ荒木村重に追討される。<息子・伊丹正親(兵庫頭・親興1552~1600)は秀吉に出仕。親子で名乗りが類似するため、事績がややこしい>

⇔○池田勝正 (*~*1573)八郎三郎・民部太輔・筑後守。細川氏旧臣、池田長正の息。摂津国池田城主。1566年三好義継と結び、松永方・伊丹親興と抗争。1568年上洛した織田軍に抵抗し降伏。赦免され幕臣となる。のち摂津三守護の一人。1569年三好三人衆から将軍・足利義昭の籠もる二条御所を救援する。1570年6月三好三人衆と通じた一族に城を奪取され、長岡藤孝を頼るが失地回復ならず。

⇔↓▽池田知正 (*~1603)荒木重成・久左衛門・備後守・民部丞。池田勝正の弟。1568年「六条合戦」で三好勢を退ける。1570年7月池田城主。織田信長に従い越前侵攻に従軍。羽柴秀吉とともに「金ヶ崎退き口」に武功。1573年足利義昭が信長に反すると織田方の和田惟政を茨木郡山に討つ(中川清秀の武功)。家臣の村重に造反される。のち織田信長に従い、荒木村重与力。荒木村重の謀反に従い妻子は尼崎七松で処刑された。のち秀吉に出仕。

⇔↓▽荒木村重 (1534~1586)池田村重・弥介・信濃守・摂津守。池田長正の娘婿。元・摂津国池田家家臣。1569年三好三人衆から将軍・足利義昭の籠もる二条御所を救援する。池田勝正の被官から、天正元(1573)年に信長直臣。摂津一職支配を任され1575年、伊丹氏を討伐し有岡城主(元・伊丹城)となる。天正7(1578)年本願寺に通じるが、織田家の圧力に屈し(1580)逐電する。利休七哲のひとり。茨木城、伊丹(有岡)城、花隈城を摂津支配拠点とする。

1573年から織田信長の後援で荒木村重の摂津統一事業。
石山本願寺の勢力圏とその他の寺院勢力。

<摂津衆>  南畿方面軍所属
(遊撃軍団・旗頭)荒木村重(1575~1578)=1578~79年解体。
 摂津遊撃軍団の総指揮権は織田信忠に(1578~1580)。
 後に織田信忠の家老・池田恒興の与力(1580~1582)。


<荒木村重(池田村重)の軍団>


荒木村重 (1534~1586)池田村重・弥介・信濃守・摂津守・道糞。波多野氏傍流、荒木高村(義村)の息。母は中川駿河娘。池田長正の娘婿。元・摂津国池田家家臣。元・池田勝正の側近。のち将軍・足利義昭の家臣となる。1569年三好三人衆から将軍・足利義昭の籠もる二条御所を救援する。1570年池田勝正の被官から離脱、主・池田勝正は追放される。天正元(1573)年に足利義昭の元から離れ、信長直臣。摂津一職支配を任され。1574~1575年伊丹氏を討伐し有岡城主(元・伊丹城)となる。茨木城、伊丹(有岡)城、花隈城を摂津支配拠点とする。天正7(1578)年10月第二次木津川海戦の前に毛利方に転じ、石山本願寺に通じる。1580年織田家の圧力に屈し逐電する。花隈城に脱出するが池田恒興に敗北。備後に落ちる。1582年10月堺に戻り津田宗及茶会に出席。「利休七哲」のひとり。52歳。<主の池田勝正、知正兄弟から実権を奪った下克上。>

▽荒木村次 (*1559~1596)村安。村重嫡男。摂津国茨木城・尼崎城主。明智光秀娘と婚姻。

⇔荒木村正 (1536~1610)志摩守・元清・入道安志。摂津国花隈城主。村重の家老。のち秀吉、秀次に出仕。

⇔↑荒木知正 (*~1603)池田知正・久左衛門・備後守・民部丞・重成。池田勝正の弟。1568年「六条合戦」で三好勢を退ける。1570年7月池田城主。織田信長に従い越前侵攻に従軍。羽柴秀吉とともに「金ヶ崎退き口」に武功。1573年足利義昭が信長に反すると織田方の和田惟政を茨木郡山に討つ(中川清秀の武功)。家臣の村重に造反される。のち織田信長に従い、荒木村重与力。荒木村重の謀反に従い妻子は尼崎七松で処刑された。のち秀吉に出仕。摂津国有岡城代。<信長様の引き立てで村重との主従の地位が逆転し、内心はさぞかし複雑だったのでしょうか。>

⇔▽吹田村氏(1560~1580)荒木村氏。摂津国吹田城主。因幡守(七郎?)の娘婿。荒木村重の舎弟。荒木村重家老。有岡城留守居。20歳。

⇔▽荒木重堅(*~1600)木下重堅・平大夫・備中守。摂津出身。元、荒木村重の小姓。織田家に降伏臣従。のち秀吉に出仕し、実力を買われ宮部継潤の与力となる。1582年備中「冠山城攻略」に先陣を務めた。因幡若桜城主。<木村吉清が荒木家臣だったとすれば、同じような境遇でしょうか。>

荒木元満 (*1556~1595)十左衛門。荒木(元清)村正の息。のちに羽柴秀次の臣。

野村 * (*~1578)丹後守。荒木村重の妹婿。鵯塚砦を守備。のち織田家に降伏するが誅殺される。

▽石田 * (*)伊予守。荒木村重家臣。渡辺、山脇とともに茨木城城代。1578年中川清秀に茨木を追われる。

▽渡辺 * (*~1578)勘太夫。荒木村重家臣。石田、山脇とともに茨木城城代。1578年中川清秀に茨木を追われる。北(岸)ノ砦を守備。多田に落ちるが誅殺される。

⇔○芝山宗綱 (*)監物・俊一。摂津柴山氏。荒木村重家臣。1578(天正6)年安倍良成とともに村重から離反する。織田家に降伏臣従。利休七哲のひとり。

⇔▽安部良成 (*)二右衛門。荒木村重家臣。1578(天正6)年芝山とともに村重から離反する。織田家に降伏臣従。大和田(大矢田)城主。

⇔○木村吉清 (*~1598)弥一右衛門・伊勢守・光清。元・荒木家家臣。織田家に降伏臣従。光秀の信頼厚く、丹波亀山城留守居。秀吉に仕え奥州葛西30万石拝領。息に清久。<惟任光秀軍団へ編入。><荒木重堅とともに元・荒木家臣の出世頭です。>

↑▽郡 宗保 (1546~1615)伊丹宗保・甚七郎・十右衛門・主馬・良列・良保。伊丹親保の息。荒木村重に出仕。織田家に降伏臣従。<1574~75年の伊丹氏滅亡の過程で降伏臣従した伊丹一門でしょうか。>

⇔▽中西 * (*)新八郎。荒木村重家臣。上臈塚砦守備隊長。瀧川一益の調略に応じる。

⇔▽星野 * (*)左衛門。荒木村重家臣。上臈塚砦守備隊長。瀧川一益の調略に応じる。

⇔▽山脇 * (*)勘左衛門。荒木村重家臣。上臈塚砦守備隊長。瀧川一益の調略に応じる。

⇔▽隠岐 * (*)土佐守。荒木村重家臣。上臈塚砦守備隊長。瀧川一益の調略に応じる。

⇔▽宮脇 * (*)平四郎。荒木村重家臣。上臈塚砦守備隊長。瀧川一益の調略に応じる。

池田 * (*~1580)和泉守。荒木村重家老。有岡城留守居。
泊々部 * (*~1580)ほうかべ。荒木村重家老。有岡城留守居。
瓦林 * (*~1580)越後守。荒木村重家老。

⇔○中川清秀 (1542~1583)中川駿河守の息。村重従兄弟。古田織部は妹婿。摂津国茨木城主。荒木村重家臣。1571年「白井河原の合戦」で和田維政を討つ。1573年に村重とともに信長に臣従する。1578(天正6)年村重から離反独立する。織田家に降伏臣従。1581年京都馬揃えに参加。<つらっと離反するところが畿内の戦国武将らしくて逞しいですね。>

▽山脇 * (*)源太夫。元・池田勝正の臣。荒木村重に出仕。1571年8月「白井河原合戦」に従軍。和田惟政軍に勝利。郡(伊丹)平大夫を討取る。中川清秀に与力し「茨木城攻撃」に従軍。

下村 * (*)市之亟。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻撃」に従軍。
熊野田 * (*)孫七。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻撃」に従軍。
熊野田 * (*)千助。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻略」に先鋒軍。
森田 * (*)彦一郎。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻略」に先鋒軍。
鳥飼 * (*)四郎太夫。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻撃」に従軍。
太田 * (*)平八。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻撃」に従軍。
粟生 * (*)兵衛尉。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻撃」に従軍。
戸伏 * (*)摂津の豪族。中川清秀の与力。1571年「茨木城攻撃」に従軍。

⇔▽高山友照 (*~1596)図書・飛騨守。摂津の豪族。松永久秀の家臣。のち和田、荒木村重に臣従。家督を重友に譲渡し、柴田家客将。<信長様の怒りで追放され勝家預かりとなっていたとも・・。>

⇔○高山重友 (1552~1614)彦五郎・右近大夫・大蔵少輔・長房・重出・友祥。キリシタン武将・洗礼名ドン・ジュスト。1578(天正6)年村重から離反する。織田家に降伏臣従。1581年京都馬揃えに参加。摂津国高槻城主。
「天下の奉行衆」 ←切支丹大名について詳しくはこちらを参照してください。

<摂津国人衆> 荒木村重与力。 摂津衆、能勢・塩川・芥川・有馬。
能勢頼通 (*~1581)十郎。能勢頼之(頼幸)の息。摂津能勢郡丸山城主。摂津の豪族、父・頼之は長満に討たれる。塩川氏とは因縁の宿敵。1580年塩川軍を破る。反織田家。1581年織田信長派の塩川長満に暗殺される。

▽能勢頼次 (1562~1626)竹童丸・助十郎・惣右衛門・伊予守・摂津守。摂津の豪族、父・頼之(頼幸)は長満に討たれる。塩川氏とは因縁の宿敵。能勢城主。1581年為楽山城を築城。親明智派。1584年再び塩川家と対立。秀吉の仲裁で和睦。九州征伐に従うが塩川家の盟約違反があり、秀吉の後援で塩川家を滅ぼす。

○塩川長満 (*~1585)伯耆守・国満。伊丹親興の妹婿。摂津多田の豪族。将軍・義昭の軍事蜂起に上洛し将軍御所を守備。娘婿に織田信忠、池田元助。1581年信長の命で能勢十郎(頼之)を多田に誘殺する。息に辰千代、愛蔵。1586年秀吉の命で取り潰し。

▽塩川 * (*)勘十郎。塩川長満の一族。1579年鷹狩の信長を接待。1581年京都「馬揃え」に参加。

▽塩川 * (*~1597)橘大夫・吉大夫。摂津多田の豪族。塩川長満の跡継ぎ。1581年京都「馬揃え」に参加。織田信忠、池田元助の義兄弟。1584年能勢頼次と抗争。秀吉の仲裁で和睦。<信忠の息・三法師さんの没落とともに歴史から消えたのでしょうか。>

○芥川 * (*)元・三好家家臣。1568年織田家に降服。摂津衆として荒木村重配下。村重謀反には従わず織田方。1576年西美濃三人衆とともに刀根山在番衆。1577年河原砦在番。一貫して織田方に忠節。<孫十郎もしくは、美作守・清正のどちらかに該当する人物と推測されている。>

有馬重則 (*)赤松・筑後守。摂津の赤松一族。摂津国有馬郡の豪族。1553年三好長慶の後援で、別所方七城を攻略。三木城を攻囲するが落とせず。播磨に移住する。播磨国三木満田(三田)城主。則景の息。

○有馬則頼 (1533~1602)赤松・九郎三郎・中務少輔。摂津の赤松一族。赤松氏庶流・有馬重則の息。播磨三木淡河城主。1万石。

▽有馬則氏 (*~1584)赤松・四郎次郎。則頼の息。摂津の赤松一族。豊臣秀次に仕え「長久手の合戦」に戦死。


<荒木村重 反織田家 謀反後>
(足利義昭 派遣)

⇔小林家孝 (*)民部少輔。足利義昭の家臣・番衆。毛利家に派遣され将軍御料所(長和200貫)の進上を実現させる。摂津花隈城に派遣され荒木村重の謀反を促す。

(本願寺顕如 配下)
⇔楠木正具 (1516~1576)楠・七郎左衛門・浄泉坊正覚。正忠の息。神戸具盛家臣。のち1556年頃は北畠具教家臣。1567年瀧川一益の伊勢侵攻に父・正忠(正孝)とともに抵抗。敗北後、石山本願寺に出仕。石山合戦に参加。1576年「木津川河口の合戦」戦死。伊勢国治田・八田城主。

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《個人的感想》 東海道の徳川家康のように信長様から抜擢され土豪から守護にのしあがった武将です。
  1571年に和田維政が荒木村重配下の中川清秀に討たれるが、1573年に村重が信長に臣従し、以降は下記に示す摂津の村重軍団が摂津方面の軍事力の一翼を担ったと考えられます。
 摂津には1577年前後に高山右近を筆頭に松永久秀の旧家臣が摂津に多く流れ込んだのではないでしょうか。

摂津支配は1580年以降、信長様の乳兄弟・池田恒興が抜擢されます。ゆくゆく塩川長満、その息橘大夫は織田家の外戚として権威を振るうはずだったと思われます。
原田直政の軍団↓ 柴田勝家の後を受け亰畿の統括者となる。

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1575年:南畿方面軍 山城・大和守護の原田直政の直轄は赤色部分。
外様、のち謀反する松永久秀の勢力と荒木村重の勢力。筒井順慶・三好康長は新参。
足利幕府崩壊後、「武田家撃退後」1575年以降。 南畿(西)方面軍 初代軍団長・原田直政

原田直政(塙 直政)の軍団
(1574~1576)南山城守護・大和守護。

 南畿方面軍大軍団長。
 ▽陪臣 青色文字=織田信忠世代の武将。

原田直政 (*~1576)塙 重友・九郎左衛門・備中守・直俊・直正・正勝。信長の元赤幌衆。柴田勝家と縁戚(後室に柴田勝家の娘とも)。姉妹が信秀の側室(信秀死後に信長室?)、織田信長は義兄弟。尾張大野木の豪族(春日井郡比良村の出身とも)。永禄12年一色藤長に大津長昌と連盟で文書を発給。1569年伊勢北畠氏の大河内城攻略に従軍。1573年4~7月京都「足利義昭追放戦」に従軍。1574年京都の諸政に頭角を現し、山城守護。1575(天正3)年大和守護職となる。同年武田家との「長篠の合戦」に従軍、鉄砲奉行を務め。続いて「越前一揆討伐」に従軍。1576年原田直政、筒井順慶、松永久通と興福寺の薪能を鑑賞。1576年天王寺面の「石山合戦・三津寺砦攻撃」で乱戦の中討死。山城国槙島城主。
<世代的に大野木城主・塙義元の息か。義元の娘は林通安の室、息は森可成の家老。その系譜であれば、林・森・柴田とも近親者で、抜擢の理由も円滑に事が進むからとも考えられますが。><系図では織田信秀・織田信長・柴田勝家と縁戚関係で結ばれる。年齢的に柴田勝家の娘ではなく、姉か妹の婿だと思います。佐久間盛次とは相婿(義兄弟)になります。>
 <原田家の娘と織田信秀または信長の庶子が、京都所司代・村井貞勝の養子となりますので、村井家とも何か縁戚関係があるのかもしれません。山城守護となるのは京都所司代・村井家との関係が重視されたかもしれません。文と武の武の担い手として。><「原田」の名字は、松永久秀が「原田」氏を先祖としているから、対抗意識が生まれたのかもしれません。平家の政権を目指した場合、清盛の娘婿だった原田が山城国守護となって畿内を席捲したという程ですから、それを意識した信長が、尾張丘陵一帯の豪族の原田(大蔵)氏を直政に相続させていたのではないでしょうか。それに、大和守護就任は義兄・柴田勝家が大和から越前へ転任した跡職をうけてのものでしょう。柴田が明智をライバル視していた関係に配慮されたのでしょうか。><大和の双虎(筒井・松永)の融和に努める姿が泣けてきます。摂津有岡城の東方に原田城(城主不明)あり。石山本願寺と池田城を監視するために、原田城を建造したか?>

原田安友 (1556~1638)塙 安友・八右衛門・入道宗悦。原田直政の息。信長に出仕し、馬廻衆。山城槙島城主。医術の心得がある。のちに佐々成政、羽柴秀次、池田恒興、田中吉政の家臣となる。<母が柴田家の人とすれば、勝家の親戚です。佐久間盛政兄弟達と従兄弟になりますね。>

▽原田長光 (*~1590)原田直政の息。故あって秀吉により誅殺される。

▽原田長助 (*)三好・野口・長宗。三好義賢(実休)の息。原田直政の養子。野口冬長の養子。摂津に所領。<平手家と親しい尾張春日井郡の豪族・野口氏との関係はどうなのでしょう。>

▽原田信正 (1554~*)村井重勝・塙 信正・織田信正。母は元・織田信秀の室(信秀死後に信長室?)、織田信長の庶子。原田直政の甥。織田信忠の兄とされる。村井貞勝が養育する。没年は定かではない。<1576年原田直政戦死後の原田家一門の追放劇は、信忠のライバル・織田信正に関わる事件でもあったのでしょうか・・(妄想w)織田信秀の庶子というのなら最初から跡継ぎ候補からは外れているということなのでしょう。雑掌から京都所司代となる村井家との係わりが深いようです。>

<原田直政一門(塙直政連枝)衆><原田一門の追放劇は「本願寺の敗戦」の原因が、直政が畿内の軍団長たちを糾合し、信長様の到着を待たずに合戦に及んだことからでしょうか・・。>

塙 *  (*~1576)(原田)・小七郎。原田直政の家臣。石山合戦で討死。原田直政の代官として山城・大和で威を振るうという。<尾張の塙家の出身。原田直政さんの一門でしょう。>

塙 安弘 (*~1576)(原田安弘)・喜三郎・左衛門尉。直政の叔父。信長直参から原田直政の与力。石山合戦で討死。原田直政の代官として山城・大和で威を振るうという。1573年松岡九郎次郎とともに津田宗及の茶会に参加。1576年直政とともに戦死。<尾張の塙家の出身。原田直政さんの一門でしょう。>

塙 * (*~*1576)(原田)・孫四郎。原田直政の家臣。石山合戦の原田直政の戦死にともない失脚。捕縛される。<尾張の塙家の出身。原田直政さんの一門でしょう。><大和の国人・井戸氏が原田一門の捕縛に積極的に動いたらしいです。>

塙 * (*)三十郎。1575年「長篠の合戦」に馬場信房を討つ軍功。

(塙 御由緒家) 家臣ではない。
塙 義元 (*)大野木・茂元。尾張大野木の豪族。1567年連歌師・里村紹巴を尾張に接待。娘婿に森家の家老・林為忠。<世代的に塙直政の父か?兄か?><森可成の室は為忠の父・林通安の娘。>

林 為忠 (1556~*)小次郎・長兵衛・常吉・入道道休。林通安の息。室は塙義元の娘。森可成、長可の家老。同僚の各務元忠とともに高遠攻略に軍功。義兄弟に森可成、井戸宇右衛門。息に直親、娘婿に各務元峯。信濃飯山城主。<井戸氏は、大和の井戸氏との婚姻。これは大和守護となった塙家と関係ありでしょう。>

⇔村井貞勝
⇔柴田勝家

⇔塙 * (*~1582)伝三郎。信長・信忠の馬廻衆。1575年岩村攻略に塚本小大膳とともに軍功。二条御所にて戦死。

▽塙 * (*)伝三郎の息。織田信雄に出仕。
⇔大野木茂俊 (*)近江坂田郡大野木の豪族。京極・浅井家臣。<同姓、親戚か。>

⇔小野木公郷 (*)縫殿助。丹波豪族。<秀吉家中の人物と混同されるようです。>

⇔小野木重次 (*~1600)清次郎・重勝・縫殿介・縫殿助。尾張出身。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。1573年長浜城主秀吉から所領を与えられる。秀吉「黄幌衆」のひとり②。山城淀城に在番し、1584年5月佐久間道徳の反乱を鎮圧した。杉原家次の遺領を継承。<『武功夜話』では前野党に小野木清兵衛がいる。のちに直参となるのでしょうか。><京都の治安維持に努める姿など、原田直政とかぶらなくもないです。>

↓原田 * (*)与助。佐久間家家臣。1568年信盛に従い上洛軍「箕作城攻略」。1576年津田宗及茶会に島信正とともに出席。

<原田家譜代家老(尾張)衆>
蓑浦 * (*~1576)無右衛門。原田直政与力。石山合戦で討死。<もと六角氏の支配圏、南近江坂田郡箕浦出身か。>

丹羽 * (*~1576)小四郎。原田直政与力。石山合戦で討死。一門のニ介は敗戦の罪で捕縛される。<尾張の岩崎の丹羽一門か、児玉丹羽一門か気になる武将です。>

丹羽 * (*~*1576)二介。原田直政与力。石山合戦の原田直政の戦死にともない失脚。捕縛される。<大和の井戸氏が原田一門の捕縛に積極的に動いたらしいです。>

丹羽玄政 (*~*1576)伝次。原田直政与力。1572年木下祐久、蜂須賀正勝とともに大徳寺代官。1576年直政の配下で山城代官。石山合戦で討死。

岡 * (*)三郎左衛門。直政家臣。1575年「長篠の合戦」に馬場信房を討つ軍功。


「原田直政の与力」
<南山城衆> 
足利義昭の直臣(1568~1573)。幕府・織田家の間で淘汰される。
<原田直政に山城守護としての動員権は与えられていたかと思われます。西岡衆は長岡藤孝が旗頭、北山城衆は明智光秀が旗頭として原田に従うか。>

⇔○長岡藤孝 (1534~1610)細川・幽斎。元・足利義昭の臣。天正元年から織田家に臣従。1569年三好三人衆から将軍・足利義昭の籠もる二条御所を救援する。1573年3月信長に臣従を誓い西岡の地を与えられる、この頃「長岡」と改姓(長岡京があったところだから?)西岡衆旗頭<下津・革島など>。山城国守護・原田直政と南山城を抑える。1575年3月信長の命で丹波の2郡に触手。6月から惟任光秀が旗頭となり丹波侵攻(地位を光秀に逆転される)。1577年(天正5)年松永久秀の河内国片岡城攻めに奮戦。1579年丹後一職支配を任され、一色家を謀略で破る。丹後宮津城主。

⇔○狛 綱吉 (*)左馬進・左京亮・秀綱。南山城の豪族。1572年一時、柴田勝家の与力。1572年12月織田信長から所領を安堵される。1574年山城守護・原田直政の支配下となり、原田(塙)安弘の指示を受ける。1576年直政の戦死により第一次南畿方面軍が解体。長岡藤孝の与力となるか。本能寺の変後、失領し浪人。<70年代初期の京都の治安維持に柴田勝家が警察長官的に活躍していたということでしょうか。><親明智派か。>

⇔○荘村 * (*~*1576)安芸守。南山城の豪族。南山城木津城主。1574年山城守護・原田直政の配下となる。1575年「越前一向一揆征伐」に従軍。1576年2月木津城にて謀反し、原田直政の追討を受ける。

「原田直政の与力」
<大和衆>
 足利義昭の直臣(1568~1573)。松永久秀は当初幕府の権威を後ろ盾に筒井家を追放。幕府・織田家の間で淘汰される。

<松永久秀の軍団> (織田軍の内部抗争 松永家 対 筒井家 1571~1573・1577)
和睦・1568~1571・1574~1577年 1577年解体。
⇔○松永久秀 (1510~1577)弾正忠・弾正少弼・山城守・道意。元、三好長慶家老。弟が優れた武将だった為、兄弟で引き立てられる。1559年から大和侵略を企て、筒井家を駆逐する。三好長慶の死後は三好義継を擁立し、1563年将軍・足利義輝を抹殺。その後三好三人衆や三好康長と対立。1565年三好三人衆と対立、筒井家の逆襲にあう。1566年安宅信康が久秀の拠点・摂津滝山城を攻撃。三好義継が三人衆と対立。三好義継を擁立し堺から大和信貴山城に移る。1567年10月東大寺大仏殿ごと三好軍を焼く。「東大寺大仏殿焼き討ち」。<平ノ重衡以来の出来事。>1568年10月上洛した足利義昭に従い将軍・足利義昭任命の大和国守護、幕臣。1570年「越前侵攻」に退却戦で軍功。摂津「野田・福島の合戦」に従軍、本願寺の挙兵に敗北。1571年頃から武田信玄と結び独自に勢力を拡大。のち摂津にも侵略の触手を伸ばす。義昭は旧国主の筒井家を保護する。1573年将軍・義昭の挙兵に呼応。長く争った三好康長・義継と同盟。1573年12月義昭が追放され、多聞山城を開城降服。1574~1576年にかけては大和守護・原田直政の支配が及ぶ。<原田直政の指示に従い従軍はしていない。>1576年から佐久間信盛の与力として活動再開。上杉家の動向を睨み1577年8月に再び謀反する。<弟・松永長頼の一族である丹波の内藤氏の動向と併せて、今後考えてみたいと思います。>

⇔○松永久通 (*~1577)彦六・右衛門佐・右衛門大夫・金吾。松永久秀の息。原田直政、佐久間信盛の与力。1565年三好義継とともに将軍・義輝を攻撃。1568年から足利義昭に従い幕臣。1571年足利・織田から離反。1573年12月親子ともに信長に降服。織田家に従い原田直政の与力、大和龍王寺山城主。1575年11月原田直政の命で大和「十市城攻撃」。1576年4月原田直政に従い大阪に出陣。。1575年原田直政に十市氏との婚姻を延期される。1576年原田直政、筒井順慶と興福寺の薪能を鑑賞。1576年天王寺表で原田直政戦死。のち佐久間信盛の与力<父親の代役として参陣していた模様>1577年8月に久秀に従い天王寺城を抜け、大和信貴山城に籠城し謀反。1577年10月織田信忠を大将とする織田軍に攻撃され自害。

<大和国人衆> 布施・楢原・岡・高田・万歳・吐田・片岡・柳生。

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三好長慶・義継、松永久秀の家臣団 ⇔詳しくは三好家ページの松永久秀の家臣団を参照してください。

「原田直政の与力」
 筒井順慶の家臣団 
 (織田軍団の内部抗争 筒井家 対 松永家 1568~1571・1573・1577 )
⇔○↓筒井順慶 (1549~1584)藤勝・藤政。興福寺一乗院坊宗徒の頭領。1568年大和支配を目論む松永久秀が足利家に帰順し大和守護となり長く争う。1573年12月久秀が足利義昭と結び織田家に反したことで、筒井家の地位が高まる。1575年「長篠の合戦」に鉄砲50丁を提供。1576年原田直政、松永久通と興福寺の薪能を鑑賞。1576年原田直政の戦死。1577(天正5)年2月雑賀攻略に従軍。8月松永討伐。10月に宿敵・松永久秀を打倒。河内森河内城を守備。1578年5月織田信忠に従い別所征伐「播磨出征」。6月「神吉城攻囲」。8月惟任光秀援軍、丹波出征。10月大和国人・戒重氏を攻撃。1578年11月荒木村重征伐「有岡城攻囲」。12月播磨出征、「三木城攻囲」。1580(天正8)年から大和国一職支配を任される。明智光秀の次男を養子とする。

⇔○井戸良弘 (*1533~1612)才助・若狭守。妻が筒井順慶姉。大和添上郡を領する豪族。大和井戸城主。1568年大和守護となった松永久秀と抗争。1570年3月城を捨て流浪。筒井順慶に従い諸所に戦う。1575年原田直政に従う。1576年原田直政の戦死により山城国槙島城主。筒井家から独立し信長直参。親明智派。<原田直政の一門捕縛に積極的に活動。><美濃の井戸将元とは別人。>

⇔○十市忠之 (*)縫殿介。十市遠高の息、弟・忠次。筒井順慶の与力。1575年十市常陸介・遠長は原田直政に追放される。
↓詳細は下記、佐久間軍団の筒井家を参照してください。

「原田直政の与力」
<河内 三好家の家臣団>
<河内・和泉衆>
 (内部抗争: 三好三人衆 対 三好宗家 対 松永久秀)
 将軍・足利義昭の直臣(1568~1573)。幕府・織田家の間で淘汰される。 1576年織田家に長く抗するが帰順し、石山本願寺攻撃の時点では共同戦線。

三好義継 (*1551~1573)熊王丸・孫六郎・左京大夫・重存・重好・義重。十河一存の息、嫡流・義興の跡を継ぎ、三好家の宗家。河内国飯盛山城主。1565年松永久秀の奨めで将軍・義輝に害を及ぼす。1568年10月将軍・足利義昭任命の河内半国守護、若江城主となる。1569年三好三人衆から将軍・足利義昭の籠もる二条御所を救援する。1572年河内交野城の畠山氏を攻撃。信長・義昭の追討軍に追われる。足利義昭が信長に反するにおよび結ぶ。1573年親織田派の家老、若江三人衆により謀反され自害。23歳。

⇔↓○三好康長 (*)孫七郎・山城守・笑岩。三好長秀の息。三好家の長老、長慶の叔父。三好三人衆と結び、松永久秀と対立。1568年の信長の上洛以来、長く信長に対抗する。1569年1月足利義昭の拠る本國寺を襲撃。1570年石山本願寺と同盟し野田・福島砦に籠城。1573年足利義昭、松永久秀、三好義継と反信長同盟を結び河内高屋城に籠城。1575年再び河内高屋城に籠城。1575年4月降服赦免される。1576年原田直政に従い「本願寺攻囲戦」に従軍、先陣を務めるが敗走。1580年本願寺との和睦の仲介役を務める。1582年に阿波国守護、神戸信孝を養子に迎える。<下記、三好康長の家臣団と軍団を参照してください。>


≪個人的感想≫ 柴田勝家の北陸御番役就任により空席となった畿内の旗頭に、柴田の縁戚である原田直政が抜擢されたのでしょう、
 原田直政が軍事指揮権を発揮するのは1574~1576年の頃に限定されます。1575年の「長篠の合戦」以降は絶頂期かと。
山城・大和守護の原田直政に対して、惟任光秀・長岡藤孝が どちらが上位になる指揮権を持つのか気になるところです。
佐久間信栄が原田直政の追い落としに関係しているような気がします。

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「尾張半国、当方(今川)分国。」
斯波義達の敗戦により今川那古屋家の支配。

<今川家に対して北西三河・広瀬で佐久間家も独立。織田弾正家とともに、共闘し発展するか。津島・勝幡の南、蟹江。熱田の南、山崎。>
1560年「桶狭間の合戦」に今川義元、討死。尾張内の山崎・蟹江の佐久間拠点から、佐久間家の西三河再進出。
下社の柴田家は岩崎丹羽の抑え。落合の戸田氏は品野城にて離反した桜井松平家次の抑え。

西三河衆筆頭・佐久間信盛
 佐久間信盛の家臣団と軍団 

(1576~1580)二代目 南畿(西)方面軍大軍団長。
1578年4月織田信忠が本願寺周辺の「(稲)薙ぎ捨て」。1577~1579年にかけて織田信忠が畿内の軍事指揮。1580年8月教如退去。


「一、信長家中にては、進退格別に候か。三河にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力(筒井は含まない)、河内に与力、和泉にも与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力子分の者どもに候へども、七カ国の与力、其の上、自分の人数相加え、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度をとるべかざるの事。」-信長- <佐久間一族の本貫地は三河国にあるのでしょう。尾張より最初にあげられるほどですし。>

佐久間信盛 (*~1581)山崎・半羽介・右衛門尉。五器所佐久間氏の別系で、尾張国「山崎城」を本拠とする佐久間氏。信晴の息。弟に信辰(信直)、明獄。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。伊勢神宮内宮御師・福井勘右衛門から戦勝祝い。三河西加茂郡梅坪城攻略。三河伊保城主。1566年寺部城・鈴木重教を攻撃。1568年「上洛戦」に従軍。近江永原城主。1575年水野信元の失脚後は三河刈谷城主。1576年4~5月「本願寺攻撃」に従軍(原田直政戦死)後、尾張・三河・大和・河内・和泉・紀伊の与力を率いて本願寺と対陣する。1580年に高野山に蟄居。<西三河広瀬の領主、佐久間入道全孝の勢力を継承して、織田家の中で重きをなしていたのでは。信長の叔父・織田信次、弟・織田信時(秀俊)と深い関わりを持つ様子です。織田信広とも地域的に主従関係があったのでは。信時に到っては佐久間信盛は、後見人だったのでは。><佐久間信盛軍団の中核となる部隊は三河衆(西加茂の勢力か)のようです。それで1572年「味方ケ原の合戦」には主力として動因されたのでしょう。1575年当時は水野信元が武田家に内通していることを利用していたようで、信盛自身もそれにのり、1575年武田勝頼に「お見方致す」書状を送り、長篠への出陣を促し罠をかけているので、根底の部分での信長との信頼関係というか繋がりの深さにかけては重臣達の中でも一番だと思うのです。1580年の追放劇も「高野山攻め」宣戦布告のきっかけを作るべく、のちのち織田家と高野山との直接対決へと繋がる信長様なりの布石だったのでしょうか・・・。はんぱのすけ~
 中国攻めに際しても信長様は武田勝頼を欺いた手法で、毛利軍を誘き出そうとして、明智光秀ともわざと不和の関係を演出していたとか・・・。(佐久間・明智のしるところでなく信長様の独断での演出だったのでしょうか、う~む。謎だ。)><石山本願寺戦後処理の無理やりな追放は、鎌倉時代「元寇」後に取り潰された防衛司令官・安達泰盛のようです。>

<佐久間信盛の一門・連枝衆> 

「甚九郎(信栄)覚悟、条々書並候へば、筆にも墨にも述がたき事。」
-信長-

1569年今川氏真の降伏により徳川両職体制。
※ 家臣ではないが佐久間御由緒ということで掲載。
(三河国 広瀬佐久間) 岡崎松平広忠と抗争。
⇔※▲佐久間重行 (*~1549)(広瀬)・九郎左衛門・入道全孝。尾張・西三河衆。1533年三河加茂郡西広瀬城主に抜擢される。1540年~1548年安祥城主・織田信広の西三河経営に協力。1549年岡崎城主・松平広忠を暗殺する。1554年息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。>

※△佐久間 * (*~1554)(広瀬)・長七郎。尾張衆。佐久間全孝(重行)の長男。1540年~1548年安祥城主・織田信広の西三河経営に協力。1554年三宅一族の攻勢により西広瀬城を奪取される。遺領は佐久間信盛の弟・信辰(信直)が継承。<明智弥平次が三宅一門とすれば、佐久間一門とは宿縁の間柄。明智光秀の讒言で佐久間信盛が失脚したという噂に関係があるかもしれません。>

(五器所佐久間)
※▽佐久間盛経 (*)(五器所・山崎)・弥太郎・盛通。安盛の息。佐久間信盛の叔父。息に盛重、盛次。1560年「桶狭間の合戦」に軍功。1569年北畠氏攻略に従軍。孫に奥山弥太郎。<本家の奥山弥太郎と同名その存在がややこしい。事績が重複するかも。><朝次→安盛→盛通(盛経)の三代のうち、いずれかが入道全孝(重行)と同一人物でしょうか。>

⇔※佐久間盛重(*~1560)(五器所)・大学助。信長弟、織田信勝老臣。親信長派。五器所城主。1556年織田信勝と信長の跡継ぎ争い「稲生の合戦」に信長側。丸根砦主将。1560年5月「桶狭間の合戦」の前哨戦丸根砦で討死。のちの柴田勝家配下の猛将となる佐久間盛政の叔父。<五器所佐久間を誰が継承したのかが重要。><信勝の老臣・次右衛門は盛重の弟のひとりか。>

⇔※○佐久間家勝 (*)(五器所)・与六郎・(盛明)・政明。盛明の息。織田信勝の元家老職・佐久間盛重の討死の跡、五器所の惣領家。織田信忠付きの尾張在地奉行として活躍。1577年畿内に派遣されていた織田信忠軍の留守居として松永久秀の人質を近江永原の屋敷にあづかる。1582年安土城二の丸留守居役。尾張五器所城主。<二ノ丸の番人は織田信忠軍団で構成されてるということでしょうか?蒲生さんも、そゆこと?>

⇔○佐久間盛次 (*~*1574)(五器所)・久六郎・久右衛門尉・(与右衛門)。五器所佐久間氏。室は柴田勝家の姉妹。末森城主、織田信勝の家老。兄、佐久間盛重は1560年「桶狭間」の前哨戦で丸根砦にて松平勢により討死。子息、佐久間安政を紀伊豪族・保田家に養子にだす。また勝政は柴田勝家の婿養子。勝安は勝山城主・柴田義宣の養子。<柴田勝家と縁戚関係で結ばれる。息の佐久間盛政が父の戦死後家督、若くして武功を挙げるということなので1575年の越前進攻以前に戦死ということでしょうか。>

▽佐久間政実 (1561~1616)(五器所)・河内守。尾張五器所城主・佐久間与六郎(家勝)の息。松永久秀の子息(人質)らと育つ。<佐久間嫡流か?>

(大高 佐久間)
佐久間 * (*~1558*)甚四郎。1558年大高城を今川軍に奪取され、一族の多くが戦死。大高城主。<山口教継が大高城を奪ったことになっていますが、松平勢とも言われています。1560年には今川家の支城であることは間違いないです。><信盛の甚九郎と名乗りが似ていますから、山崎佐久間なのでしょう。>

(山崎・のち「広瀬・高橋」佐久間)
※▽佐久間信辰 (1537~1599)(山崎・広瀬・高橋)・左京亮・信直・入道休斎。佐久間信盛の弟。弟に明獄。1560年兄・信盛とともに善照寺砦に籠城。1569年北畠氏の伊勢「大河内城攻囲」に従軍。尾張山崎城主。1577年上洛し津田宗及茶会に出席。1580年の追放事件後一時消息不明。のち信雄に出仕。62歳。息に重行。孫に重信。<三河広瀬城の佐久間九郎左衛門・全孝の跡職を継承していたという説もあります。西加茂郡は清洲同盟後に家康の了承を得て織田軍が平定し、佐久間信盛は伊保城を居城にしたという説もあり、一時期織田の領地だったのではないでしょうか。高橋衆とよばれる一党は、「本能寺の変」後に本多重次与力とされたのではないでしょうか。佐久間信盛が領内で酷使したという配下は高橋衆のことでしょう(妄想~。>

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