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下剋上その2 畿内・四国の天下人:三好之長・範長(長慶)の家臣団と軍団、松永久秀の家臣団

三好政権

三好家臣団は『岸田家文書』、『周参見家文書』、『斎藤家文書』、『香西家文書』に。


三好家の主君、細川京兆家。

 ⇔●細川澄元 (1489~1520)六郎・民部少輔・右京大夫。丹波・摂津・讃岐・土佐守護。「下屋形」阿波守護・細川義春の息。応仁の乱を鎮めた「半将軍」細川政元の養子。息に細川晴元。娘婿に畠山義宣(義堯)、有馬重則。<高国との対立の図式は、上屋形家臣団と下屋形家臣団の対立か。>

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三好範長(長慶)の家臣団と軍団

(1549~1564年頃)主家の細川家家臣団を統括。
<三好家 歴代当主> 初期、細川晴元政権を支える。のち離反し足利義輝を据える。細川氏綱が長慶に擁立され管領となる。

(和泉国堺)
三好之長 (1458~1520)(小笠原)・主膳正・筑前守・長輝・入道喜雲。長之の息。弟に長尚、勝時、勝宗。阿波守護細川家家宰。細川義春の臣。管領・細川政元の養子となった細川澄元の執事。1506年上洛し転戦。1507年細川政元の死により家督争い、細川澄之を擁する香西元長と主導権を争い。近江青地、甲賀山中氏を頼る。澄之一党は、もう一人の養子高国を擁立する尚春、政賢により討たれる。足利義澄、細川澄元を擁立するも、対立し隠居。長秀が跡職を継承する。1509年澄元の養子兄弟・細川高国と大内義興との「如意ケ嶽の合戦」で敗退。足利義稙の将軍復帰。1509年高国の娘婿・北畠材親により伊勢山田の嫡子・長秀、頼澄が戦死。1511年再び渡海し堺に上陸。上洛するが細川高国、(典厩家)細川尹賢と抗争。大内義興との「船岡山の合戦」で敗退し、細川政賢は戦死。1520年息の芥川(三好)長光、(三好)長則とともに戦死する。息に長秀、頼澄、(芥川)長則、(芥川)長光。<阿波守護・細川成之の「之」の一字をあたえられる(偏諱)。成之といえば三河守護でもあり、東海道に縁をもつ。三好家が東海道方面に関心を持っていなかったということはないと思います。>

▽撫養* (*)むや・小笠原・掃部助。四国阿波板野郡の豪族。三好家家臣。之長の家老。撫養(岡崎)城主。


伊勢家・三好家。
(伊勢国山田)

三好長秀 (1479~1509)三好之長の息。弟に頼澄、(芥川)長則、(芥川)長光。従兄弟に政長。管領・細川政元、その養子・澄元に出仕。政元が澄之に暗殺された「永正の錯乱」に、澄元を擁立。細川澄元の執事となる。1509年大内義興、細川高国の擁立する将軍・足利義稙の軍に敗北。「如意ケ獄の合戦」に敗戦。伊勢山田に逃れるが、高国の娘婿・北畠材親の追討軍により、頼澄とともに自害。31歳。息に元長、康長。孫に範長(長慶)。<香西元長、もしくは薬師寺長忠の「長」の字でしょうか、のちに、畿内に「長」の字もしくは、「秀」の字が流行する兆しをつくったのは、長秀さんの存在があったからなのでしょうか。>

三好頼澄 (*~1509)三好之長の息。兄に長秀。弟に(芥川)長則、(芥川)長光。細川澄元家臣。1509年兄・長秀とともに細川高国・大内義興と戦う。伊勢山田にて北畠材親軍に討たれる。

⇔▼細川晴元 《1527~1549》(1514~1563)京兆家。澄元の息。
1531年細川高国を晴元が「天王寺の合戦」に破り表舞台に復帰。

(和泉国堺)
三好元長 (1501~1532)山城国守護代・筑前守・弾正少弼・長基。三好長秀の息。三好之長の嫡孫。弟に康長。従兄弟に芥川(三好)長逸、政成。細川高国の重臣・細川尹賢に香西元盛が討たれた為、香西元盛の実弟・柳本賢治、義兄・波多野稙通達が「西七条川勝寺の合戦」にて12代将軍足利義晴、細川高国を破り追放。1526年阿波にて細川晴元を擁して挙兵。◎1527年足利義澄の息・足利義維(義晴の弟)を細川晴元とともに擁立し、和泉堺に新幕府を樹立する。山城国下五郡守護代。1529年柳本賢治と対立し阿波へ。12代足利義晴と細川高国に対し足利義維・細川持隆を立てて争うが、1532年主・晴元の裏切りにより木沢長政・本願寺証如の一揆軍に攻囲され、堺の北荘の法華宗・顕本寺で自害する。弟に三好康長。息に範長(長慶)、之康(義賢)、(安宅)冬康、(十河)一存、(野口)冬長。

分家の三好政長と対立。新幕府1532年崩壊。

⇔↓▽○三好康長 (*~*1583)孫七郎・山城守・入道笑岩。三好長秀の息。三好家の長老、長慶の叔父。三好三人衆と結び、松永久秀と対立。1568年の信長の上洛以来、長く信長に対抗する。1569年1月足利義昭の拠る本國寺を襲撃。1570年石山本願寺と同盟し野田・福島砦に籠城。1573年足利義昭、松永久秀、三好義継と反信長同盟を結び河内高屋城に籠城。1575年再び河内高屋城に籠城。1575年4月降服赦免される。1576年原田直政に従い「本願寺攻囲戦」に従軍、先陣を務めるが敗走。1580年本願寺との和睦の仲介役を務める。1582年に阿波国守護、神戸信孝を養子に迎える。<下記、三好康長の家臣団と軍団を参照してください。>

三好範長 (1523~1564)三好長慶・千熊丸・孫次郎・筑前守・修理大夫・入道長慶。三好元長の息。管領・細川晴元の執事。和泉・河内代官。畠山重臣河内守護代・遊佐長教の娘婿。1532年元長が堺で一向一揆に破れ自害。1541年細川高国の妹婿・塩川政年を攻撃。1542年「河内太平寺の合戦」で木沢長政を倒す。1548年細川氏綱を擁立して、細川晴元と対立。1549年摂津「江口の合戦」で細川晴元に勝利。三好政長を討つ。将軍・義輝の近江中尾城を破却。1552年摂津芥川城を攻略し摂津守護代となる。1553年細川晴元と戦いこれを芥川城に幽閉。1549年足利義輝が逃亡し和睦する1558年まで畿内の盟主となる。(典厩家)細川尹賢の息・細川氏綱を擁し 新幕府1549-1558年。
 1558年将軍・義輝の帰京を許し山城国を放棄。足利・六角と協調。1559年河内国守護代・安見直政(宗房)を追放し、畠山政国の息・高政を高屋城に入れる。のち高政を追い三好義継を入れる。1559年織田信長上洛。1560年浅井長政が六角氏から離反。信長が今川義元を撃退。三好家の松山・松永が伊勢乱入の噂広がる。1560年飯盛山城に籠城した畠山高政を追い飯盛山に入城。弟・十河一存を和泉岸和田に入れ摂津・河内・和泉を制圧。宣教師ガスパル・ビレラの布教を許可する。1562年「教興寺合戦」に勝利。畠山、六角、筒井勢力を掃討。1564年飯盛山城にて病死。43歳。息に義長(義興)、娘婿に岩成友通。<晩年は松永久秀に権力を奪われつつあったということですが。権力を手中に収めると政治への関心を無くしてしまったのかもしれませんね。領土欲というものも欠落していたのかもしれません。足利尊氏と性格が似ているかもしれませんね。><源ノ満仲の入道名「満慶」にちなんで源氏の再興をかけて「長慶」と変名したのでしょうか。>
1536年大内義隆「勘合貿易」再開。1542年山名祐豊・但馬生野銀山経営再開。

↓▽三好義長 (1542~1563)(遊佐)・筑前守・慶興・義興。三好長慶の嫡男。義賢の死後、1562年河内「教興寺の合戦」で畠山高政軍を破る。1563年摂津芥川城に急死。22歳。十河一存の息・三好義継(十河重存)が跡職を継承する。<将軍・足利義輝とは良好な仲だった様子。六角氏との対立は足利義輝が三好嫡流と昵懇となったための六角義賢の嫉妬だったのでしょうか。>

幕府管領:細川氏綱=三好範長(長慶)政権

 ⇔↓●細川氏綱 <管領職:1549-1563>(*~1563)(典厩家)・二郎・右京大夫。(典厩家)細川尹賢の息、細川高国の養子。山城・丹波守護。摂津淀城主。1546(天文15)年将軍・足利義晴が細川晴元に代え管領に起用するが三好長慶の反対にあう。義晴は嫡男・義輝に将軍職を譲渡し隠居。1546年細川高国・木沢長政の残党に擁立され「細川氏綱の乱」。1547年畠山家内衆・遊佐長教との連携で優勢に立ち、足利義晴と和睦。細川晴元と抗争。のち三好長慶と結び、1549年細川晴元に代り管領職。将軍・義輝の近江中尾城を破却。最後の管領となる。山城淀城に病死。<細川晴元と対立した三好長慶に擁立された管領。>


《個人的感想》 1558年将軍・義輝の帰京を許す・・。
将軍・義輝の御相番衆となるメリットは何か。「修理大夫」への任官の意味は。すべては息子・義長(義興)の為か。
みすみす政権を手放した失策だったのか・・。解釈に困ります。わざわざ不利になるようなことをするでしょうか・・。
細川氏綱の死により、将軍・義輝=三好とのパイプを造ろうとしてみたが、義輝が一筋縄ではいかなかったということか。
1562年の政所・伊勢氏の追放までは、三好親子と将軍との足並みが揃っていたのかもしれませんね。
それからの、三好家の凋落は一門の主要人物が相次いで死亡したことによるものでしょう。
次期当主・義長(義興)の死と、織田家の次期当主・信忠の死からの凋落の共通点。
歴史は繰り返されるようです。
三好義長、浅井長政、織田信長の「長」揃い踏みがみたかったものです。

三好範長(入道長慶)28歳、1549年「江の口の合戦」に細川晴元を撃破。摂津芥川城を拠点に、山城・丹波・和泉・淡路・阿波・讃岐・播磨・伊予に影響力を及ぼす。

阿波守護家 細川氏

 ⇔○細川持隆 (1497~1553)讃岐守・持重。阿波守護。細川之持の息。義春の孫。大内義興の娘婿。1512年家督。従兄弟の細川晴元を後援。足利義維、細川晴元を養育。管領・細川高国と抗争。1531年和泉に渡海し、高国を追討。1539年赤松晴政を後援し出雲の尼子晴久と抗争。1549年晴元が三好長慶に追われる。1553年足利義栄を擁立するが、家臣・三好義賢により討伐される。57歳。息に真之。

<三好家一門衆・第1世代>

三好義賢 (1527~1562)豊前守・之康・之虎・入道実休。三好元長の息。三好長慶の弟。阿波代官。勝端城主。久米義広の娘婿。岡本牧西の娘婿(小少将)。1553年主君・細川持隆を誘殺し、阿波の実権を掌握。1552年讃岐の香川信景が毛利家に離反するが攻撃し降す。伊予にも勢力を拡大する。十河一存が岸和田城主となったのち、阿波・讃岐両国を支配。のち河内高屋城に入城。1562年に畠山高政・湯川直光・根来衆との泉州「久米田の合戦」に敗死する。息に長治、(十河)存保。妹婿に一宮成祐。<六角義賢と同名なのは何故でしょう。><側室に悪女と名高い「小少将」。SSSだもんな・・。>

安宅冬康 (1528~1564)(三好)・神太郎・摂津守。三好元長の息。三好長慶の弟。淡路代官。由良・洲本・たけの口城主、安宅秀興の養子。淡路水軍を束ねる。1561年畠山高政と抗争。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との「久米田の合戦」に淡路衆の旗頭。1562年兄・義賢亡き後の三好一門の有力者だったが、松永久秀・三好三人衆の讒言により、三好長慶に誘殺される。

⇔▽松山* (*)新介。三好長慶の侍大将。譜代衆・旗元衆の旗頭。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。1568年織田軍の上洛に備えて奈良但馬守とともに摂津高槻城に籠城。のち織田信孝家臣。<息の長い侍大将ですね。織田家に出仕する頃にはかなりの老齢か。>

⇔▽▽斎藤利三 (1534~1582)内蔵助。元稲葉良通の臣。斉藤伊豆守・利賢の息。母は明智光秀の叔母(もしくは姉妹)。稲葉良通の兄(通明)の娘婿。上京して松山新介家臣。主家・稲葉家を出奔し光秀に仕える。四国土佐国の戦国大名・長曽我部元親と縁戚(利賢娘が元親の室)。1579年8月丹波国黒井城主。1580年7月丹波国内の寺社奉行。1582年織田信長から稲葉与力に戻るか切腹するように命ぜられる。本能寺直前には進退窮まっていた。「山崎合戦」敗走後に近江堅田に潜伏。息に利光、(明智)三存。義兄弟に長曽我部元親。

⇔▽船越景直 (1540~1611)五郎右衛門・左衛門尉。淡路水軍。冬康の家臣。1581年織田家に従う。

十河一存 (*~1561)(三好一存)・又四郎・民部大夫・讃岐守。三好元長の息。讃岐の十河景滋の養子(実子・金光早世の為)。三好長慶の弟。関白・九条稙通の娘婿。娘婿に河内守護代・遊佐氏。四国で「鬼十河」と讃えられる勇者。1549年摂津「江口の合戦」で細川晴元に勝利。三好政長を討つ。讃岐代官。十河城主。和泉代官。1555年岸和田城主。1561年有馬温泉に湯治中急死。<「十河額」という髪型を流行させて、その後のサムライスタイルを確立したファッションリーダー。当時の武士の憧れの人物なだけあって、かなりのイケメンのはず!!??浅井長政と、織田信長は三好家の影響で、六角氏からの離反や、尾張の統一が正当化できたのではないのでしょうか。今川義元が上洛する気があったならば、三好家追討のために六角家との何か密約が成立したとかなのでは・・。>

▽十河一行 (*~1575)因幡守。高屋城主・三好康長と結び香西長信とともに和泉国新堀城にて織田軍と抗争。<庶流の十河氏でしょうか。三好家の中での若手部将でしょうか。><1568年の信長上洛から1575年までの厳しい時期を戦い抜いた部将ですね。>

野口冬長 (*)(三好冬長)・菅・五郎兵衛・河内守。三好家一門。三好元長の息。兄に長慶。淡路水軍の将。野口(菅)・則守の跡職を相続。淡路松本城主。<安宅家没落後の淡路衆の指導者でしょうか。>

阿波 細川氏

 ⇔▽細川真之 (*~1582)(大内)・六郎・掃部頭。阿波守護・細川持隆の息。三好家の専横を嫌い長曽我部元親と同盟する。三好長治、篠原長房の対立により守護権力を回復。1577年一宮成助、伊沢頼俊の協力で異母兄弟・三好長治と争う。三好長治は自害。1582年長治の弟・十河存保に破れ自害。

<三好家一門衆・第2世代> 1564年長慶死後、政権崩壊。

三好義長 (1542~1563)筑前守・慶興・義興。三好長慶の嫡男。義賢の死後、1562年河内「教興寺の合戦」で畠山高政軍を破る。1563年摂津芥川城に急死。22歳。十河一存の息・三好義継(十河重存)が跡職を継承する。<大内義興を意識しての改名でしょうか。>

▽三好長朝 (*)弓之助・忠康。三好義長(義興)、義継の臣。
▽三好盛政 (*)三好義長(義興)の臣。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。1562年畠山高政との「久米田の合戦」に軍功。

三好長治 (1553~1577)長春。義賢の息。篠原長房の補佐で家督相続。後見人篠原長房とやがて対立抗争、異母兄弟・細川真之を担ぐ。のち守護権力を回復した細川真之と争い、一宮成助、伊沢頼俊に攻撃され自害。
 
十河存保 (1554~1586)三好存保・民部大輔・河内守。義賢の息。叔父・十河一存の死後、讃岐十河城主。1573年阿波国上桜城主・篠原長房親子を攻撃する。1582年「中富川の合戦」で長曽我部元親に敗戦する。阿波の勝端城主。<家督の玉突き現象。>

↓▽十河存之 (1546~1586)三好存之・存親・隼人祐。十河一存の息(長男・庶子)。十河壱岐守の養子。十河氏一門。1584年長宗我部氏に降伏。十河城から退去する。存保に従い豊後「戸次川の合戦」に戦死。十河城主。<何ゆえ家督が・・・。重臣達の意向もあるのでしょうか。>

三好義継 (*1551~1573)(十河重存・しげなが)・熊王丸・孫六郎・左京大夫・重好・義重。十河(三好)一存の息。三好長慶の嫡男・三好義興の跡を継ぎ三好家当主。弟に安宅信康・清康、十河存之。1564年松永久通、三好長逸、広橋国光を従え上洛。1565年松永久通とともに足利義輝を殺害。1568年10月足利義昭の任命した守護職をうけ幕臣。1569年三好三人衆の攻撃から将軍・足利義昭を二条城に救援する。1572年河内交野城の畠山氏を攻撃。信長・義昭の追討軍に追われる。足利義昭が信長に反するにおよび結ぶ。1573年親織田派の家老、若江三人衆により謀反され自害。23歳。息に長元。河内国飯盛山城主。<家督の玉突き現象。十河が三好本家を継ぐ代わりに、阿波三好家が讃岐十河を継いで不公平感を無くしたのでしょうか。>
▽三好政保 (*~1573)筑前守。三好義継の家老。<「筑前守」の官位・・・。実は三好嫡流か。>

▽三好通清 (*)主水正。1565年将軍・義輝襲撃に従軍。

▽金山武春 (*)駿河守・長信・信貞。武興の息。三好義継の家老。若江三人衆に暗殺される。

▽小寺長隆 (*~1573)1573年「若江城の攻防戦」に戦死。<播磨小寺氏?、黒田氏縁戚?>

▽那須家富 (*)久右衛門・宗富。1573年「若江城の攻防戦」に戦死。<畿内の那須?>

▽岡 友満 (*~1573)飛騨守。1573年「若江城の攻防戦」に戦死。<松永久秀家臣の岡氏の一族か。>

<淡路水軍>
 1516年大内義興の「勘合貿易」永久独占権。

安宅信康 (1549~1578)(十河)・甚太郎。一存の息。兄・安宅冬康の養子。石山本願寺と同盟する。1575年織田家に臣従し、1577年毛利水軍との第一次「木津川河口の合戦」に敗れる。


安宅清康 (*~1581)(十河)・河内守。一存の息。兄・安宅冬康の養子。1578年兄の戦死後、家督。1581年羽柴軍の攻撃を受け降伏。本領を安堵される。のち急死する。<安宅家家没落後は野口家が淡路の旗頭だったのでしょうか。>


<三好家一門(血縁)衆・親族> 
1564年長慶死後、政権崩壊。長逸・政康が実権を握る。


(河内高屋・三好)
⇔↑三好康長 (*~*1583)孫七郎・山城守・入道笑岩・咲岩。三好長秀の息。父・元長の弟。三好家の長老となる。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。1562年「教興寺合戦」に阿波衆の旗頭。畠山高政との合戦に軍功。のち河内国高屋城主。1570年石山本願寺と同盟し野田福島砦に籠城。1575年再び高屋城に籠城。1575年織田信長に降服し臣従。1576年「本願寺攻囲戦」に先陣。敗退し大将の原田直政は戦死。1577年阿波国にて三好長治が細川真之に攻撃され自害、四国の三好本拠が危うくなる。1582年阿波国守護を拝命し、四国に渡海。

⇔▽三好康俊 (*~1582)徳太郎・式部大輔・少輔・元存。笑岩・康長の息。岩倉城主。三好長房の娘婿。1579年長宗我部元親に降伏臣従。1579年岩倉城外にて計略を用い三好軍を破る。阿波三好家の家老・矢野駿河守(矢野国村)、森飛騨守、河村右馬助・三好越後守らが戦死する。のち離反。1582年長曽我部元親の阿波侵攻に最後まで抵抗する。息に俊永。

▼塩田* (*)一閑。三好康俊の家老。

▼横田宗昭 (*)内膳。三好家一門。三好康俊の家老。<中村家の家老・横田村詮と同一人物とも。>

(摂津椋橋・三好)
三好長直 (*)伊賀守。摂津尼崎の豪族。椋橋城主。

▽三好長房 (*)備中守。三好伊賀守・長直の息。三好康長の直臣。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。1566年三好義継に従い堺攻撃。1568年義昭・信長の入京には、三好義継の下から離れ三好三人衆方。阿波に退く。1570年7月阿波より渡海し摂津野田・福島城に籠城。のち三好康長に従う。息に房一。娘婿に康俊。<康長の息・康俊(長房養子)が阿波岩倉城を拠点としているということは、長房も岩倉と縁があったということか。>

▼三好房一 (*)新右衛門尉・丹後守。三好康長の家臣。織田信長に出仕。「野尻・草部の合戦」に軍功。のち秀吉家臣、黄幌衆。

(河内三箇山・三好)
三好政成 (*~1562)下野守。祖父・三好長秀の弟・頼澄の息。三好政康の兄。1561年畠山高政の攻撃により三箇山城にて戦死。

三好政康 (1528~*1615)下野守・政生・釣閑斎・宗渭・(政勝とも)。三好長秀の弟・頼澄の息(次男)。兄に政成。「三好三人衆」のひとり。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との「久米田の合戦」に摂津衆の旗頭。三好長慶の死後、三好義継を擁立。松永久秀と協力して将軍・足利義輝を討つ。足利義栄を将軍に擁立する。のち久秀と対立し篠原長房の援軍により松永軍を追う。1566年足利義栄(義親)、細川昭元を伴い上洛。1567年主の三好義継とも対立。織田家の上洛により阿波に落ちるが、荒木村重の謀反に乗じ再上陸。一時、摂津・河内を回復する。茶道に優れる。<名は政勝とも。敵対していた三好政長の息となると、ややこしくなります。別系統だと思いますが・・。>

(山城飯岡・三好)
三好長逸 (*~1573*)(芥川)・孫四郎・日向守・長縁。祖父・三好長秀の弟・(芥川)長則の息(長光の息とも)。三好・芥川評定衆のひとり。丹波方面の軍事を担当する。山城南半国を支配。山城飯岡城主。1558年山城「鹿ヶ谷の合戦」で足利義輝に敗れる。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との「久米田の合戦」に摂津衆の副将。松永久秀と協力して将軍・足利義輝を討つ。足利義栄を将軍に擁立する。のち久秀と対立し1566年篠原長房の援軍により松永軍を追う。1566年近江六角氏が同心。1566年足利義栄(義親)、細川昭元を伴い上洛。1567年主の三好義継とも対立。摂津芥川城主。織田家の上洛により阿波に落ちるが、荒木村重の謀反に乗じ再上陸。一時、摂津・河内を回復する。三好三人衆のひとり。息に長将。<明智光秀の惟任日向守の官位はこの方を意識してのような気がするのですが・・。>

三好長勝 (*)兵庫助・兵庫頭。三好長逸の一門。

▽三好長徳 (*)新左衛門。1569年将軍・義昭襲撃に従軍。


(摂津榎並・三好) 細川晴元派。
三好政長 (1508~1549)摂津榎並・越後守・半隠軒・入道宗三。勝時の息(次男)。兄に勝長。三好家惣領の元長と対立。細川晴元に重用され、木沢長政・茨木長隆とともに三家老。1549年三好長慶と対立。六角義賢と同盟し対抗。「江口の合戦」に戦死。摂津の榎並城主。息に政勝。娘婿に池田信正。

木沢長政 (1493*~1542)左京亮・河内守護代。畠山家家臣。1530年細川晴元家臣となり高国方を攻撃。1531年三好元長に主・細川高国を討たれる。(典厩家)細川尹賢を滅ぼし河内飯森(飯盛山)城主。旧主・畠山義宣(畠山持国の息・義堯)に攻撃されるが、細川晴元と本願寺の後援を得て、1532年畠山義宣(義堯)を河内高屋城に滅ぼす。続いて三好元長を堺に討つ。1536年大和信貴山城築城。山城笠置山城を修復。独自の勢力を伸ばす。のち細川晴元、三好政長、三好長慶、畠山植長、河内守護代・遊佐長教と対立。河内守護・畠山政国を支援するが河内太平寺にて戦死。<松永久秀よりも以前にいた、型破りな人物です。>

⇔▽三好政勝 (1536~1632)右衛門大夫・因幡守。政長の息。讃岐の香西元成、丹波の波多野晴通と同盟し三好長慶と抗争。摂津の榎並城主。息に可正。<舎兄に下野守あり。下野守は政康と同一人物とも。>

(摂津芥川・三好) 細川晴元派。
芥川* (*)三好・孫十郎。摂津国人衆。三好長慶の妹婿。三好家準一門。三好之長の息・芥川長光(*~1520)もしくは長則の息。細川晴元に従い、1524年、1553年、度々三好家に謀反し追放される。従兄弟に三好長逸。<芥川氏の勢力は侮れないものだったのでは。>

<三好家 御由緒衆>


⇔↓一宮成祐 (*~1582)小笠原・長門守・成助・入道卜閑。阿波国の豪族。三好家準一門。三好長慶の妹婿。三好義賢をよく補佐する。1562年「久米田合戦」の殿軍に勇名。一宮城主。1577年三好家に背き、細川真之と結ぶ。義賢の息・三好長治を自害させる。のち長曽我部元親に降るが元親により誘殺される。<娘は松永久秀の妻のようです、松永久通の母。>

↓新開忠之 (*~1582)遠江守・実綱・入道道然・道善。阿波の豪族。三好家準一門。三好義賢の娘婿(十河存保の姉婿)。阿波の牛岐城主。1562年に畠山高政・湯川直光・根来衆との泉州「久米田の合戦」に従軍。義賢の死後出家。1579年離反した東条関之兵衛と抗争。長曾我部氏の後援を得た東条氏に敗北。のち長宗我部元親に降伏臣従する。1582年勝端城攻略に従軍。家老・松田新兵衛とともに久武親信により誘殺される。息に実成。富岡城主。

赤沢宗伝 (*~1582)信濃守・入道宗伝。三好家準一門。三好義賢の一門(姪の婿)。1562年に畠山高政・湯川直光・根来衆との泉州「久米田の合戦」に従軍。義賢の死後出家。一門に犬伏左近、阿部采女、坂東紀伊守、新開右近、大寺松太輔、七条孫四郎。1582年「中富川の合戦」に2000兵を率い参戦するも戦死。坂西城主。

川島惟忠 (*~1579)兵衛進。三好家一門。阿波川島の豪族。篠原長房討伐に軍功。1579年「脇城外の合戦」に戦死。阿波の川島城主。

十河景滋 (1510~1559)池内・存春。讃岐十河氏。三好家と同盟し、寒川氏と抗争。1526年寒川元政に敗北し城を失う。息に金光。金光早世により、養子に十河(三好)一存。池内城主。<対立する寒川氏に光永がいますが、息子・金光の名の由来に関連ありでしょうか。>

安宅秀興 (*)淡路水軍を束ねる。養子に安宅冬康。由良・洲本・たけの口城主。<安宅治興と同一人物か。>

遊佐長教 (1491~1551)河内畠山氏の守護代。河内国の豪族。三好長慶が娘婿。十河一存の娘と婚姻。同じ守護代の木沢長政は細川晴元に寝返る。三好長慶の宿敵(父・三好元長の仇)木沢長政の対抗者として三好家と繋がる。1542年「太平寺の合戦」に長政を破る。1551年畠山家中の内紛に萱振賢継により暗殺される。息に信教。若江城主。<三好家としては河内守護代の遊佐氏の血統を継承することで、河内国の正式な支配権を得ようとしたのかもしれませんね。そして、畠山家の執事としての地位をも得てからの下剋上を考えていたかもしれませんね。>

↓大西頼武 (*)元武。阿波国人。三好長慶の娘婿。準三好一門。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との「久米田の合戦」に軍功。息に覚養、頼晴、頼包。白地城主。相婿に芥川孫十郎。

石川通清 (*~1584)河野家臣。東伊予の豪族。三好長慶の娘婿。高峠城主。

伊勢家・三好家。
<幕府 御由緒家>


⇔↑●細川氏綱 <管領職:1549-1563>(*~1563)(典厩家)・二郎・右京大夫。(典厩家)細川尹賢の息、細川高国の養子。山城・丹波守護。摂津淀城主。1546(天文15)年将軍・足利義晴が細川晴元に代え管領に起用するが三好長慶の反対にあう。義晴は嫡男・義輝に将軍職を譲渡し隠居。1546年細川高国・木沢長政の残党に擁立され「細川氏綱の乱」。1547年畠山家内衆・遊佐長教との連携で優勢に立ち、足利義晴と和睦。細川晴元と抗争。のち氏綱は、三好長慶と結び、1549年細川晴元に代り管領職。将軍・義輝の近江中尾城を破却。最後の管領となる。山城淀城に病死。<細川晴元と対立した三好長慶に擁立された管領。>

<幕府 政所> 伊勢氏と後北条氏の関係→ 北条家(北条氏政・氏直)

伊勢貞孝 (*~1562)兵庫助・伊勢守・幕府政所執事・政所頭人。山城守護家。政所執事・貞忠の養子。貞辰の息。1535年家督。足利義晴(*~1550)、義輝二代の家臣。1549年6月細川晴元政権崩壊。1551年細川晴元、足利義輝から離反。近江堅田から脱出し三好方に降る。1553年足利義輝の都落ちに従わず。三好長慶に協力し畿内行政を担い、三好政権を確立。1558年義輝の和睦・復帰により幕府内で左遷。1562年六角義賢と結び、三好長慶と足利義輝により排斥される。息に貞良。桐野河内・幡根寺城主。<孫に明智光秀家臣となる伊勢貞興と、貞為の兄弟あり。>

▽伊勢貞良 (*~1562)貞孝の息。1562年六角義賢の京都制圧に応じる。父とともに足利義輝・三好長慶と対立。「船岡山の挙兵」に戦死。息に貞為、貞興。<松永久秀の娘婿とも。>

蜷川親俊 (*)政所代。1539年将軍・義晴の使者として細川持隆・三好範長(長慶)と、細川晴元の和平の仲介。伊勢貞孝とともに三好長慶の実務的な畿内支配を支える。


<三好長慶の側近・芥川評定衆>
長慶の奉行(本拠地は芥川城から飯盛山城へ移行。)

飯尾為清 (*)越前守。細川晴元の追放後は、管領・細川氏綱の奉行人。長慶奉公人。伊勢・蜷川の裁許を承認する長慶配下の奉行衆。

↓茨木長隆 (*)伊賀守。細川晴元家臣。摂津衆。晴元の管領代、京都奉行人(1527~48)。1545年溝杭亀松丸に所領を安堵。三好長慶による晴元の追放後は同僚・飯尾為清とともに管領・細川氏綱の奉行人となる。のち長慶奉公人。伊勢・蜷川の裁許を承認する長慶配下の奉行衆。1568年織田信長の入京に降服。1569年足利義昭を救援し三好三人衆と抗争。1571年茨木佐渡守は和田惟政とともに「摂津郡山合戦」に荒木軍と戦い戦死。茨木城主。

斉藤基連 (*)越前守。幕臣・斉藤基雄の息。将軍・足利義材・義維に仕えたのち、三好長慶の右筆を、松永久秀とともに勤める。

塩田* (*)左馬助。長慶奉公人。伊勢・蜷川の裁許を承認する長慶配下の奉行衆。<三好康長・康俊親子の家老に塩田一閑あり。一族か。>

<芥川旗元衆>
松山* (*)安芸守。のち松永久秀家臣。離反し三好三人衆に従い松永と抗争。<侍大将・松山新助の一門か。><松山氏のどなたか、1560年伊勢侵攻の大将の噂有り。>

松山* (*)彦十郎。伊丹貞親の娘婿。のち松永久秀家臣。離反し三好三人衆に従い松永と抗争。1570年「野田・福島の合戦」に参陣。<松山家は没落した伊丹家の重臣だったのでしょうか。それとも伊丹氏を取り込むために三好家の重臣との婚姻だったのでしょうか。>

中村高次 (*)新兵衛。のち松永久秀家臣。離反し三好三人衆に従い松永と抗争。<「槍中村」と呼ばれる武辺らしい。>


<三好家 譜代家老衆> 1564年長慶死去。1565年将軍・義輝暗殺。

井沢* (*)伊沢・大和守。三好長慶の家老。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との「教興寺合戦」に、長慶の指揮を伝達。

井沢頼俊 (*~1578)伊沢。阿波国人。阿波細川家重臣。篠原長房の死により三好家から離反。一宮成助とともに三好長治を攻め自害させる。義賢家老・矢野国村により討伐される。阿波の伊沢城主。

⇔↓松永久秀 (1510~1577)弾正忠・弾正小弼・山城守。元・三好長慶の右筆。摂津代官。摂津西半国を支配。滝山城主。1551年松永長頼とともに近江大津に出陣。1551年細川晴元方の三好政勝、香西元成を京都「相国寺」に撃破。弟の出世により松永久秀が勢力を拡大する。1559年に長慶の命で大和侵略に着手。信貴山城を拠点に大和に侵入し、三好三人衆のひとり。1562年将軍・義輝が新たに任命した政所執事・摂津晴門と対立。1565年将軍御所を襲撃。14代足利義栄の後見として勢力を持つ。1567年多聞山城を築く。近世城郭の手本となった白壁長屋造り「多聞櫓」を建築。1570年京都二条御所での猿楽に徳川家康とともに織田信長に招待される。

⇔↓松永長頼 (*~1565)内藤宗勝・甚介・甚助・備前守・入道蓮雲。松永久秀の弟。元・細川氏綱の家臣。1551年松永久秀とともに近江大津に出陣。1551年細川晴元方の三好政勝、香西元成を京都「相国寺」に撃破。1552年波多野晴通との戦闘で内藤国貞戦死。1553年丹波八木城を攻略する。丹波守護代・内藤家を継承する。武闘派で三好長慶の侍大将として頭角。丹波代官。1556年宇津氏討伐。久我氏の家宰・竹内季治とともに出陣。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。八上城主。1565年丹波黒井城主・荻野直正征伐に向うが敗北し戦死。1566年波多野氏に八上城を攻略される。キリシタン大名・内藤忠俊(如安)は息、原田直政とともに松永金吾は戦死。<如安が1564年に洗礼を受けているので、1550年頃は在命。>

岩成友通 (*~1573)主税助。三好三人衆のひとり。三好長慶の婿。1558年山城国「瓜生山城攻略」に軍功。松永久秀と協力して将軍・足利義輝を討つ。足利義栄を将軍に擁立する。松永久秀と対立する。篠原長房の援軍により松永軍を追う。1566年足利義栄(義親)、細川昭元を伴い上洛。1567年主の三好義継とも対立。松永久秀の焼き討ちで東大寺にて敗北。淀城、勝龍寺城主。1569年足利義昭を攻囲。のち足利義昭と結び織田家に反抗。1573年長岡藤孝に淀城を攻略され自害。山城国、淀城・勝龍寺城城主。

今村慶満 (*)紀伊守。元・細川氏綱の家臣。1550年松永長頼(内藤宗勝)とともに京都に進駐。山城国代官として活躍する。小泉城主。息に政次。

▽今村政次 (*)弥七。慶満の息。のち波多野家、惟任光秀に従う。

阿波守護家・細川之持→細川持隆→細川真之。

阿波三好家  
三好長治 (1553~1577)長春。義賢の息。篠原長房の補佐で家督相続。後見人・篠原長房とやがて対立、篠原自遁と結んで長房と抗争、異母兄弟・細川真之を担ぐ。のち守護権力を回復した細川真之と争い、一宮成助、伊沢頼俊に攻撃され自害。

▽三好勝時 (*~1579)越後守。阿波三好家の家老。三好長治の家臣。1578年三好長治の弔い合戦を行い井沢頼俊を討つ。1579年岩倉城外にて長宗我部軍の計略により、三好康俊軍と戦い戦死する。

矢野虎村 (*)入道戒厳。三好義賢の家老。1562年「久米田の合戦」に従軍。義賢の死後、出家。<十河存保の侍大将として、長宗我部軍との合戦に戦死する矢野伯耆守は一門か。>

▽矢野国村 (*~1579)駿河守。阿波三好家の家老。三好長治の家臣。1571年寒川元隣から奪取した引田城を守備。1578年篠原自遁とともに主の仇・井沢頼俊を討伐。細川真之、一宮(小笠原)成助と抗争し、十河存保を擁立する。1579年岩倉城外にて長宗我部軍の計略により、三好康俊軍と戦い戦死する。息に虎村。矢野城主。讃岐引田城主。

▽森* (*~1579)飛騨守。阿波三好家の家老。1578年三好長治の家臣。三好長治の弔い合戦を行い井沢頼俊を討つ。1579年岩倉城外にて長宗我部軍の計略により戦死する。

▽森* (*)因幡守。三好長治の家臣。息に高次。1579年息・高次は三好康俊との戦いに戦死。阿波の切幡城主。

▽河村* (*~1579)左馬亮。阿波三好家家臣。1579年岩倉城外にて長宗我部軍の計略により戦死する。

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阿波国人衆


(篠原氏)
篠原* (*~1562)佐吉兵衛。長政の息。弟に長房、自遁。阿波の豪族。阿波三好家の家老。1562年畠山高政・根来衆との「久米田の合戦」に戦死。息に右京。夷山城主。

▽篠原* (1562~*)(井沢)・右京。佐吉兵衛の息。叔父・長房に養育される。長房の死により外縁の井沢頼俊が養育。庄野兼時の後見で家督。夷山城主。十河存保に代わり讃岐に転出。長宗我部元親の調略に応じる。のち十河存保に出仕。

▽庄野兼時 (*)久右衛門。三好長治の家臣・篠原右京の家老。1578年三好長治の弔い合戦を行い井沢頼俊を討つ。1578年右京の留守居として夷山城主。1579or1580年長宗我部家に通じた東条氏に従う。

⇔篠原長房 (*~1572*1573)入道紫雲。佐吉の弟。阿波代官・三好義賢の家老。阿波・讃岐を支配。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。1562年以降は義賢の息、三好長治を後見する。1568年三好三人衆の要請で上洛、足利義栄を将軍に据える。1570年阿波に帰国。1573年十河在保に上桜城を攻略され戦死。息・篠原長重も戦死した。阿波国麻植郡、阿波国上桜城主。キリスト教に理解を示すという。三好長治、篠原自遁に謀殺される。息に大和守。

▽篠原* (1555~1572)大和守。長房の息。1572年「上桜城攻略戦」に戦死。

▽安富盛定 (*~1587)筑前守。東讃岐国人。水軍・安富氏の後裔。盛方の息。篠原長房の娘婿。1544年跡職を継承。1562年「久米田の合戦」に従軍。「教興寺の合戦」に従軍。1570年長房娘婿となる。寒川元隣から領土を得る。息に盛茂。虎丸城主。

▼六車* (*)入道宗湛。安富家家臣。盛定が虎丸城に入城後、雨滝城を守備。

▼篠原好長 (*~1582*)三河守。長宗我部軍の侵攻により落城。阿波の山口城主。

篠原実長 (*)肥前守・入道自遁。阿波代官・三好義賢の家老。1562年泉州「久米田の合戦」に敗れる。阿波に帰国し出家し三好義賢(実休)を弔う。1572*73年同族の篠原長房を謀殺。1578年十河存保の三好家継承に反対派。のち降伏臣従。長宗我部氏との「中富川の合戦」に敗北し、淡路に逃走するという。息に長秀。阿波の木津城主。

▼篠原長秀 (*~1577)玄蕃頭。三好長治の側近。長宗我部に通じた一宮成祐(成助)に敗北し郡勘助の離反で戦死。阿波の今切城主。

(小笠原支流)
小笠原長政 (*~1578)海原・重清・豊後守・重清長政。阿波国人。小笠原長行の息。大西覚養の娘婿。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。1578年長曾我部氏に通じた大西覚養と戦い戦死。息に長定。重清城主。

重清長定 (*~1579)小笠原長定・豊後守・長貞。阿波三好家家臣。美馬郡重清城主。1579年長宗我部軍の攻撃で落城。<覚養に暗殺された豊後守は息子の長定か。>

⇔一宮成祐 (*~1582)小笠原成助・卜閑。阿波国人。三好長慶の妹婿。野口冬長の娘婿。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。1572年篠原長房の死により三好家から離反。1576年頃長曾我部元親と同盟し三好長治と抗争。1577年三好家に背き、細川真之と結ぶ。織田家に通じ長宗我部氏に暗殺される。弟に成孝(光孝)。一宮城主。

(大西氏)
↑大西頼武 (*)近藤・元武。阿波国人。三好長慶の娘(妹とも)婿。準三好一門。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。息に覚養、頼晴、頼包。白地城主。相婿に芥川孫十郎。

大西覚養 (*~1580?)(三好)・近藤・出雲守・角養・覚用。阿波国人。頼武の息。弟に頼晴、頼包。準三好一門。室は三好氏の娘。長宗我部元親に降伏臣従。弟・頼包を人質に出す。のち離反し三好方。長宗我部元親に従う弟・大西頼包が跡職継承。重清城を落とすが十河軍に破れ戦死。白地城主。

▽大西頼包 (*)(三好)・近藤・上野介・七郎兵衛。三好家臣。覚養の弟。準三好一門。早くから長宗我部氏に従う。斎藤下総、説得の使者。1578年兄・覚養説得の使者。1583年東讃岐平定に軍功。千石秀久軍を撃退する。

(新開氏)
新開元実 (*)阿波国人。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との「久米田の合戦」に軍功。

↑新開忠之 (*~1582)遠江守・実綱・入道道然・道善。阿波の豪族。三好家準一門。三好義賢の娘婿(十河存保の姉婿)。阿波の牛岐城主。1562年に畠山高政・湯川直光・根来衆との泉州「久米田の合戦」に従軍。義賢の死後出家。1579年離反した東条関之兵衛と抗争。長曾我部氏の後援を得た東条関之兵衛に敗北。のち長宗我部元親に降伏臣従する。1582年勝端城攻略に従軍。家老・松田新兵衛とともに久武親信により誘殺される。息に実成。富岡城主。

▽新開* (*~1582)式部少輔。実綱(道善)の息。長宗我部元親に降伏臣従する。長宗我部元親により誅殺される。

▽新開* (*~1582)右近。道善の甥。赤沢宗伝に従い「中富川の合戦」に従軍。長宗我部元親に降伏臣従する。長宗我部元親により誅殺される。

東条* (*)関兵衛・関之兵衛。阿波三好家家臣。那賀郡の豪族。1579年長宗我部氏に通じる。新開氏に攻撃される。1585年木津城にて秀吉軍に備える。桑野城主。

麻植持光 (*)因幡守。阿波忌部神社大宮司。阿波の土豪。元・阿波三好家家臣。1579年長宗我部氏に降伏。内山城主。

志摩* (*)阿波の土豪。元・阿波三好家家臣。1579年長宗我部氏に降伏。

青野* (*)阿波の土豪。元・阿波三好家家臣。1579年長宗我部氏に降伏。

海部友光 (*~1575*78)左近将監・宗寿。阿波国人。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。畠山高政との合戦に軍功。1571年長宗我部(島)親益を誤って殺害。1577年長曾我部氏に追われる。海部城主。

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