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14世紀~15世紀 室町幕府 東国の鎌倉公方と関東管領 その1 鎌倉府の守護大名・有力国人「京都扶持衆」

[出羽守護] 守護不設置
(安藤家)

安藤家は室町時代初期は南朝方。 藤崎が上国家、十三湊が下国家となる。 

<南部家と覇権を競う。>
<<古上国家>又太郎家> 安藤季長→・・・南朝方・安藤四郎?→「盛季」が南部氏の後援で家督?→藤崎が滅び上国を称する湊安東に繋がるか
<<古下国家>五郎三郎家> 安藤季久→宗季(宗久):又太郎家相続→北朝方・安藤師季(高季)→安藤法季→「盛季」

≪個人的感想≫
 五郎三郎家に乗っ取られた、又太郎家の子孫はそのまま没落していくのでしょうか。それぞれで嫡流・正統を名乗るために、下国家と上国家が錯綜し、「南朝・北朝」の優劣の情勢も絡んで、現在では本家がどちらなのか訳がわからなくなったのではないでしょうか。

(藤崎安藤<古上国家>) 子孫はのち檜山安東に吸収されるか。

安藤貞季 (*)上国安藤・藤崎安藤。兄に堯季。妹は津軽氏と婚姻。藤崎城主。津波で壊滅した十三湊安藤氏を継承。浪岡城主、北畠顕成の娘婿。息に盛季。<おそらくこちら藤崎に残る子孫が嫡流。藤崎安東の子孫は1470年檜山安東・政季と抗争し滅びます。><盛季は実子か養子かどちらでしょう。>

▽安藤教季 (*~1414*)上国安藤・藤崎安藤。安藤貞季の息。南部氏との抗争により、一時蝦夷島に渡海。藤崎城主。<1414年以前に南部氏との抗争のため一時期、盛季とともに蝦夷に逃れたということでしょうか。>

≪個人的感想≫
 十三湊の津波での滅亡から数百年後、何故、異界の地・蝦夷島に移住する必要性があったのか。度重なる津波により日本海側の湊は使い物にならなくなったのか。また、自然のダメージにより弱体化した安藤氏を狙う南部氏の圧迫ためでしょうか、蝦夷島に一時根を下ろし根拠地とした茂別館ですが、生き残った人々は当然 津波に対応した立地を選択した事でしょう。
 あとは安藤家に仕える大切な人民を、異人や自然から守れる条件のもとに場所が選ばれていたはずです。
 下国氏の拠点となる①茂別館、②矢不来館(歴史書に登場しない)、③富川館(歴史書に登場しない)、
その三点を結んだ海岸段丘状が安藤家の移住者の新天地(コロニー)のような状況だったのでしょうか(妄想。
 それにしても現在の茂別館の範囲、十三湊を支配していた安藤氏「日ノ本(日下)大将軍」のものにしては、現在の館は規模が小さすぎます。
 茂別館、矢不来館、富川の館、三つ含めて、海岸段丘上に形成された「茂別大館」という城砦だったりしないのでしょうか。
 コシャマインが攻めあぐねた難攻不落の要塞なのですから、一居館の規模ではなく、石山本願寺のように外郭、内郭、堀の代わりとなる天然地形の河川、背後の山(隠し鉱山?)などが利用されて、本来の城郭の規模なのではないでしょうか。
 豊臣秀吉の頃に九戸南部氏が秀吉の何十万の大軍を迎え撃ったように、北日本の城郭は、自然地形を利用した要害で、現代人の感覚では測れない規模のものだったのではないでしょうか。
 近視眼的に居館=要塞の範囲と捉えるよりも、大きな目で範囲(自然地形の要害)を捉えないといけないと思います。
 九州や畿内だと、山ひとつ そのものが山城だったりしますから。広大な東北、蝦夷島ならば「和人コロニー」を包括する、相当な規模の要塞と考えられるのでは?

日本海 十三湊


(十三湊安藤)1229年五代・安藤愛秀の頃、十三氏(藤原秀直)を滅ぼし、陸奥国津軽十三湊を支配。1340年大津波による損壊。

「遙かなる みちのく、 つくし路の舟も多く たゆたえたるに」
 ‐今川貞世‐

▲安藤法季 (*)古下国・又太郎。「又太郎」家を継承。1339年安藤氏惣領。安藤師季(高季)の息。陸奥国津軽十三湊を支配。北朝方として南部氏と抗争。息に盛季、(湊)鹿季、(横木)豊国、(潮潟)道貞<檜山安藤祖>、(矢沢)家季。<法季と盛季の繋がりが気になるところです。後世の子孫により正統となるための系図操作がおこなわれているのでしょう。>

「十三湊日下将軍」
安藤盛季 (*~1414)(古上国)・下国安東・太郎・十三湊日下将軍・安東大納言。藤崎城主・(古上国)安東貞季の息(法季の息とも?)。南部義政の娘婿。下国安藤法季の跡職を相続し上・下安東家惣領。十三湊新城・福島城を築城。弟の鹿季が土崎湊に移り「湊家」を興す。息に康季(泰季)。<南朝方の上国安藤が南部家の後援で惣領に返り咲いたということでしょうか。それとも北朝方の安藤家が各所の安藤を統一し惣領を継承し名乗りを継いだのでしょうか。>

↓▽安東鹿季 (*)湊・「土崎」湊安東・上国二郎。藤崎城主・(古上国)安東貞季の息(次男)。土崎湊に移り「湊家」を興す。<本来は安藤季長の子孫か。>

安藤康季 (*~1446)(古上国)・下国安東・ニ郎・太郎・十三湊日下将軍。安東盛季の弟(養子?)。兄の死後、家督継承。1423年安藤陸奥守、将軍にラッコ等献上。1436年若狭小浜に羽賀寺を再建。1432年南部氏の攻撃により蝦夷に渡る(下国安東一族の津軽脱出は1432、1442、1445年説あり)。十三湊新城・福島城主。茂別館築城。<自称、奥州十三湊日ノ本将軍・安倍康季。安東盛季の次男とも(系図は混乱してます)。1446年に南部氏に敗北するというのは確かなようです。>

安藤義季 (*~1453)(古上国)・下国安東・太郎・十三湊日下将軍。康季の息。1446年父・安東康季の敗北により家督。1453年大浦郷にて南部氏に敗北。<十三湊は滅亡し、一門は蝦夷上ノ国に移住するか。>

▽安藤定季 (*)(古上国)・下国安東・山城守・蝦夷上ノ国・大館定季。1457年家老の相原政胤とともにコシャマインの捕虜。武田信広の活躍により脱出。息に恒季。<捕虜となり嫡流・安藤家の面子が潰れてしまったのでは・・・。>

<1467年「応仁の乱」>

◎▼安藤恒季 (*~1496)(古上国)・下国安東・蝦夷上ノ国・大館恒季。1496年檜山安東忠季と結んだ家老の相原季胤の為に滅亡。<湊をもたない檜山安東により滅ぼされたというよりも、土崎湊安東家の介入があったのではないでしょうか。>

≪個人的感想≫ 館の立地(選地)、郭構造により、時代差(館系・山城系)と系統性(安藤形・南部形)が見いだせそうな気がします。
青森側の十三湊福島城は、北海道側の上磯茂辺地・茂別大館に共通性あり。築城は安藤康季の代(中心方形状館型、広範囲連携郭構造)のものか。
青森側の十三湊唐川城は、北海道側の上ノ国夷王山に共通性あり。築城は安藤義季の代(全山城郭型山城系)か。
福島城の構造も、丘陵を利用し、連携する郭構造をもって、本丸となる方形状の館郭を防衛していたと推測されます。
北海道側の安藤氏のコロニー、現在の北斗市、鏡山を「扇の要」として茂別・矢不来・館野の3拠点の連携構造とともに、津軽十三湊周辺の城塞との比較研究を進めるべきと考えます。
道南12館の構成も、方形状の館郭だけではなく、連携構造の郭の存在を含めて、安藤氏の拠点支配体制を考察するべきでしょう。
東北での、柵から館、山城への変遷が、安倍、安藤、南部の城造りの変遷として、東北城郭の縄張りの発展として捉えられると、
畿内古墳の変遷並みに興味深い、中世東北の城塞の発展史、蝦夷(俘囚)の城塞の歴史になると思います。

「秋田城之介」
土崎 安東・湊 安東


(出羽秋田郡「土崎」湊安東) <古下国家系統>・上国家安東盛季の弟・鹿季が興す。<蝦夷に逃れず本州に残ったということでしょうか。最初は親南部?。新上国家設立に貢献。のち対立?。>
<1344年小鹿島地頭・安倍鹿季(兼季)、北浦日枝神社を修築。>

↑安東鹿季 (*)湊鹿季・「土崎」湊安東・上国二郎・西関次郎・庶季・廉季・兼季。藤崎城主・安東貞季の息(次男)。1344年土崎湊に移り「湊家」を興す。1411年出羽国に乱入した南部守行と合戦。<上国を名乗るので、本来は安藤季長の子孫か。>

安東成季 (*~1445)湊成季・上国・「土崎」湊安東・秋田城之介・博仲。安東鹿季の息(嫡男)。

○安東惟季 (*~1462)湊惟季・上国・「土崎」湊安東・秋田城之介・安興。安東成季の息(嫡男)。湊第3世。惣領の安東政季とともに檜山の葛西秀清を滅ぼす。1456年南部光政と合戦。1460年鹿角郡大日堂に梵鐘を寄進。檜山安東家が誕生。息に照季。<1457年蝦夷コシャマインの反乱当時の当主。>

<1467年「応仁の乱」>

応仁の乱 東軍・西軍

安東照季 (*~1490)湊照季・上国・「土崎」湊安東・秋田城之介・祥山。安東惟季の息(嫡男)。

安東宗季 (*~1514)湊宗季・上国・「土崎」湊安東・二郎・秋田城之介・月海。安東照季の息(嫡男)。<二郎登場。><1496年蝦夷安東(大館)恒季滅亡、当時の当主。><湊をもたない檜山安東が蝦夷に進出したというよりも、土崎湊安東家の介入があり蝦夷安藤氏が滅びたのではないでしょうか。>

安東宣季 (*~1533)湊宣季・上国・「土崎」湊安東・二郎・秋田城之介・月堂。安東宗季の息(嫡男)。

安東定季 (*~1551)湊定季・上国・「土崎」湊安東・二郎・秋田城之介・大虚。安東宣季の息(嫡男)。<法名が大虚って・・。>

安東友季 (*)湊友季・上国・「土崎」湊安東・二郎・秋田城之介。安東定季の息(嫡男)。<友季の代で湊系の正統は断絶。>

安東尭季 (*)湊尭季・上国・「土崎」湊安東・二郎・秋田城之介。安東友季の息(嫡男)。娘が檜山安東舜季の室。<堯季の代には滅亡とも。>

<織田信忠が「秋田城之介」を名乗り時代の覇者となった場合、この名称はどうなっていたことでしょう。>

▽豊島* (*)湊安東家家臣。1570年檜山安東家の安東茂季の相続に反対。小野寺氏と同盟し湊城攻撃。

▽下刈* (*)湊安東家家臣。1570年檜山安東家の安東茂季の相続に反対。小野寺氏と同盟し湊城攻撃。

▽川尻* (*)湊安東家家臣。1570年檜山安東家の安東茂季の相続に反対。小野寺氏と同盟し湊城攻撃。

↑▽安東茂季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・「土崎」湊安東。安東愛季の弟。宗家惣領となった兄に代わり、「土崎」湊安東・堯季の跡職を継承。<堯季が檜山系に敗北し娘を人質に差し出すことで降伏とかいうニュアンスでしょうか。>

▽湊 道季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・「土崎」湊安東・高季。愛季の弟・安東茂季の息。檜山安東・実季の従兄弟。1587年戸沢氏の協力を得て実季に謀反。のち南部家に出仕。<父・茂季が「土崎」湊安東家を再興するとも。>

檜山 安東氏

(檜山安東・<新下国家>) 盛季の弟・道貞(安東四郎)が興した分家の末流。 藤崎安東家と正統を競う<1467年「応仁の乱」>

安東政季 (*~1488)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・(師季?)。安東一族・(道貞の息)潮潟重季の息。義季の養子。1453年大浦郷にて南部氏に敗北。蝦夷島(渡島)に渡る。秋田郡西北部に帰還。1456年湊惟季の後援で檜山の葛西秀清を滅ぼす。檜山城築城。1470年上国安東と抗争し藤崎城を攻撃。1482年朝鮮に使者をだし大蔵経を求める。1488年河北糠野城にて長木大和守の謀反により自害。檜山城城主。<1488年自害となっています。上国安東に敗北するか。>

↑▽潮潟家政 (*)安東八郎・蝦夷下ノ国・茂別家政。安東一族・潮潟重季の息(次男)。茂別館城主。1457年コシャマインの反乱に遭遇。武田信広が軍功。<弟が蝦夷嶋(渡島)の代官ということでしょう。><十三湊系の蝦夷上ノ国(大館)、檜山系の蝦夷下ノ国(茂別)の主導権争いがあったのでしょうか。>

▽長木* (*)大和守。河北の豪族。糠野城にて安東政季に謀反し殺害。糠野城主。<安東氏家臣から南部氏に離反するか。>

◎安東忠季 (*~1511)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東政季の息。1488年政季の死により家督相続。1495年「檜山之屋形」と称する。1496年蝦夷地の蝦夷上ノ国・大館安東恒季を滅ぼし、相原季胤を代官とする。息に尋季。<蝦夷一島支配を完成したのでしょうか。><出羽方面で小野寺氏と結んで南部氏と抗争するか。>

安東尋季 (*~1534)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東忠季の息。1514年蠣崎(武田)光広を蝦夷守護代に任命する。1546年河北郡森山館の飛騨守・(安東?)季広を討伐。息に棟季。<没年には諸説あるようです。>

▽安東棟季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東。安東尋季の息。弟の舜季が家督相続。<この頃、湊安東家で内紛あり。>

▽安東舜季 (1514~1554)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・太郎。安東尋季の息。棟季の弟。「土崎」湊・安東尭季の娘婿。檜山安藤7世。1546年~1550年蝦夷地を巡検。蝦夷地の蠣崎氏に圧力。息に愛季。

安東愛季 (*~1587)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・湊安東・近季・秋田城之介。安東舜季の息。母は秋田城介・安東二郎尭季の娘。檜山安藤8世。砂越宗順、畠山清信の娘婿。湊安東家の家督も相続し、檜山・湊が合併。男鹿脇本に居城。1562年比内領主・浅利則祐を討ち領土拡大。秋田・豊島・檜山の三郡支配。1578年大浦為信に圧迫される浪岡御所・北畠顕村を救援。息に業季、実季、英季、季勝。娘婿に浪岡顕村。<織田信忠が「秋田城之介」を名乗り時代の覇者となった場合、この名称はどうなっていたことでしょう。>

▽嘉成* (*~1565*)安東家家臣。1565年鹿角郡に侵攻し南部方・長牛友義により敗退。

↓▽安東茂季 (*)新下国安東・(潮潟安東)・檜山安東・「土崎」湊安東。安東愛季の弟。宗家惣領となった兄に代わり、「土崎」湊安東・堯季の跡職を継承。<堯季が檜山系に敗北し娘を人質に差し出すことで降伏とかいうニュアンスでしょうか。>

出羽寒河江荘 長井氏

出羽国村山郡の藤原摂関家荘園。1192年大江親広地頭職。最上地方。大江一族の寒河江氏、左沢氏、溝延氏、白岩氏。




陸奥 曽我氏 

「大河兼任の乱」に宇佐美氏滅亡後入植

曽我* (*)入道道性。津軽曽我氏嫡流。北条家の名越時如、安達高景を匿う。大光寺城主。

▽曽我光高 (*)太郎。津軽曽我氏一門。鎌倉幕府から離反。嫡流の入道道性と抗争。

⇔曽我貞光 (*)北朝方。1336年浅利清連とともに南朝方の成田頼時の拠点・鹿角郡大里館を攻撃。1337年鹿角郡の二藤次館、当館、大豆田館を攻撃。岩楯城主。

陸奥 和賀氏

横山党中條氏・和田義盛養子(頼朝落胤?)・苅田義季子孫。

和賀教義 (*)和賀氏庶流。1334年南朝方。北畠顕家により和賀郡を与えられる。

和賀基義 (*)1352年幕府より陸奥国和賀郡、和賀行義跡職を得る。出羽国山北山本郡、安本郷・阿条字郷・雲志賀里郷を得る。

▽鬼柳* (*)(和賀)・下総入道。和賀一門。1393年関東管領執事・渋谷満頼の命で南部政光の追討命令を受ける。惣領和賀氏に代わり、家督を継承。

和賀家親 (*)黒沢尻・薩摩守。黒沢尻九郎の息(次男)。左近将監・政義の養子。鬼柳下総に代わり、和賀氏家督。

陸奥 小野寺氏


小野寺* (*)摩珠丸。1338年北朝方に参陣し「男山八幡の合戦」。

小野寺重道 (*)1400年足利義満、重道に本領を安堵。横手城主。

小野寺春道 (*)1413年「伊達持宗の乱」に戸沢泰盛、本堂氏、由利衆とともに出陣。

小野寺* (*)1427年上洛し足利義持に馬を献上する。

小野寺家道 (*)1449年幕府方として、小介河立貞を調略するが失敗。

小野寺泰道 (*)中務大夫。南部氏家臣。出羽秋田城介・泰頼とともに南部三郎の家老。南部氏の支配下から独立。義教・義政に馬を献上する。稲庭城主。<南部氏一門の金沢家光・家信親子を追放。><1456年頃安東忠季・安東惟季が檜山の葛西秀清を討伐し南部氏と抗争。>

小野寺政道 (*)将軍・義政から出羽守護職を与えられる。京都姉小路高倉に居館を造営。1465年南部光政と合戦。

<1467年「応仁の乱」>

小野寺稙道 (*)1521年上洛。京都から帰還するも家臣の謀反により自害。

小野寺景道 (*)玄蕃頭。泰道の息。小野寺氏全盛期の当主。息に雅道。
▽横手* (*~1555)大和田・佐渡守。小野寺一門衆。1552年当主・雅道に謀反。1555年輝道に討たれる。

▽金沢* (*~1555)八幡別当・金城坊。小野寺一門衆。1552年当主・雅道に謀反。1555年輝道に討たれる。

小野寺雅道 (*~1552)中宮亮。景光の息。弟に道秀。一族の横手佐渡守、金沢八幡別当金乗坊の攻撃により自害。息に輝道。湯沢城主。

小野寺義道 (*)1555年横手・金沢を攻め旧領回復。1569年武藤氏の重臣・土佐林家から安東氏との停戦依頼。1571年安東愛季と和睦。1577年横手城入城。雄勝郡・平鹿郡を平定し、稲庭・川連・西馬音内・大森・湯沢に一族を配置。仙北郡の六郷、本堂、前田氏を降す。跡職は輝道が継承。

▽西野* (*)安東氏と抗争。主・小野寺義通が武藤氏家臣・土佐林氏頼から停戦の依頼を受ける。

(陸奥大名 南部家)


「月の出るまで南部領」といわれる広大な領土を支配する。

(糠部・三戸南部家)鹿角・岩手・北・三戸・九戸・(閉伊・津軽)を支配。   一戸、八戸(根城)、七戸(久慈)、九戸家が分立。

(南朝方 南部家)

(三戸)政連→祐政→<為重→祐仲(茂行)→茂時>→信長

⇔南部為重 (*)左近将監・為長・義重。三戸南部氏。10代・南部義行の息(義行の甥・祐政の息とも)。1335年北畠顕家の上洛に従う。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。弟・信長は足利尊氏に従う。叔父に政連。南部茂時の義弟。1341年北畠顕家に属し、稗貫、閉伊氏を破り閉伊郡を制圧。弟に祐長。<鹿角合戦の軍功は上洛した信政のものではなく、為重のものか。>

⇔南部祐仲 (*)雅楽助・雅楽介・祐長・茂行。三戸南部氏。10代・南部義行の息(義行の甥・祐政の息とも)。南部為重の弟。叔父に政連。1360年南朝方での軍功を賞される。

(八戸)師行→政長→信政→信光

⇔南部師行 (*~1338)八戸南部・源・岩手・又次郎。八戸南部氏第4代。(政行の息、長継の養子とも。)建武政権の侍所国代・糠部奉行所。1333年多賀国府に出仕。朝廷方として早河禅門・岩楯曽我光高・工藤貞行とともに幕府と戦い「大光寺合戦」に軍功。1337年北畠顕家は本拠地を霊山城とする。奥州を鎮圧。1337年8月に北畠顕家に従い上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北。1338年高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。八戸根城城主。<兄弟に時長、政長、資行とも。>

⇔▽南部政長 (*~1350)八戸南部・源・岩手。師行の従兄弟・南部政行の息(師行の弟とも)。師行の養子。八戸南部氏第5代。1335年北畠顕家の上洛には同行せず、足利方の曽我貞光を討伐。1338年父の戦死により家督。宇津峰城の北畠顕信に従う。1339年成田頼時・安保小五郎・倉光孫三郎・滝瀬彦次郎・工藤氏とともに津軽持寄城を攻撃。津軽岩楯城を攻撃。

南部信政 (*~1338*)八戸南部・源・岩手・三郎・右近蔵人。南部師行の孫。政長の息(長男)。八戸南部氏第6代。工藤貞行の娘婿。1335年北畠顕家の上洛に結城宗広・伊達行朝とともに従う。1337年8月に北畠顕家に従い上洛。1338年高兄弟との和泉「阿倍野の合戦」に顕家とともに戦死。息に信光、七戸政光。<1341年北畠顕信より鹿角合戦の軍功を賞されるとも。在命か。><1348年四条畷の合戦に高軍に敗北戦死というのは間違いでしょうか。>

▼南部信光 (*~1376)八戸南部・三郎・大炊助・薩摩守。信政の息。弟に政光。八戸南部氏第7代。1350年祖父・政長より八戸根城を相続。1365年甲斐波井郷に上向。1367年神大和守を破り後村上天皇から軍功を賞される。息に長経。

(北朝方 南部家)

南部茂時 (*)右馬頭・孫次郎。南部第10代。南部義行の息。南部為重の弟。祐政の養子。南部信長の兄。弟に為重、祐長。

南部信長 (*)遠江守・伊予守。南部第11代。南部義行の息。兄・茂時の養子。足利尊氏に従う。北朝方に転じ南部家惣領。

南部政行 (*)三戸南部・六郎・遠江守。信長の息。南部第12代。足利尊氏に従う。北朝方南部惣領。

南部守行 (*~1437)三戸南部・大膳大夫・陸奥国司。政行の息。南部第13代。八戸・南部信光の娘婿。将軍・義満の意を伝え根城南部氏に北朝に従うように勧告。南部政光を甲州から八戸に撤収させる。1409年足利満隆の討伐に出陣し、陸奥国司任官。1411年出羽国仙北郡に乱入し、湊安藤氏の庶季と合戦。1416年「上杉禅秀の乱」に上杉方から幕府方に転じ軍功。根城南部氏の所領の大半を抑える。糠部、津軽、秋田安東氏を撃破し陸奥の大半を制覇。閉伊郡の「大槌城攻め」に流れ矢により戦死。息に義政、政盛、義実、助政、東信政、横田(蠣崎)行長、久慈則信。

南部義政 (*)三戸南部・陸奥国司・遠江守・守清。守行の息。兄弟に政盛。南部第14代。1432年安藤盛季と抗争、幕府の仲裁で和睦。1435年和賀領の内乱に介入し和賀義篤を後援。1438年将軍・足利義教の関東公方・足利持氏征伐「永享の乱」に参陣。将軍・義教の一字を賜る。1446年十三湊安藤氏を滅ぼす。息に政継(東家の祖)。

▽南部正継 (*)義政の息。叔父・政盛に惣領職を奪われる。

<1450年頃~事績不明世代>

南部政盛 (*)大膳大夫。南部第15代。義政の弟。兄の息・政継を凌いで惣領。息に光政、時政。

▽南部助政 (*~1456*)与二郎。南部第16代。義政の弟。息に信時、信実、大光寺行実。<三戸南部氏?><出羽小野寺、安東氏に独立の動き。>

南部光政 (*)彦三郎。大膳大夫家。政盛の息。南部第17代。1456年出羽安東氏の侵攻。1457年「津軽蠣崎蔵人の乱」八戸南部氏の津軽侵攻と独立。八戸南部政経が後花園天皇の綸旨を賜る。政経の息・信長上洛、将軍・義政の側近となる。<1456年頃檜山の領主・葛西秀清が、安東惟季・安東忠季により滅ぼされる。>

▽南部時政 (*)大膳大夫家。政盛の息。南部第18代。「応仁の乱」。将軍・義政に馬を献上。1460年代に南部一門の金沢家光・家信親子の仙北経営が小野寺氏の台頭により破綻し1468年に撤退。

<1467年「応仁の乱」>

南部通継 (*)大膳大夫家。時政の息。南部第19代。弟に信実。
<南部家分裂、争乱期か?(もしくは地震など災害があったかもしれません。拠点が潰れる度に生き残った緒家が復興したのかもしれませんね。飛騨の戦国商人兼大名の内ヶ島氏(内ヶ島氏理)は1588年の震災で城が崩れ滅亡しています(大商人であったことから埋蔵金伝説が生まれています)。堅固な城も自然の前には崩れるということです。)>

<1500年頃~南部家領再統一>


南部信時 (1442~1501)南部16世・南部助政の息。南部第20代。津軽を平定し種里城に大浦為信を置く。59歳。息に信義、政康、(野沢)重義、(堤)光康。

▽南部信義 (1462~1503)修理太夫。南部信時の息。1501年父の死により家督相続。41歳。息に北致愛。養子に弟の政康を迎える。

<1467年「応仁の乱」>

応仁の乱 東軍・西軍

▽南部政康 (1461~1507*24*)右馬頭。南部第22代。南部信時の息(次男)。1503年兄・信義の跡職を継承。将軍・足利義政から「政」時を賜る。息に安信、石川高信、南長義、石亀信房、毛馬内秀範。

▼南部安信 (1493~1541)右馬允。南部第23代。南部政康の息。1524年津軽地方の反乱を鎮圧。弟・石川高信を津軽郡代・石川城主に任命。「堤浦の兵乱」を鎮圧。南部秀範を毛馬内城に配置し秋田安東氏の抑えに派遣。石亀信房を不来方城に配置し斯波氏の抑え。南 長義を浅水城に配置し領内を鎮めた。息に晴政(1517~1582:安信の息ではないとも)、石川高信。

南部晴政 (1517~1582)彦三郎・右馬助・大膳大夫・安政。三戸南部氏第24代当主。安信の息(他人とも)。1540年隣接する岩手郡から戸沢政安、斯波経詮を追う。1541年家督。家臣・工藤氏の謀反を鎮圧。1566~68年安東氏と抗争。安東愛季を津軽郡から追う。津軽四郡、秋田鹿角・比内郡、北上川周辺の岩手・志和郡を版図に加える。1578年織田信長に馬・鷹を贈り臣従の意を示す。三戸城主。息・晴継が家督を継承。娘婿に九戸実親、南部信直。

長牛友義  (*)一戸・縫殿介。1565年大里備中、花輪中務、柴内氏が安東愛季に離反。1566年鹿角郡から撤退。1569年鹿角郡を奪還。

<南部氏の精強期 津軽進出>


石川高信 (1504~1571*1580)南部・左衛門。南部政康の息。安信の弟。石川(大仏ケ鼻)城主。1569年安藤愛季と抗争。1571年大浦為信謀反。息に信直、(津軽郡代)政信。家老に大浦為則、大光寺(堤)、千徳。

▽大浦為則 (*)南部・信濃守・信州。息に為信。大浦城主。

▽千徳* (*)隠岐守。石川高信を補佐。浅黄瀬城主。

▽大光寺政基 (*)(堤)・左衛門尉・左衛門佐。遠江守・景行の息。叔父に康行。石川高信を補佐。大光寺城主。息に(弾正)政景。<安藤・葛西氏の系統を継承するか。>

▽石川政信 (*~1589)津軽郡代。高信の息。南部晴政家臣。石川城主。浪岡城に進出。家老に大光寺重行、千徳政武、大浦為信。

陸奥 斯波(志和)

斯波詮愛 (*)安芸守。高清水斯波氏。1537年南下政策の南部氏(石川高信)と抗争。稗貫・和賀氏と同盟し対抗。雫石城主。娘婿に九戸政実の弟・高田吉兵衛(のち中野直康)。

▽河村秀定 (*)鷲内・飛騨守。高清水斯波氏家臣。息に大菅生秀重。
斯波経詮 (*)治部少輔・大輔。左兵衛尉・詮高の息。弟に雫石詮貞、猪去義方。

斯波詮真 (*1524~1573)民部大輔・家政。高清水斯波氏。経詮の息。1571年南部氏との抗争に敗北。

▽雫石久詮 (*)和泉守。詮貞の息。高清水斯波氏家臣。雫石村を領する。のち南部氏家老の北信愛に出仕。

▽猪去久道 (*)蔵人。義方の息。高清水斯波氏家臣。志和郡猪去村を領する。のち南部氏家老の北信愛に出仕。

斯波詮直 (*1548~1597)志和・孫三郎・民部大輔・詮基。高清水斯波氏。詮真の息。1588年南部氏により没落。のち最上氏の客将。

▽手代森秀親 (*)河村・大菅生・鷲内。高清水斯波氏家臣。大菅生一門衆。1588年南部氏に降伏臣従。

陸奥 北畠氏


浪岡北畠氏 陸奥国司・北畠顕家・顕信の子孫。

北畠顕信 (*)陸奥介・鎮守府将軍。顕家の弟。弟に親能。伊達氏、南部氏、田村氏に擁され宇津峰城主。1347年南部氏に擁され、岩手稗貫船越に居す。1351年多賀城奪還。1352年吉良貞家に敗北。出羽国藤島城に落ちる。息に守親、親成(顕家の息とも:養子か)。孫に親能(川原御所)。

▽成田頼時 (*)小二郎・左衛門尉。南朝方武将。1334年北畠顕家から鹿角郡代を命じられる。1336年北朝方の浅利清連、曽我貞光の攻撃を撃退。

北畠顕成 (*~1386*1402)少納言・顕季。顕家の息。弟に師顕。1373年安藤氏の招聘で浪岡に居す。息に顕元、親具。<安藤氏との婚姻で、通字の「季」を得て、顕季となるか。>

北畠顕元 (*)権大納言・浪岡御所。顕家の息とも。弟に親具。息に顕邦。

北畠顕邦 (*)権大納言・浪岡御所。北畠氏の本格的な浪岡入り。息に顕義。

北畠顕義 (*)左中将・浪岡御所。顕邦の息。息に顕具。従兄弟に忠具。

北畠顕具 (*)左衛門・浪岡御所。息に具永、(川原)具信。従兄弟に俊具。

<1467年「応仁の乱」>

(浪岡御所全盛期)

北畠具永 (*1487~1541)弾正大弼・左中将・浪岡御所。浪岡北畠氏。伊勢国司・北畠氏一門。南部家の大浦盛信、大光寺政行と勢力を三分する。息に具統、具信。

北畠具統 (*1509~1555)侍従・浪岡御所。浪岡北畠氏。具永の息。息に具運、(滝井)顕範。

(浪岡内乱期)
北畠具運 (*1532~1562)式部少輔・浪岡御所。後継者争い。「川原御所の乱」に、一門の具信親子に討たれ戦死。息に顕村。

北畠具信 (*)弾正大弼・川原御所。具運の一族。1562年具運を討つ。(滝井)顕範により討たれる。息に顕重、顕信。孫に利顕。

北畠顕範 (*~1578)滝井・左衛門佐。具運の弟。(川原)具信と抗争。惣領・具運の戦死により、甥・顕村を後見。1578年大浦為信の侵攻により失領。息に顕忠。

▽北畠顕村 (1555~*)具愛。1562年具運の戦死により跡職を継承。1578年大浦為信の侵攻により失領。安藤愛季に援軍を求める。

陸奥 留守氏


<陸奥国留守職(藤原氏)>
⇔留守家次 (*~1351)伊沢・但馬守・美作二郎・家冬。塩竈神社神職。陸奥国留守職家。留守惣領第八代。1334年建武政権に岩城郡に所領を与えられる。1336年三河矢作にて北朝方に転じる。北朝勢力に従う。畠山高国と吉良貞家の抗争が起き、1351年畠山側として「岩切部の合戦」に戦死。一門の余目、宮城氏も打撃を受ける。新田城主。

⇔▽余目家任 (*)(留守)・三河権守。家明の息。留守庶流。南朝方に出仕。1336年三河矢作にて北朝方に転じる。1351年「観応の擾乱」に吉良貞家、畠山高国の抗争に畠山方に従い没落。息に持家。<1352年足利尊氏から余目松法師が留守家復興を許可される。>

留守家任 (*)淡路守。陸奥国留守職家。1352年足利尊氏から宮城郡の所領を安堵される。留守惣領第九代。長世保の合戦に敗北し大崎家家臣となる。高森城主。<事跡不明世代。>

▽余目持家 (*)(留守)・三河二郎。留守一門衆。家任の息。息に家持。

留守家政 (*)弾正小弼。陸奥国留守職家。留守惣領第十代。<事跡不明世代。>

▽余目家持 (*)(留守)・三河二郎。持家の息。息に家継。

留守家明 (*)駿河守。陸奥国留守職家。留守惣領第十一代。

▽余目家継 (*)(留守)・家持の息。息に重家。

留守宣家 (*)四郎・詮家。母は山内氏。陸奥国留守職家。留守惣領第十二代。家臣団の内紛「応永村岡騒動」にて主・大崎氏の命で切腹自害。

▽余目重家 (*)(留守)・三河二郎。家継の息。息に満家。

▽留守持家 (*)美作守。宣家の庶兄。陸奥国留守職家。留守惣領第十三代。伊達家の後援で弟と大崎勢力を退ける。伊達郡宗を養子とする。

▽留守* (*)三郎二郎・飛騨守。大崎家の後援で兄・持家と三年間家督を争い敗北する。<事跡不明世代。><三河二郎に通じる名のような気もします。余目家に養子でしょうか。>

留守郡宗 (*)伊達郡宗・長谷五郎。伊達持宗の息(五男)。伊達成宗の弟。陸奥国留守職家。留守惣領第十四代。<伊達家からの乗っ取り。>

▽余目満家 (*)(留守)・摂津守。重家の息。息に尚家。

留守* (*)(伊達)・藤王丸。伊達郡宗の息。陸奥国留守職家。留守惣領第十五代。早世。妹婿に伊達景宗。

⇔留守景宗 (*~1554)伊達景宗・四郎・相模守・安房守。伊達尚宗の息(次男)。郡宗の跡職継承。陸奥国留守職家。留守惣領第十六代。1506~1537年にかけて同じ宮城郡の豪族・国分氏と抗争。1536年大崎家の内紛に伊達稙宗に従い、国分宗綱とともに出陣。1542年伊達家の「天文の大乱」発生。晴宗を後援する。<伊達家からの乗っ取り。>

▽余目尚家 (*)(留守)・留守尚家。留守家分家。満家の息。

留守顕宗 (*)伊達顕宗。景宗の息。黒川氏直(晴氏)の娘婿。陸奥国留守職家。留守惣領第十七代。弟・孫五郎派の留守一門衆・村岡兵衛、村岡左衛門と抗争。一時、東光寺城主。

▽留守景高 (*)佐藤景高・太郎左衛門。佐藤氏の養子。

▽留守宗安 (*)大条宗安・高森八郎。大条氏の養子。

留守政景 (1549~1607)(伊達政景)・六郎・上野介・上野守・雪斎。伊達晴宗の息(三男)。黒川晴氏の娘婿。陸奥国留守職家。留守惣領第十八代。留守家家臣・花渕紀伊、吉田右近、辺見遠江に家督に擁立される。反対派に留守一門の余目伊勢守、余目三郎太郎、村岡兵衛、佐藤太郎左衛門。1559年「村岡氏の反乱」。村岡一門の郷家宮内を降し勝利。余目、佐藤を追放する。59歳。息に伊達宗利、宗綱。水沢城主。<伊達家からの乗っ取り。>

▽留守宗綱 (*)高城宗綱・孫五郎・式部少輔。顕宗の息。養子の義兄弟・留守政景が家督。高城氏の養子。息に宗高。<本来は嫡流。>

陸奥 葛西氏


<奥州総奉行(秩父平氏・豊島流)>

 寺池城と石巻城の両葛西家の二流あり。大崎家と抗争。<六代~十一代までの事跡詳細不明。>1480年両家が断絶するほどの災害があったのか?
⇔マークの武将は別のページにも登場します。
新田義貞の家臣団に関東武蔵秩父党の河越・江戸・豊島・葛西氏あり。本来の本家の武将は関東衆か。奥州が分家なのかもしれません。

<登米寺池城> 「壱岐・伯耆守家」盛岡葛西系図。
分家・北朝に与力し独立。

葛西貞清 (*)左衛門尉。清信の息。息に高清。

⇔↓葛西高清 (*)(寺池)・因幡守・重清。葛西惣領・第七代。左衛門尉・貞清の息。最初、南朝・北畠顕家に従う。本家に石巻城の宗清、清貞親子あり。北朝方に寝返り本吉、気仙郡に進出。54歳。

葛西詮清 (*)(寺池)・伯耆守・重信。葛西惣領・第八代。44歳。息に満清、満宗、満信、持重。娘婿に大崎詮持。1342年北畠顕信、南部政長が多賀城国府奪還に動く。斯波・和賀・稗貫氏と防戦。石巻葛西家と抗争。1351年吉良貞家、畠山国氏が南下。満良世代。

↓葛西満信 (*)(寺池)・壱岐守。葛西惣領・第九代。51歳。満信世代。<両葛西家統一。>

<1467年「応仁の乱」>

葛西持信 (*)(寺池)・伯耆守。葛西惣領・第十代。満信の息。72歳。息に朝信、黒澤信忠、政信。娘婿に最上、黒川。

葛西朝信 (*~1480)(寺池)・壱岐守。葛西惣領・第十一代。54歳。息に尚信、時信。寺池城主。<信重とともに同年に死去。何か事件があったか。>

↓▽葛西政信 (*~1506)(寺池)・壱岐守・左近大夫・信勝。朝信の弟(持信の妾腹の息とも)。尚信に代わり惣領。葛西惣領・第十三代。石巻の伊達宗清と並立する。74歳。息に信高、信兼、晴重(養子か?)、信重。寺池城主。<石巻に入城した伊達宗清のプレッシャーがかけられるか。>

葛西尚信 (*)(寺池)・兵庫頭。葛西惣領・第十二代。33歳。石巻の満重と並立する。謀反により政信に害される。後職は政信が継承。寺池城主。<石巻の嫡流が滅亡するか。>

▽葛西時信 (*)(寺池)。尚信の弟。叔父・政信の後職を継承。

⇔↓▽葛西晴重 (*~1533)(伊達晴重)・陸奥守・壱岐守・左京大夫・稙信・重信。伊達宗清の後職(実子?)。寺池の政信・時信の後職を継承。葛西惣領・第十四代。65歳。息に稙清(守信)、晴胤、胤重。<伊達家の後援で両葛西家統一。伊達稙宗と芦名守舜の軍事介入、葛西家一本化。><この人物の時に系図が強引に結び付けられるようです。>

⇔↓葛西晴胤 (*~1555*1557)(伊達晴胤)・左京大夫・高信。葛西惣領・第十五代。兄・稙清(守信)の死、養子(伊達稙宗の息)の晴清の死により家督相続。1536年石巻城から寺池城に入城。59歳。

⇔葛西親信 (1547~1560*1567*1578)石見守・治部少輔・義重。葛西惣領・第十六代。葛西晴胤の息。弟・晴信を養子とする。48歳

⇔▽葛西晴信 (1533~1597)左京大夫・壱岐守・相模守・信清・晴清。葛西惣領・第十七代。牡鹿郡石巻領主、登米郡寺池城主。1560年(1578年とも)兄・親信の跡職を相続。伊達家と結び大崎家と抗争する。64歳。

(石巻日和山城)南朝方。葛西良清の直系「陸奥守・備前守家」
(仙台葛西系図)。

⇔葛西清貞 (1313~1346)武蔵守・清定。清宗の息。奥州惣奉行家。葛西家第6代。陸奥国の牡鹿・桃生・登米・本吉・気仙・磐井・江刺・胆沢領主。牡鹿郡石巻を本拠とする。1336年北畠顕家に従い、南朝に忠節。北畠顕家に従い奥州各地を転戦。上洛軍に参加し南征。1341年多賀城を奪取する軍功。石巻城主。34歳。弟に信常。息に良清。<左衛門尉・貞清とややこしい関係です。>

⇔↑葛西良清 (1312~1365)(石巻)・備前守・義清。武蔵守・清貞(清定)の息。南朝方中心勢力。蓮阿(武治)死没後、葛西家惣領。牡鹿郡石巻を本拠とする。1343年北朝方に転じる。息に満良。<清貞の弟とも。>
葛西満良 (*~1388)(石巻)・「陸奥守」。葛西惣領・第八代。良清の息。息に満清。

葛西満清 (*~1420)(石巻)・「陸奥守」・備前守。葛西惣領・第九代。満良もしくは詮清の息。伊達政宗(先代の政宗)と結び、大崎詮持の畠山国詮・畠山領横領に対して大崎討伐軍。息に持重。<両葛西家統一。><寺池・詮清の息から養子入りするか。><この頃「陸奥守」葛西氏の全盛期があり出羽地方にも威光が到達するか。安東氏・小野寺氏の造反により勢力を失墜するか。>

⇔葛西秀清 (*~1456*)秋田河北地方の領主。湊安東惟季・安東忠季の南下政策により檜山に敗北し、所領を奪われる。

<1467年「応仁の乱」>

葛西持重 (*~1469)(石巻)・「陸奥守」・播磨守・持信。葛西惣領・第十代。息に信重。

葛西信重 (*~1480)(石巻)・孫三郎。葛西惣領・第十一代。息に満重。<朝信とともに同年に死去。何か事件があったか。>

葛西満重 (*)(石巻)・「陸奥守」。葛西惣領・第十二代。寺池の尚信と並立する。跡職を伊達武蔵守・宗清が相続。

⇔↑葛西宗清 (*~1503)伊達宗清・武蔵守。葛西惣領・第十三代。伊達成宗の息。寺池の政信と並立する。桃生郡の豪族・山内首藤家と抗争。<伊達家の後援で両葛西家統一。伊達稙宗と芦名守舜の軍事介入、葛西家一本化。><伊達家の乗っ取り成功。>

→葛西晴重 (*)(伊達晴重)・「陸奥守」・壱岐守。葛西惣領・第十四代。伊達宗清の後職(実子?)。寺池の政信・時信の後職を継承。1506年寺池の葛西政信が死去。1511~15年に桃生郡の豪族・山内首藤家を滅ぼす。息に稙清(守重)、晴胤・胤重。<伊達家の後援で両葛西家統一。>

⇔葛西胤重 (*~*1563)葛西晴重の息。葛西当主の晴胤と抗争。1563年「牧山の合戦」に敗北。石巻日和山城主。<父・葛西晴重は嫡流なので、代替わりの時に義兄弟の晴胤との家督争いが起きたのでしょうか。>

(佐沼葛西氏)最初南朝方、のち北朝方。

試案・葛西三分立。従来2系統が定説化してきてますが、それでも説明がいかない人物の系譜です。先祖の本拠地・武蔵の葛西家でしょうか。

葛西宗清 (*~1333)(佐沼)・三郎左衛門尉・近江守。「京都神楽岡の合戦」に戦死。

葛西武治 (*~1343)(佐沼)・対馬守・蓮阿。北畠顕家の側近。南朝方の中心勢力。寺池・佐沼城築城。(石巻)葛西宗清・清貞親子とともに、(寺池)高清を従える。1341年清貞死没後に南朝方中心。南朝方の柱石として伊達郡霊山城主。その死により、岩手郡雫石城に南朝方は敗退。<清貞の弟とも。>

葛西親家 (*)(佐沼)・左近将監。重清の息。南朝の惣領の後職を継承。のち北朝に従う。1343年奥州探題・石堂義房に従い平泉中尊寺に鐘を奉納。<重清の息。重信は詮清ではなく、親家のことか。>

葛西清澄 (*)(佐沼)。親家の息。
葛西重勝 (*)(佐沼)。清澄の息。

▽葛西春重 (*)(佐沼)。清澄の息。重勝の弟。<葛西(伊達)晴重と関連ありでしょうか。>

↑▽葛西政信 (*~1506)(佐沼)・壱岐守・左近大夫・信勝。<春重と同一人物もしくは息とも。>朝信の弟(持信の妾腹の息とも)。尚信に代わり惣領。葛西惣領・第十三代。石巻の伊達宗清と並立する。74歳。息に信高、信兼、晴重(養子か?)、信重。寺池城主。<石巻に入城した伊達宗清のプレッシャーがかけられるか。>

《個人的感想》 伊達家の介入によって滅びた葛西緒家の系譜が、完全にバラバラに解体されている気がします。乗っ取りで寺池の惣領となった政信が伊達氏に追われ、石巻養子の伊達宗清の跡の(伊達)晴重という人物が、葛西三家の全ての養子となって相続して、三家分の系譜をひとつに纏めてややこしくしているのでは・・。

陸奥 大崎(斯波)氏

<陸奥国探題(斯波氏)> 斯波高経の弟・家兼の子孫。葛西家と抗争。実は高経の嫡男で関東執事・斯波家長の系譜かも。

大崎直持 (1327~1383)(尾張・斯波)・左京大夫・大興寺殿。陸奥国探題家。足利家一門衆。家兼の息。大崎家惣領。大崎二代目。1354年東北下向。「河内四頭」渋谷・大掾・泉田・四方田の在地領主を従える。57歳。

▽最上兼頼 (*)(尾張・斯波)・修理大夫。家兼の息。足利家一門衆。
▽塩松持義 (*)(尾張・斯波)・伊予守。家兼の息。足利家一門衆。
▽西室持頼 (*)(尾張・斯波)・式部大輔。家兼の息。足利家一門衆。

大崎詮持 (*~1400)(尾張・斯波)・左京大夫・詮時・金竜寺殿。直持の息。足利家一門衆。大崎家惣領。大崎三代目。葛西持信の娘婿。1391年鎌倉府・足利満兼に出仕、在住。後、鎌倉府に実権を奪われ抗争。1399年義兼の弟・満貞、満直兄弟に圧迫された伊達氏を援助。討死にとも。<死因不明。><系図混乱世代。天災も絡む?>

▽最上直家 (*)(尾張・斯波)・右京大夫。足利家一門衆。最上兼頼の息。詮持の従兄弟。

大崎満詮 (*)(尾張・斯波)・続灯寺殿。足利家一門衆。大崎家惣領。大崎四代目。父に従い「稲村御所」、「篠川御所」と抗争。田村大越にて戦死。<系図混乱世代。天災も絡む?>

▽大崎直勝 (*)(尾張・斯波)・兵部大夫。足利家一門衆。
▽大崎持信 (*)(尾張・斯波)・左兵衛佐。足利家一門衆。
▽大崎持家 (*)(尾張・斯波)・高清水。足利家一門衆。

大崎満持 (*)(尾張・斯波)・左衛門督・向上寺殿。足利家一門衆。大崎家惣領。鎌倉府と争い死去した詮持の息。大崎五代目。京都と鎌倉の対立に京都の将軍に接近し「奥州探題職」に復帰。伊達家と同盟。弟に兼持、直勝、持信。<系図混乱世代。天災も絡む?>

大崎満詮 (*)左京大夫。満持の息。息に持兼、直兼。

大崎持詮 (*)(尾張・斯波)・左京大夫・持兼・修心院殿。足利家一門衆。大崎家惣領。大崎六代目。<系図混乱世代。天災も絡む?>

▽青塚直兼 (*)(尾張・斯波)。持詮の弟。足利家一門衆。
▽大崎成兼 (*)(尾張・斯波)。足利家一門衆。

<1499年奥州探題大崎氏の内乱。出羽由利衆探題方に参陣。>

大崎教兼 (*)(尾張・斯波)・陸奥守・左衛門佐・彦三郎・竜谷寺殿。足利家一門衆。家臣の謀反で居城を奪取される。弟に兼宣。娘婿に伊達成宗。

大崎政兼 (*)(尾張・斯波)・陸奥守・源三郎・長松寺殿。足利家一門衆。妹婿に伊達成宗。甥に尚宗。

▽大崎兼宣 (*)(尾張・斯波)・内崎・家宣。足利家一門衆。教兼の弟。甥に政兼。初栗原内崎城主。のち四亀城主。

▽大崎詮高 (*)(尾張・斯波)・斯波・左兵衛尉。足利家一門衆。教兼の息。

▽高清水定家 (*)(尾張・斯波)。足利家一門衆。教兼の息。高清水家に養子。大崎一門衆。

▽百々高詮 (*)左近大夫。教兼の息。大崎一門衆。息に高家。
▽古川* (*)教兼の息。大崎一門衆。

大崎義兼 (*)(尾張・斯波)・左京大夫・彦三郎。足利家一門衆。政兼の息。伊達氏の下で隠居生活。息に義直、高兼、直堅。

大崎高兼 (*)(尾張・斯波)・彦三郎。義兼の息。足利家一門衆。娘婿に伊達義宣。

<伊達家大崎氏>
大崎義宣 (*)伊達義宣・小僧丸。伊達種宗の息(次男)。高兼の娘婿。25歳。1525年伊達稙宗が陸奥国守護職に就任し大崎家は権威失墜。1550年伊達氏から独立。陸奥名生城主。<伊達家が足利将軍・義詮室の妹婿となった時点で、大崎と伊達は同盟関係が成立するか。>

⇔▽大崎義直 (*)(尾張・斯波)・左京大夫。足利家一門衆。義兼の息。大崎家第十一代。四釜・尾張直光の娘婿。1536年家臣団に内紛。「大崎天文(古川氏)の乱」家臣の新井田頼遠・氏家直継・古川持煕と抗争。伊達稙宗に後援を求め、黒川景氏、武石宗隆、長江宗武、留守景宗、国分宗綱の加勢で鎮圧する。1542年「天文の乱」に稙宗党。のち晴宗派にも家中が分裂する。

▽高泉直堅 (*)(尾張・斯波)。足利家一門衆。義兼の息。

⇔大崎義隆 (1547~1616)(尾張・斯波)・左衛門督。足利家一門衆。奥州探題斯波家。陸奥玉造郡。大崎義直の息。葛西正常の娘婿。大崎家13代当主。最上義光と結び伊達家、葛西家に対抗する。1588年伊達政宗、岩出山城主氏家吉継の後援で大崎領に侵攻。「大崎の合戦」で伊達家に勝利し撃退。1589年盟友芦名家が滅亡したため伊達氏に従属。56歳。名生城主。

⇔▽黒川晴氏 (1523~1599)安芸守。陸奥黒川郡の豪族。大崎氏一門。1542年「天文の乱」に稙宗党。のち晴宗派にも家中が分裂する。1588年「大崎合戦」に大崎義隆に従い伊達軍を破る。鶴楯城主。のち秀吉により所領を失う。

▽黒川義康 (*)(尾張・斯波)・正三郎。足利家一門衆。義直の息。黒川安芸守の養子。

大崎義興 (*)(尾張・斯波)・義易。足利家一門衆。義隆の息。
大崎義成 (*)(尾張・斯波)。足利家一門衆。最上氏家臣。義隆の息。
大崎義名 (*)(尾張・斯波)。足利家一門衆。南部氏家臣。義隆の息。
大崎義辰 (*)(尾張・斯波)。足利家一門衆。最上氏家臣。義隆の息。

氏家吉継 (*~1591)弾正。代々大崎家宿老家。大崎義隆から離反する。1588年伊達軍に後詰を要請し、大崎領に伊達軍侵攻。1590年大崎家失領に伊達政宗に出仕。

【由利12頭】 

仁賀保(安倍?)、矢島、赤宇津、子吉、打越(楠・小笠原)、石沢、岩谷、潟保、鮎川、下村、玉米、滝沢(由利)

1331年 出羽国由利郡津雲出郷 源ノ正光、滋野行家、鳥海山に仏像奉納。

「由利12頭記」
滝沢刑部、小笠原(矢嶋)大膳大夫義久、小笠原大和守仁賀保重挙、子吉兵部少輔、潟保外記、下村彦六蔵人、石沢作左衛門、打越孫四郎宮内少輔、赤宇津孫次郎道益、岩谷忠兵衛内記、鮎川筑前守、小笠原信濃守助兵衛

⇔佐藤本「由利12(13)頭記」
滝沢兵庫頭、矢嶋大江五郎、仁賀保兵庫頭、子吉修理助、潟保弥太郎、到米、下村小笠原、石沢孫四郎、打越左近、赤尾津孫八殿、岩谷右兵衛、鮎川小平太、羽根川孫市

二大勢力の矢嶋・仁賀保氏は元々同族、滝沢氏と仁賀保氏が同盟し、矢嶋氏と抗争。

[陸奥守護大名] 

〈在任期間〉 伊達政宗が足利義満に通じ、鎌倉公方の足利満兼に反抗し、室町幕府直参に。

(伊達家)
伊達宗綱 (1254*~1317*)甲斐小太郎・兵部少輔。政依の息。兄弟に(桑折)親長、(白石)宗弘。息に基宗。

伊達基宗 (*)孫太郎・盛綱。息に行宗。

-南北朝争乱-

伊達行宗 (1291~1348)宮内大輔・行朝・朝宗。基宗の息。田村氏の娘婿。北畠顕家に従い各地で軍功。1334年上洛。1336年帰国し足利方と抗争。1337年2度目の上洛に敗北。帰還するも高師冬に敗北。息に宗遠、行資。

▽伊達行資 (*)伊佐丘・宮内太郎。<万寿丸とも。>

▽伊達宗政 (*)修理亮。万寿丸の後見人。1377年留守持家と同盟。

⇔伊達宗遠 (1324~1385)(田村)・弾正少弼。行宗の息。結城宗広の娘婿。小沢氏、余目氏と同盟。1380年長井氏と抗争。1381年武石行胤を撃破。大崎氏・亘理氏と抗争。息に政宗、(大条)宗行。

伊達政宗 (1353~1405)(結城)・大膳大夫。母は結城宗広の娘。室に将軍・義詮室の妹。弟に(大条)宗行。1385年長井氏を滅ぼす。1400年関東公方・足利満兼により派遣された満兼の2人の弟(満尚・満貞)と抗争。大崎氏と同盟。鎌倉公方軍の上杉氏憲(禅秀)、結城満朝と抗争。息に氏宗。

(足利将軍縁戚 伊達家)
伊達氏宗 (1371~1412)(紀)・兵部少輔。政宗の息。3代将軍・足利義満の従兄弟。鎌倉公方・足利氏満から「氏」の字を与えられる。従兄弟に(大条)宗景。息に持宗。

伊達持宗 (1393~1469)兵部少輔・大膳大夫・泰宗。氏宗の息。縁戚に(大条)宗元。2度の上洛を敢行し、足利義持から「持」の字を与えられる。1413年脇屋義治を迎えて足利満尚・満貞と抗争。鎌倉公方方の畠山氏と抗争。77歳。息に成宗。留守重家に郡宗を養子に出す。懸田詮宗に義宗を養子に出す。娘婿に信夫照成。

<1467年「応仁の乱」>

伊達成宗 (1435~1487)兵部少輔。奥州探題。奥州伊達当主。持宗の息。大崎教兼の娘婿。兄弟に義宗、(小梁川)盛宗、留守郡宗。1483年京都に上洛。将軍家に太刀23振・馬95頭、砂金380両、銭5万7千疋。1488年大崎義兼の領内の一揆を鎮圧。「武威奥羽随一」と称えられる。息に尚宗、(葛西)宗清。葛西満重の養子に宗清を出す。

伊達尚宗 (1453~1514)大膳大夫。成宗の息。越後守護・上杉房定の娘(養女)婿。1494年領内で一揆発生の為、会津の芦名盛隆の下に避難。弟に葛西宗清。息に稙宗、留守景宗。娘婿に最上義定。留守郡宗の養子に景宗を出す。

伊達稙宗 〈1522-*〉(1488~1565)藤原・伊佐・中村・左京大夫・高宗。藤原鎌足子孫。伊達朝宗が初代。尚宗の息。母は越後守護・上杉定実の娘。芦名盛隆の娘婿。弟に景宗。1189年源ノ頼朝の「奥州征伐」に従い、伊達郡を拝領したことから始まる。伊達氏14世。芦名盛高の娘婿。芦名盛滋・盛舜は義兄弟。1517年将軍・義稙から字を賜り改名。1522年初代、陸奥守護職に就任。奥州探題・大崎家を凌ぐ。1528年葛西晴信の死に乗じて葛西領に乱入。「石巻城攻略」。1532年桑折西山城を居城とする。1534年岩城・白河と抗争。1536年「塵介集」作成。1536年大崎義直の要請で大崎領内の反乱を平定。国分・留守・黒川氏が臣従。相馬顕胤、芦名盛氏、二階堂輝行、田村隆顕、懸田俊宗、相馬義胤(顕胤の孫)と入婚。次男は大崎義宣。村田、葛西晴胤、亘理綱宗を養子に出す。

伊達晴宗 (1519~1577)伊達氏15世。1541年「天文の乱」で父との抗争に勝利し米沢城を本拠とする。1548年家督相続。1555年奥州探題就任。越後上杉定実の養子に弟・実元が望まれたため阻止。父・植宗を幽閉する。

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