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戦国その2 関東の大鼠 後北条(伊勢北条氏)伊勢早雲・北条氏綱・北条氏康の家臣団と軍団

根深い関東公方と、京都将軍家の対立

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足利持氏の乱


幕府に通じる関東管領・上杉家。山内上杉は上野国を支配。
「応仁の乱」幕府政所執事・伊勢氏関東伊勢氏(後北条氏)周辺の動向
幕府政所執事・伊勢貞宗、日野富子の兄「押大臣」日野勝光を補佐し、日野裏松家家司・松平益親が北近江菅浦の一揆を鎮圧に向かう。

応仁の乱
応仁の乱からの転機

1465年幕府政所執事・伊勢貞親の被官、三河額田郡の岩津松平:和泉守信光が,吉良氏の家臣・丸山氏を討つ。『蜷川親元日記』

<三河の松平(徳川祖)家はもともと、伊勢氏の代官だったのではないでしょうか。伊勢長氏が今川の兵を借りて三河「松平征伐」に向かう事にも主従の関係から伊勢氏の利権を松平が横領したと大義名分があったのではないでしょうか。とすれば徳川家は主筋を潰しまくって天下に登りつめた事になります(そのほうが戦国時代らしい感じはします)>

<「応仁の乱」 東軍・西軍>

日野富子一派として、伊勢氏の活動。

 後北条氏の獲得領域


管領・細川家と、幕府政所執事・伊勢家との対立と協調に連動して、後北条(関東伊勢氏)氏の動きも活発化。1467年からの「応仁の乱」の東軍、西軍の宿縁が、最後まで尾を引くようです。「本能寺の変」後に織田信忠を強襲した武将が伊勢貞興なのは偶然で片付けられるものでしょうか。

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領土拡大に伴い方面軍化

 氏康旗印「臨兵闘者皆陣列在前!!」

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北条氏康公 肖像のつもり。

山内上杉家宰の白井長尾。扇谷上杉氏の家宰は太田道灌を輩出した太田氏。

後北条氏の家臣団と軍団 (1500~1590頃)

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足利幕府・京都と鎌倉の対立


伊勢貞親 (1417~1473)備中守・伊勢守。貞国の息。母は蜷川親俊の娘。幕府政所執事。8代将軍・足利義政の家老。足利義尚の後見人。斯波義敏とともに細川勝元に追放される。1467年幕府に復帰。備中伊勢氏の伊勢盛定を登用する。

伊勢盛定 (*)新左衛門尉・盛次。備中伊勢氏。足利義視の家臣。娘婿に今川義忠。息に伊勢長氏。1467年足利義尚に出仕。1493年細川政元に協力し足利義澄を擁立。1508年大内義興が足利義稙を擁立し上洛。近江に落ちる。備中高越山城主。<大内家により備中の拠点はきっと・・。>

足利将軍家
将軍と関東公方

①代目 北条早雲(伊勢長氏)の家臣団 

(実権:1491~1514年) 「盛」字、拝領世代。 ↓次世代にも存在
今川家老・伊勢長氏(早雲):1491(1493とも)年伊豆乱入。1493遠江先陣。1506・1508三河出陣。1509~関東経営。1516年相模統一。

伊勢長氏 (1432~1519)新九郎・盛時・氏茂・早雲庵・入道宗瑞。幕府奉公衆・伊勢盛定の息。兄に伊勢貞興。伊勢大和在原又は山城宇治出身。将軍後見・足利義視に出仕(義尚直臣とも)、義兄弟の今川義忠(~1476)、甥の今川氏親に出仕。1487年義忠室(北川殿)の兄として甥・氏親の家督相続に活躍する。興国寺城主。小笠原氏、葛山氏から室を迎える。1491年(1493年とも)伊豆侵攻。「深根城の攻囲戦」興国寺城城主・伊勢長氏が、堀越公方・足利政知が死亡した後、後継者の足利茶々丸を追って伊豆侵略、深根城を守備する関戸吉信を打倒し伊豆国を統一する。1491*93年韮山城主。中央では細川政元の「明応の政変」勃発、新将軍に足利義澄(政知の息)。今川氏親の宿老として、「御名代」的な地位で今川軍団を率い1494年遠江(対・斯波)、甲斐(対・武田)遠征。1494年相模国の小田原城奪取(1496年以降とも)。1501~1506年三河に遠征し松平長親と抗争。1508年大内義興の上洛、足利義稙の復権。今川氏親は義稙を支持し斯波義達と対決。1509年から小田原城を拠点に関東進出。1518年相模国の三浦家を滅す。88歳。息に氏綱、氏時、葛山氏広、長綱。<備中出身、父・伊勢盛定、母伊勢貞国娘とも。><本来は相模の上杉、甲斐の武田の押さえとして興国寺城に配置されたのでしょう。最初は織田家の方面軍団長的な感じだったのかもしれません>

京都の伊勢氏

<伊勢長氏の御家門(親族)衆> .縁戚・御由緒のある人物の印。
伊勢* (*~1496)弥次郎。伊豆韮山城主・伊勢長氏の弟。1495年兄が高齢(64歳)の為、相模小田原城主に就任。1496年山内上杉家の攻撃を受け戦死。

.葛山氏堯 (*~1516)葛山春吉・備中守・春義・惟貞・維貞・氏時。今川家家臣。葛山備中守は1489年伊勢長氏を娘婿に加える。1491年北条早雲の伊豆討ち入りに協力した豪族。<駿河の同盟者。葛山氏堯と春吉は同一人物かと。>

.小笠原政清 (*)備前守。室町幕府奉公衆。息に小笠原元清。1480年代娘婿に伊勢長氏。孫に北条氏綱、小笠原元続。

.▽小笠原元清 (*)充康。室町幕府奉公衆。小笠原政清の息。将軍・足利義澄の幕府奉公衆。伊勢長氏の義兄弟。息に小笠原元続。

.↓▽小笠原元続 (*~1573)(北条)・六郎・兵部少輔・宗光。元・足利義澄の臣。小笠原元清の息。北条氏綱の甥とも。のち後北条氏に出仕し、室町幕府との取次ぎ。今川家から独立した大名として、幕府認定の相模守護職として、後北条氏の関東支配を幕府に認知させる。息に小笠原康広。<奥州藤原氏の後ろ盾となった、藤原基成みたいですね。>

↓▽高橋高種 (*~1535)大蔵・将監。九州筑後出身。高橋統種の息。幕府奉公衆。伊勢長氏(盛時)の娘婿。将軍・義尚から足利政知に転仕。のち同じく関東に下った伊勢氏に使える。息に北条綱高、氏高。<九州本家の方は高橋鑑種や、高橋紹運(鎮種)、立花宗茂を輩出するようです。>
 今川貞世・仲秋兄弟に従い東海に移住した高橋家分流がいたかもしれません。

<後由緒六家(興国寺城6家)> 
.後由緒6家 <伊勢衆> 1468年頃臣従カ
.大道寺重時 (*)太郎・発専。元、山城の大道寺荘の豪族。父・顕重は元・細川勝元家臣。伊勢新九郎の盟友。伊勢六人衆。小田原城攻囲の際に討死カ。子孫は武蔵国河越城主に抜擢される。息に盛昌。<北条早雲の叔父とされる。子孫は遠山を称する。>

.多目* (*)権平・権兵衛・玄蕃。伊勢六人衆。1495年小田原攻略の先陣大将。子孫は黒備え旗頭。<六郎・(元忠)が継承。>

.荒川* (*)又四郎・又次郎・豊前守。伊勢六人衆。駿河国泉頭城主。子孫は黄備え。

.山中* (*)才四郎。伊勢六人衆。子孫は赤備え。
.有竹* (*)在竹・兵衛。伊勢六人衆。子孫は白備え。

.荒木* (*)兵庫。伊勢六人衆。子孫は青備え。<御由緒家は「五色備え」の軍監として、各軍団に配属されるか。>

<元幕臣・山城衆>
.遠山直景 (*~1564)隼人佐・丹波守「古丹波」。遠山家初代。京都時代から早雲に臣従カ。江戸衆筆頭。1564年太田康資の離反により「国府台の合戦」に討死。息に綱景。<京都衆 or 伊豆衆?>

.山角* (*)対馬入道。山角初代。京都時代から早雲に臣従カ。子孫は黒備え。<京都衆 or 伊豆衆? 古参の家臣です。>

.垪和* (*)又太郎。元、室町幕府奉行衆。美作国出身。子孫は武蔵国松山城主に抜擢される。<子孫は準一門扱い。血縁関係があるのかもしれませんね。 子孫はのちのち上野進出の旗頭へ>

<外様(伊豆・相模)国衆> 伊豆・相模の同盟者
富永* (*)伊豆国土肥の海賊衆。伊豆丸山城主。<のち平朝臣を自称するのは、伊豆土肥といえば坂東平氏の地盤であり、伊豆入りの際に婚姻関係を結んで地盤を継承したからではないでしょうか。熱田の尾張国造氏が藤原氏と縁を結んで藤原と称するように、地方豪族が時の有力者と結んで地盤を維持することはよくある事です。また、主である伊勢長氏が平氏であることも意識しているのではないでしょうか。>

松田頼重 (*)左衛門・頼成。相模衆。相模足柄上郡松田庄の豪族。小田原攻略直後に早雲に臣従。1504年「武蔵立河原の合戦」に80騎を率いて従軍。息に頼秀。<子孫は笠原氏を継承。><相模の源氏累代の郎党の系譜、源ノ義朝の乳兄弟の波多野氏の系譜か。冨永氏(三河大伴)とともに源氏(将軍家)には欠かせない武門の血統です。>

▽松田頼秀 (*)相模衆。相模足柄上郡松田庄の豪族。父・頼重とともに早雲に合力。

<今川家の同僚・駿河今川家臣> 
⇔▽長谷川正宣 (*)藤原・下河辺正宣・政宣・長谷川長者・法栄長者。今川家臣。駿河国人、志太郡山西を領する。幼少の今川氏親と妹・北川殿を匿ってもらう。<小鹿氏も侮れない勢力を有していたか。><名族・下河辺氏の後裔。幕府将軍の直参奉公衆か、それとも関東公方の直参か。その立場により、伊勢長氏の関東進出に深く関わっているかもしれませんね。><尾張の長谷川氏との関わりも気になるところです。石黒氏後裔か、下河辺後裔の長谷川氏もいたのか・・。>

⇔▽朝比奈泰熙 (*~1512)備中守。遠江朝比奈惣領家。朝比奈泰永(朝比奈吉俊とも)の息。今川家家老職。朝比奈泰以の兄。1512年吉良家の家臣、遠江浜松の大河内貞綱を攻略。備中守・泰能の父。<遠江懸川・朝比奈、備中守家は丹波守家から分かれたものでしょうか。>

⇔▽朝比奈泰以 (*)十郎・右京亮。今川家家老職。朝比奈泰熙の弟。伊勢盛時とともに今川氏親の後見人となり、国政を補佐。1506年三河の松平長親を攻撃。1512年兄の死により甥・泰能を補佐。1514年斯波家との合戦に先陣。1517年遠江守護・斯波義達に勝利。1536年氏輝死後の家督争いに、瀬名氏貞・由比助四郎とともに今川義元を擁立。掛川城主。

⇔▽福島範為 (*)和泉守。今川氏親家臣。幕臣・飯尾貞運と取次ぎ。斯波義達・井伊直平の軍事行動に対して遠江出陣。

≪個人的感想≫ 戦国の「浪人7人衆」が力をあわせて、城持ち大将に成り上がる話は有名です。早雲を中心とした後北条氏創設期の家臣団です。今川氏親の保護者として「御名代」的な地位で今川軍団を率い各地に遠征もしていたので、伊豆を奪取した早雲の直臣となった今川侍もけっこういたのではないでしょうか?
 伊勢宗瑞(北条早雲)の行動は、中央の情勢と連動し、幕府政所執事・伊勢氏とその背後の将軍による命で、関東の支配機構に喰い込んで行ったのだと考えられます。両上杉の打倒も、幕府(東軍)の意向だったのかもしれませんね。
 足利義視の意向で、伊勢氏の関東行か。義澄の意向での伊豆討ち入りか。それとも細川政元との密約か・・・。

細川京兆家変遷1
伊勢氏のライバル 細川京兆家

細川家の変遷

②代目 北条氏綱の家臣団 

(実権:1514(1518家督)~1541年・相模統一) 「綱」字、拝領世代。 ▽陪臣(.御由緒家)「 禄寿応穏 」

北条氏綱 (1486*87~1541)伊勢・伊豆千代丸・新九郎・左京大夫。伊勢長氏の息(嫡男)。母は小笠原備前守・政清の娘。室は養珠院(今川氏?)。後妻は関白・近衛尚通の娘婿。今川義忠の甥。1512年三浦義同の岡崎城を早雲後見の元に奪取。1514年家督継承。1517年斯波義達敗戦、今川氏親の捕虜。1518年三浦義同を新井城に攻略。1519年早雲死去。1522年相模寒川神社に「北条」と署名。1524年上杉朝興の江戸城を奪取。1526年里見義豊の鎌倉襲撃を撃退。1529年叙任され左京大夫任官。幕府直属の大名となる。1535年今川氏輝を後援し甲斐遠征。1536年今川家内紛。今川義元の家督争い「花倉の乱」。義元と対立し「河東の騒乱」相模・北条家の完全独立。1537年扇谷・上杉朝定から川越城を奪取。1538年古河公方・足利晴氏を奉じて、小弓御所・足利義明、里見義弘を討つ。「関東管領職」就任。(古河)足利御一家。55歳。小田原城主。

<北条氏綱の御家門(血縁)衆> 1522年自称、北条家。
北条氏時 (*~1531)新六郎・左馬助。伊勢長氏の息。北条氏綱の弟。玉縄城主。安房の里見義豊との合戦に戦死。跡職は氏綱息・北条為昌が跡職を継承する。

葛山氏広 (*~1538*1539)北条氏広・葛山・左馬頭。駿河の国人領主、葛山備中守・氏堯の養子。伊勢長氏の息(三男)。母は小笠原備前守の娘。1524年頃から家督。今川家に所属する。1537年今川義元から離反。息に葛山氏元。

北条長綱 (1493~1589)小机北条・久野北条・菊寿丸・三郎・幻庵・宗哲。伊勢長氏の三男、北条氏綱の弟。母は葛山備中守娘。近江三井寺にて出家。1523年箱根権現別当第40世。御家門衆。1535年甲斐「山中の合戦」。1536年武蔵「入間川の合戦」。氏綱、氏康、為昌とともに出陣。一軍の将。武蔵小机城主。1589年97歳で没。長男(綱重?)早世の為、次男・氏信が家督。1569年氏信戦死により、<一時、謙信の養子に出された上杉景虎が相続。>娘婿に北条氏堯の息・氏光。1585年孫の氏隆が家督。

北条綱重 (*)小机北条・三郎。北条幻庵の息(嫡男)。早世。<玉縄衆・赤備え=旗頭の北条綱高か。2010年の新説では綱高は高橋氏からの養子ということなので、綱重との関連は不明です。>

↓▽北条氏信 (*~1569)小机北条・新三郎。北条幻庵の息(次男)。北条三郎の弟。1560年武蔵小机城主・北条氏堯の死により小机領を支配。1568年対武田のため駿河蒲原城で籠城。1569年弟・融深とともに戦死。

↓▽北条氏尭 (1522~1560*)武田・(玉縄北条)・(小机北条)・竹王丸・左衛門佐。北条氏綱の息(四男)。1168貫。同盟のため武田晴信の人質となる。駿河国戸倉城主。元、武田人質。元、武田人質。北条氏綱の四男。北条氏康の弟。1542年兄・北条(玉縄)為昌死去により跡職、叔父・北条幻庵の後見を受ける。一時、玉縄城主。1560年小机城主。1555年上野国平井城主。「安房乱入」に出陣。上杉軍の「関東遠征」に河越城に籠城する。以降の経歴不明。三浦衆・小机衆も率いる。息に氏忠、氏光。氏光は北条幻庵の娘婿。<伊豆戸倉城主・北条氏光(*~1590)とは別人。>

↑.小笠原元続 (*~1573)(北条)・六郎・兵部少輔。北条家の外戚。小笠原元清の息。元・足利義澄の臣。北条氏綱の甥とも。息に小笠原康広。

<北条氏綱の譜代家老衆(御由緒家)>
 1537年扇谷朝定の河越城攻略に軍勢を5軍隊に分割。<1537年に五色備えの原型が成立したといわれる。>

大道寺盛昌 (*~*1550)蔵人・駿河守。山城国宇治出身カ。御由緒六家の一門。大道寺初代、発専重時の嫡男。伊勢盛時(北条早雲)の「盛」字を与えられる。1536年北条氏綱を補佐し鎌倉代官。玉縄城主、のち河越城主。北条為昌元服の烏帽子親。河越城で扇谷上杉朝良・朝興を相手に敢闘する。

.▽大道寺* (*)八郎兵衛。氏綱の侍大将。大道寺一門。御由緒六家の一門。1524年「高縄原の合戦」に活躍、上杉朝興を敗走させる。

.多目* (*)六郎・(周防守?)。御由緒六家の一門。氏綱の先鋒を務める侍大将。1524年「高縄原の合戦」に活躍、扇谷・上杉朝興を敗走させる。一門(子孫)は氏康の代に、黒備え旗頭。<北条綱高の師という関係から世代的に六郎が元忠で、その息が元興ということでしょうか。武田の「原備中」のように二代続けて周防守を称したということでしょう。>

.山角定吉 (*~1564)四郎左衛門。御由緒・山城衆の一門。軍奉行。山角二代目。一門(子孫)は氏康の代に、黒備え。1564年第二次「国府台の合戦」に戦死。<京都衆 or 伊豆衆?>

.山中* (*)修理亮。御由緒六家の一門。氏綱の侍大将。1538年小弓御所・足利義明との合戦に活躍。1540年下総「国府台合戦」に軍功、里見義堯を撃破。一門(子孫)は氏康の代、赤備え。

○ .遠山綱景 (*~1564)藤九郎・隼人祐・甲斐守・丹波守・「新丹波」。御由緒・山城衆の一門。直景の息、遠山二代目。北条氏綱の「綱」字を拝領。弟に遠山康光。のちに江戸衆筆頭(江戸城主ではなく近隣の葛西城主)。娘は北条氏康養女となり、太田康資に嫁ぐ。1558年古河公方・足利義氏の小田原訪問に「北条五宿老」の一人として列席。1564年1月里見義弘・義尭、太田資正と結んだ太田康資の離反により「第2次国府台の合戦」に息の隼人佐とともに討死。跡職は隼人佐・弟の政景が継承。息に隼人佐、政景。<京都衆 or 伊豆衆?><江戸城主としては本丸の富永氏が軍事的役割、二ノ丸の遠山氏が政治的役割、三ノ丸の太田氏は元城主という感じでしょうか。>


<北条氏綱の駿河衆4家「御供(同盟)ノ家」>
 1537~1546年相・駿・甲の三国対立状態。

.▽葛山氏元 (*)備中守。「御供(同盟)ノ家」。北条(葛山)氏広の息。北条氏綱の娘婿。今川義元の家臣。1537年父・氏広は今川義元から離反。1568年武田家に降伏。武田(葛山)信貞を養子に迎える。<駿河経営の重要人物。武田・今川・北条の狭間で苦労したことでしょう。>

九島* (*)今川義元の家臣。「御供(同盟)ノ家」。<福島の一門か?><この人物が、今川義元のライバルとなった今川良真とも深く係わりがあるかもです。>

岩本* (*)今川義元の家臣。「御供(同盟)ノ家」。

朝比奈* (*)今川義元の家臣。「御供(同盟)ノ家」。<駿河朝比奈家との関係は良好のようですね。>

⇔▽福島助春 (*~*1521)左衛門尉。今川氏親家臣。遠江高天神城主。<今川氏親の侍大将で1221年に甲斐に侵攻し武田信虎と戦闘した人物か?1521年駿河・遠江軍を率いて甲斐に進攻。1521年「上条河原の合戦」に敗北は、この人の事績か。子孫が福島正成と関連するか?1536年今川家内紛。今川義元の家督争い。今川良真の母が福島氏。>

⇔▽福島正成 (*1492~1536)九島・兵庫・上総介。遠江土方城主。今川氏親、氏輝の侍大将。1536年今川氏輝の死後に、篠原とともに今川良真(玄広恵探)を擁立し敗北。逃走するが武田軍により戦死。高天神城主。<一門残党は北条家の有力家臣に。父は福島基正とも。1521年に先陣を務めた助春嫡男は常陸介。今川義元の外交基本路線が武田よりとなり北条家と断絶するのは、武田軍の加勢があったからでしょうか。><伊勢(福島)九郎か。>
<北条氏綱の伊豆衆21家> 今川領の国人が早雲に従い伊豆に入植したのか、堀越公方に従う足利家臣としての在地の豪族だったのか見極めが必要かもです。

富永* (*)土肥・富長・三郎左衛門尉。伊豆衆21家の一家。伊豆西土肥の豪族。1522年古河公方に北条家からの使者として謁見。伊豆高谷・丸山城主。<政直の父・実吉か。のちの神四郎の一門か。><三河東条吉良家の宿老・富永氏の分家で足利家に従う富永氏なのでしょうか?。それとも早雲の「三河遠征」に降伏して臣従した富永氏なのでしょうか。野田冨永氏が牛頭天王社を奉じる事からゆけば、丸山城内にある津島神社の縁でゆくと三河冨永の分流とも考えられます。><源ノ頼朝により鎌倉の鶴岡八幡宮神職に抜擢された富永氏もあり、距離的にはその分流なのかもしれませんね。先祖の大伴氏の歴史と勢力から考えれば、多く東海道一円の同族なのでしょう。>

富永実直 (*)土肥・富長・四郎左衛門・政直。伊豆国人。実吉の息。1491年伊勢早雲に従う。1493年興国寺城代。1524年江戸城主。遠山直景とともに江戸在番。太田資高・康資を監視。息に直勝。<『太平記』にて足利尊氏の先陣として一番に名乗りを上げる設楽(富永)五郎左衛門の子孫でしょうか。源ノ義家の時代から河内源氏嫡流の先鋒として特攻隊長を務める富永氏が家臣にいるということが、関東経営の正当性を宣伝する効果があるのかもしれません。>

富永直勝 (1509~1564)土肥・富長・神四郎。伊豆衆21家の一家。伊豆西土肥の豪族。初代江戸城主。のち軍事的旗頭として江戸衆を率いる。氏康の代、青備え旗頭。1556年相模三浦三崎沖にて里見水軍と海戦。1564年太田康資の離反により「国府台の合戦」に討死。<弥四郎・康景と同一人物か、一門か。没年同じ。><直勝の跡職は政辰が継承するとも『戦国大名家臣団辞典』。事績は混同されている可能性あり。>
<富永・冨永(大伴)氏>源ノ頼義に従い奥州遠征。源ノ頼朝により鶴岡八幡宮の宮司。三河野田大宮司。神職を歴任。戦国時代は伊勢・近江・尾張・三河の各大名家にて一族が繁栄しています。武勲の家柄(名前による影響力)を各地の戦国大名家に求められたのでしょう。

▽宇田川* (*)宇多川・和泉守。元・扇谷上杉家臣。1524年北条家に降伏。江戸城改修の任務にあたる。

笠原信為 (*~1557)越前守。伊勢氏譜代家臣・笠原氏重の息。伊豆衆21家の一家。笠原美作守家と縁戚。早くから早雲に出仕、初代・武蔵小机城主。北条氏綱により北条幻庵の後見人とされる。息に義為、康勝。<祖父・氏冬の代から伊勢氏の家人とも。伊豆には、幕府奉公衆・高橋家の場合とは別で元々の地縁があったのでしょうか。><のちに松田家に乗っ取られるのは越前守家のほうです。>

▽○笠原綱信 (*)美作守・玄蕃助。伊豆衆21家の一家。伊豆北郡代。伊豆衆筆頭。評定衆のひとり。笠原越前守家と縁戚。1558年古河公方・足利義氏の小田原訪問に「北条五宿老」の一人として列席。<この人物の家系が笠原嫡流でしょうか。><鎌倉時代末期の平家政権の信濃武家棟梁。武田家によって信濃で滅亡した笠原清繁の一門でしょうか。><のち伊豆衆。>

横井* (*)神助・越前守。伊豆衆21家の一家。伊勢長氏が三浦義同・三浦義意親子を打倒し、1516年三崎城主。氏康の代、黄備え。<関東八州無双の強弓使い。>

安藤* (*)伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代、白備え。<伊豆衆 or 相模衆?。長太刀の勇者。>

山角* (*)伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代、黒備え。<京都衆 or 伊豆衆?伊豆に所領を保有しながら幕府に奉公していたか。><四郎左衛門・定吉の一門か。> 

朝倉* (*)伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代、青備え。<のちに江戸衆。>

田中* (*)伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代、青備え。<板部岡家と由緒?。板部岡はのち江戸衆。>

南条* (*)伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代、青備え。<のちに小田原衆。>

↓○清水* (*)伊豆衆21家の一家。伊豆衆筆頭。一門は氏康の代、赤備え。<清水綱吉、五宿老の清水康英の系統でしょうか。北条当主歴代に乳母を送り出す重要な役割の家系らしい。><のち伊豆衆。>

佐藤* (*)四郎兵衛。大見の三人衆のひとり。伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代、赤備え。

○遠山* (*)伊豆衆21家の一家。<京都衆 or 伊豆衆?伊豆に所領を保有しながら幕府に奉公していたか。> 
 
松下* (*)三郎左衛門・三郎右衛門。早雲の伊豆乱入の際、一番に臣従する。三津の豪族。伊豆衆21家の一家。<秀吉の奉公した今川家の家臣・松下氏との関係が気になります。>

桑原* (*)伊豆衆21家の一家。

↑高橋* (*)将監。雲見の豪族。伊豆衆21家の一家。一門は氏康の代に赤備え。<北条綱高に関連する高橋氏か。>

鈴木* (*)兵庫助。江梨の豪族。伊豆衆21家の一家。
山本* (*)太郎左衛門。田子の豪族。伊豆衆21家の一家。
狩野* (*)伊豆衆21家の一家。
村田* (*)市之助。妻良の豪族。伊豆衆21家の一家。
上村* (*)玄蕃。大見の三人衆のひとり。伊豆衆21家の一家。
梅原* (*)杢左衛門。大見の三人衆のひとり。伊豆衆21家の一家。

横地* (*)伊豆衆21家の一家。<今川義忠により滅ぼされた遠江の大豪族、横地氏の分家か。監物丞・吉信は一門か。>

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