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天下布武その1 織田信長の年表、初期家臣団と軍団、尾張統一戦

足利幕府の変遷

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織田信長の年表。織田信長の初期重臣・家老衆(林・森・坂井の軍団)。小笠原長忠の軍団「遠江衆」。

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織田信長の事績 略年表(1534~1582)

(1534) 5/11:信長誕生。幼名「吉法師」。
(1538) 那古野城主。
1542年 畿内にて三好範長(長慶)「太平寺の合戦」に勝利、木沢長政を打倒。
1543年 種子島に「鉄砲伝来」。
13歳(1546) 元服:三郎信長。
14歳(1547) 三河吉良大浜攻略に初陣。
15歳(1548) 11/*某日:濃姫と(婚約)結婚。
16歳(1549) キリスト教イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル来日。「天下人」三好範長(長慶:28歳)、足利義輝を追放し堺政権樹立。<「尾張半国、当方(今川)分国。」尾張守護:斯波義達の敗戦により今川那古屋家の尾張半国支配。>

18歳(1551) 3/3:父・織田信秀(末森城)没、家督相続。4/*:鳴海城の山口教継離反。

19歳(1552) 4/*:山口親子討伐「赤塚の合戦」。8/*:清洲家家老、坂井大膳軍の撃退「萱津の合戦」。

20歳(1553) 1/*:平手政秀自害。4/*:斎藤道三と会見。7/*:清洲城にて斯波義統、守護代・織田信友に下克上される。「安食の合戦」柴田勝家が坂井大膳を撃退。

21歳(1554) 1/*:三河今川氏の「村木城攻略」。4/20:「清洲城奪取」。11/*:叔父・織田信光が家臣に討たれる。

22歳(1555)  この頃、織田信長 清洲城を居城とする。7/*:織田信勝(信行)が叔父・信次の「守山城攻略」

23歳(1556) 4/20:斎藤義龍謀反。8/*:家老の林・柴田の謀反「稲生の合戦」尾張守護・斯波義銀と三河守護・吉良義昭の同盟会見。1557~1561年間に尾張守護・斯波義銀の追放。

24歳(1557) 美濃斎藤義龍軍、尾張侵攻・織田信広謀反。7/*:岩倉城主織田信賢・犬山城主織田信清を「浮野の合戦」に破る。

25歳(1558) 3/*:山崎城主・竹村長方が尾張品野城の桜井家次に敗北。柴田・佐久間臣従。11/2:信勝(信行)誅殺、柴田勝家を末盛城主。木下秀吉出仕。三好長慶(範長)と将軍・足利義輝和睦。<柴田勝家軍団成立か。末盛・上社・下社・守山・岩崎等の東尾張に与力か。>

26歳(1559) 3/*:織田信賢の「岩倉城攻略」。尾張統一を果たし京都に上洛。将軍・足利義輝に拝謁する。尾張守護就任を断られる。<当時38歳の三好範長を見るか。>

27歳(1560) 2*:桜井松平家次の尾張品野城を攻撃。長江景隆、落合城の戸田直光は降伏。5/19:桶狭間の合戦。今川軍を分散し本陣を探索襲撃。
今川義元、討死。浅井賢政(長政)が六角義賢・義治親子の勢力から独立。

28歳(1561) 西三河侵攻。4月三宅、中條攻め。5月挙母城攻略。高橋衆降伏臣従。5/14美濃攻め「森部合戦」5/23「十四条合戦」6月「稲葉山城攻め」。

29歳(1562) 1/*:松平元康と清洲同盟<清洲まで挨拶に来る「臣下の礼」>。6月小口城攻め。8/*:織田信清の「犬山城奪取」。尾張統一達成。西三河乱入。<西三河に佐久間信盛軍団成立か。>

30歳(1563) 対美濃 斎藤氏攻略の拠点、小牧山城築城。<信長様の最初の理想の城。「普請は戦争也」。>春、美濃乱入「新加納の合戦」。「遠江錯乱」外交戦。

31歳(1564) 7/*:三好長慶(範長)、河内飯盛山城屋敷にて死去(43歳)。喪は秘され三年後に葬儀。<64年8月犬山落城説あり。>竹中半兵衛、美濃稲葉山城を奪取。

32歳(1565)   武田晴信と同盟。1565年5月二条御所にて足利義輝自害。花押を「麒麟」の麟の字とする。美濃攻め「宇留摩・猿啄城奪取」。9/28「堂洞城奪取」。

33歳(1566) 織田尾張守信長を称す。後室、生駒吉乃没。秀吉、墨俣築城。<稲葉山城、対の城。本格的攻囲戦へ。>8/8美濃攻め「河野島の合戦」。

34歳(1567)8/18長島一向一揆攻め。伊勢侵攻「楠城奪取」。高岡城攻め。
9/*:美濃国斎藤龍興退散、「稲葉山城」入城。11/*:「天下布武」宣言。岐阜城下に「楽市楽座」令。妹・お市、浅井長政と婚姻。北伊勢調略。<瀧川一益軍団成立か。>

35歳(1568) 2月北伊勢侵攻。神戸、長野、関氏降伏。安濃津城奪取。9/7:足利義昭を奉じて上洛(兵6万動員)。9/12・13近江六角義賢攻略。10/18:足利将軍即位。10/23能楽。

36歳(1569) 1/5三好三人衆、足利義昭を襲撃。信長上洛「六条本圀寺合戦」。2/*~4/14:将軍邸工事。イエズス会宣教師ルイス・フロイスに布教を許可する。3/*:「管領・副将軍」を辞退、近江草津・大津、和泉堺に代官設置の許可を得る。8月伊勢侵攻。  伊勢木造・戸木城奪取。10/3神戸・長野・北畠伊勢平定。

37歳(1570) 1/23足利義昭の行動を制約する。4/20若狭侵攻、朝倉義景討伐軍。「金ケ崎の退き口」池田勝正・松永久秀・羽柴・徳川。6/28:浅井・朝倉討伐。「姉川の合戦」。近江国の佐和山城奪取、丹羽長秀に。<秀吉の横山城は、小谷城の対の城。><丹羽長秀軍団成立か。> 9/*:石山本願寺挙兵(1570~1580)。9/20朝倉・浅井連合軍の山城侵攻「近江宇佐山落城」。10月~12月近江坂本・比叡山の攻防。11月伊勢長島一揆蜂起「尾張小木江落城」。

38歳(1571) 5/16伊勢長島攻め、氏家戦死。8~9月朽木氏救援、近江一揆攻め「志村城奪取」。9/12:比叡山「延暦寺焼き討ち」。

39歳(1572) 3月北近江侵攻「水戸・田中城攻め」。7~9月北近江侵攻7/19「信忠初陣」。虎御前山砦築城。朝倉氏南下。前波、富田氏降伏臣従。12/22:武田信玄進攻「三方ヶ原の合戦」。

40歳(1573) 2月幕臣・山岡景友、今堅田に反乱。4/*:上京焼き討ち。7/3二条城・三淵藤秀、宇治槙島城に足利義昭挙兵。7/18将軍追放(足利幕府滅亡)。8/8~8/28:浅井・朝倉滅亡。明智光秀、坂本築城。羽柴秀吉、小谷城拝領。長浜築城。9/24~10/25:伊勢長島攻め。林新二郎戦死。北畿方面軍(東・西)大軍団<旗頭:惟任光秀・惟住長秀>成立か。

41歳(1574) 1/27~2月武田軍東美濃侵入「明智城落城」。5~6月武田軍遠江侵入「高天神城落城」。後詰の信長・信忠軍、遠江今切から引き返す。織田信忠元服。7/13~9月:伊勢長島攻め。本願寺一揆殲滅。

42歳(1575) 4月河内侵攻。「高屋城攻略」三好康長降伏臣従。本願寺攻囲刈田作戦。和泉「新堀城奪取」十河・香西軍撃破。 5/21:三河長篠城後詰、「長篠・設楽原の合戦」。8/*:越前一向一揆平定。11/14:武田軍が占領する岩村城を攻略。11/28:嫡男信忠に家督譲渡。北陸道方面軍<旗頭:柴田勝家>成立。

43歳(1576)  1/*~2/25:安土城築城。4/29:新二条城普請。正三位内大臣・信長。4月~5月摂津「石山本願寺攻略」。7/13:「一次木津河口の海戦」毛利輝元の水軍に敗れる。9/*能登国「七尾城の攻防」。南畿方面軍<旗頭:佐久間信盛>成立。

44歳(1577) 2月~3月:雑賀・根来の一揆征伐、3/15:雑賀7頭衆降伏。安土城下に「楽市楽座」令と定書を発布。 9/13:加賀「手取川の合戦」上杉謙信に敗北 。10月松永久秀征伐。10/10:松永久秀爆死。11/21:従二位右大臣・信長。10/23:播磨出兵。但馬侵攻、「山口・竹田城奪取」。播磨「上月城奪取」。中国方面軍・羽柴秀吉軍団成立か。

45歳(1578) 正月安土万見邸にて信長「新年茶会」に重臣12人を招待。4月石山本願寺攻囲・刈田作戦。別所長治離反。5~7月播磨出兵。「上月城落城・尼子氏滅亡」。6/26:「淡輪沖の海戦」。9/*上杉謙信死去、柴田軍団が加賀侵攻。越中にて、斉藤長龍が河田長親と合戦。10/*:荒木村重謀反。 11/6:「二次木津河口の海戦」鉄甲船で毛利水軍を破る。11/9:摂津荒木村重征伐。瀧川「茨城城攻略」、信忠「高槻城攻略」。有岡城攻囲。

46歳(1579) 3/*柴田軍団「尾山御坊攻略」。徳川家康に嫡子「徳川信康」の切腹の許可。正室・築山殿の殺害を許可。5/11:安土城完成。 5/27:安土宗論(浄土宗VS法華宗・法華宗敗)

47歳(1580) 1/17:1578年7月攻囲~羽柴秀吉「三木城攻略」、別所氏開城。3月柴田勝家、加賀乱入。4/9:本願寺顕如光佐、大阪石山退去。7/10(8/2とも):教如光寿退去。8/17:林秀貞、佐久間信盛、丹羽氏勝、安藤守就を放逐。11/17:柴田勝家、加賀制圧。関東北条氏政調略。佐久間信盛軍団解体。

48歳(1581) 羽柴秀吉、 池田恒興が淡路平定。2/23宣教師バリ二ャーニ、黒人弥助と対面。2/28京都御所前で馬揃え。3月能登進攻。七尾城・菅屋長頼、富来城・福富秀勝、飯山城・前田利家入城。7月因幡国侵攻、羽柴秀吉「鳥取城攻囲」。9/3北畠信雄、伊賀乱入、9/11伊賀平定。10/9伊賀見物。10/25吉川経家降伏「鳥取城奪取」。

49歳(1582) 2/12信忠、信濃甲斐に乱入。3/11:武田勝頼自害。関東方面軍成立<旗頭:瀧川一益>成立。6/2:本能寺の変。6/2新二条城にて織田信忠自害。

新二条城(二条御所)を襲撃した伊勢貞興。斎藤利三。

<織田信秀の家臣団と軍団>

⇔ 織田信秀 /oda,nobuhide(1510~1551*1552)三郎・弾正忠・備後守・(三河守)・桃厳。織田信定(信貞)の息。織田信長の実父。代々、勝幡城主にて津島を支配する。愛知県愛知郡・中島郡・春日井郡に所領。尾張国下四郡守護代・織田大和守家の三奉行のひとり、下克上により尾張国内の軍事指導者となる。1533年飛鳥井雅綱・山科言継を招待し蹴鞠。織田達勝の清洲城に二人を送る。のち1535年古渡城主。同年隣国の松平清康が「守山崩れ」で死亡。1540年三河安祥城奪取。1541年伊勢神宮造営の費用(700貫)を献じ「三河守」任官。1542「小豆坂の合戦」に勝利。1543年5月内裏修理費用4000貫(正しくは1000貫とも)を献じる。1544年朝倉と結び美濃乱入。1547年「稲葉山攻め」に斎藤秀龍(入道道三)に敗北(加納口の合戦)。三河国安祥城を今川軍に奪取され信広が人質。1547年信長初陣。1548年老臣・平手の才覚で、濃姫と嫡男・信長が婚姻。1548年「小豆坂の合戦」に大原崇孚に敗れる。1551年末森城にて病死(1552年3月とも)。41歳。息に信広、信長、信勝(信行)など。<側室に塙(原田)直政の姉や、岩室殿という人がいるようですが、岩室といえば信長の寵愛する小姓さんと関連ありでしょうか。><室に小島信房の娘。中根康政の娘。><1543年に連歌師・宗牧が尾張を訪れ、美濃から敗戦してきた信秀が何食わぬ顔で接待してくれたと記録。><「三河守」任官は松平家の三河支配を否定することになるので、江戸時代に徳川家により削除されるか?。> <何故、献金額が奈良では4000貫と噂が広がっていたのか。純粋に工事費用が1000貫で、残り3000貫は朝廷の工作費用となったり、貯蓄されて以降の生活費用に充てられたのか。織田家的に総額4000貫だったかもしれません。>

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 西は大垣から、東は安祥まで。 (いくさ)奉行・織田信秀駆ける。


<(戦)奉行・織田弾正忠家 織田信秀の軍団>
1551年3月頃織田備後守信秀公、病死。
<信秀公の馬廻衆は、1542・48年「小豆坂の七本槍」衆は信秀の弟・織田信光(①/7)を筆頭に、だいたい1525年頃の出生が中核のようです。信秀さんの15歳年下のグループです。><小豆坂が1回説、2回説いろいろあります。三河安祥城の攻防も5回あるともいわれてます。>

① 織田信辰 /oda,nobutatu(*~1560)(小瀬・菅屋)・造酒丞・造酒佐・「織田信房」。織田一門(信秀により織田姓を与えられるとも)。小瀬清長、菅屋長頼の父。備後守譜代の武将として、信秀舎弟三人に続いて第四位に記される一門の武将。1542年第1次「小豆坂の合戦」に負傷するも武功。1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人(②/7)。織田信勝との「稲生の合戦」に軍功。1560年「桶狭間の合戦」に従軍、以降消息不明。海東郡大屋。<菅谷・菅屋が本来の姓でしょうか。信秀室の父・小島信房という人物と同一人物か?。><信秀の代に美濃大垣城主となる人物も織田信辰と表記されることが有ります。大垣城主・織田播磨守は藤左衛門家の庶流のようです。別系統でしょう。><造酒丞は近隣に剛勇を謳われたらしいです。><池田家とは因縁の仲の様子です。>

② 赤川景弘 /akagawa,kagehiro(*~1569*)坂井通盛・(彦右衛門)・三郎右衛門。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に奮戦。矢島六人衆のひとり。初期の信長の家老として活躍。永禄末年頃、赤幌衆の加藤弥三郎と対立し斬られる。息に坂井下総守・成利、赤川惣左衛門(岡田重善の家臣)。<信秀の代に今川の連歌師が訪問した頃、尾張の小守護代が坂井村盛といったそうです。><坂井政尚は坂井下総守の養子となったとも。世代的に苦しいような気がします。><彦右衛門は三郎右衛門とは別人格かも。><尾張坂井(酒井)氏は平ノ貞能の子孫とも。>

③ 山口教継 /yamaguchi,noritugu(*~1552*)(大内?)・左馬介・(義継)。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。今川家との国境、鳴海城主となるが信長の代に今川家に降服する。<信長赤幌衆・山口飛騨守と関連アリカ、今川についた尾張衆の旗頭。><今川義元により一時は名前を与えられるほどの蜜月があるようですが、のち抹殺されるようです。><大内義興が管領代の時代に尾張方面に派遣された大内家武将の末裔なのではないでしょうか。今川と織田を仲介できるほどですから、その地域でも特別な地位なのでは。>

⇔▽ 山口教吉 /yamaguchi,noriyosi(*~1552*)九郎二郎。教継の息。今川家に臣従する。のち今川義元に誅殺される。<信長様と同年齢くらいの若手武将。><今川義元により抹殺されるようです。><義元が名を与えるなら、教「義」と、こちらのほうがしっくりする気がします。>

⇔↓④ 飯尾定宗 /iio.sadamune(*~1560)(織田)・近江守。織田信秀の従兄弟(または叔父)。飯尾家に養子。(柴田勝家は娘婿らしいですけど。要確認。)尾張国奥田城主。馬廻衆として重きをなす。子息・信宗(尚清)は信長の黒幌衆のひとり。尾張の祭りで弁慶役を務める。1556年6月守山城攻略に従軍。1560年5月今川家に備え鷲津砦を守備。尾張国中島郡。娘婿に柴田勝家。息に尚清。<元祖・黒幌保有者か?><柴田・飯尾・長谷川ネットワーク。柴田勝家との関係は未確認情報です。越前の武士か何かの本に系譜がのっているようです。><幕臣であったとするならば、千秋家と同格の家柄。主・吉良家を裏切り今川家に仕えた飯尾家の分家が、尾張に今川代官として派遣されたのでしょうか。>

⇔↓▽ 飯尾尚清 /iio,naokiyo(*1528~1591)(織田)・茂助・隠岐守・出羽守・信宗。尾張豪族。義兄弟に柴田勝家。長谷川秀一は娘婿。父・定宗は桶狭間に戦死。織田信長の赤幌衆となる。1555年織田信次の守山城攻囲に従軍。1574年伊勢「一向一揆征伐」に従軍。1577年4月大坂城の付城構築の奉行。1578年4月播磨三木城の付城普請奉行。64歳。<小姓から選抜された赤幌衆としては高齢すぎ、生年に疑問ありです。山口教吉と同じく信長と同世代くらいでは?><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

佐々勝通 (*~1569)佐々成宗(盛政)の息。兄弟に孫介・勝重、成政。尾張国伊関城主。息に清蔵(*~1582)。清蔵は叔父・成政の娘婿。<伊勢大河内城攻めに隼人正あり。跡職を継承した別人か? それとも息子に先立たれた父・成宗が復帰するか。>

⇔↓⑤ 佐々成吉 /sasa,nariyosi(*1525~1560)隼人正・下野守・政次・長盛。元は尾張北守護代(岩倉)家の家臣。佐々盛政の息、佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功、1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人(③/7)。1560年「桶狭間の合戦」に信長本軍の別働隊として、千秋季忠とともに討死。娘婿に松原直元。<元祖・黒幌保有者か?><この人の死後、佐々家離反の噂がたったようです。あいついで一門に戦死者がでるのに不遇だったからかなあ・・。風評は敵の離間策かもですけど。><佐々成政家臣の松原直元(政次の娘婿)と濃い縁戚関係です。>

⇔↓▽⑥ 佐々成経 /sasa,naritune(*1527~1556)孫介・盛種。佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功、1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人(④/7)。矢島六人衆のひとり。1556年織田信勝と信長の跡継ぎ争い「稲生の合戦」に信長側で柴田勝家勢と戦い討死。息に行政。<元祖・黒幌保有者か?><矢島六人衆とは?。矢島氏と何か特別な関係がありそうです。>

⑦ 中条家忠 /cyuujyou,ietada(*~*1577)小一郎・将監・秀長。尾張刈安賀の豪族。信長の馬廻、譜代の侍大将。1552年清洲衆との「海津の合戦」に柴田勝家とともに功名。1556年岩倉守護・織田信賢との「浮野の合戦」に武勲。1560年「桶狭間の合戦」。1570年「姉川の合戦」に従軍。1570年「小谷城下の殿軍」を佐々成政・簗田広正とともに務める。<『武功夜話』では佐々・簗田・中条は春日井衆で一括される。><三河国西加茂郡の中条氏とのつながりが気になるところです。><1551年に藤島の丹羽氏秀を匿う、三河の織田方の中条秀政とは一族でしょうか。><三河衆ならば、家忠さんは姉川に従軍しているので、1561年頃織田軍の西加茂郡征服により中条家は滅亡というのは誤伝です。>

⑧ 下方貞清 /simokata,sadakiyo(1527~1606)弥三郎・左近将監・(匡範?)。織田一門カ。織田家三代の家臣、子息は信忠直臣。信秀に従い16歳で「小豆坂」に従軍。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。1548年第2次「小豆坂の合戦」の七本槍のひとり(⑤/7)。『最初槍(はなやり)六度』の勇者。1573(天正元)年朝倉追撃戦に軍功。元祖赤幌らしい。瀧川一益の与力となり伊勢攻略に尽力、尾張国春日井郡上野城主。<⇔織田信長の近衛軍(旗元馬廻衆)のページを参照して下さい。>

⑨ 岡田重善 /okada,sigeyosi(1527~1583)(山田)・助右衛門・重能・直教。尾張国の土豪、岡田重頼の息。信秀の馬廻衆。1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人(⑥/7)。信長の初陣に従軍。以後馬廻として各地に転戦。子息、岡田重孝は北畠信雄の家老職。与力に赤川惣左衛門。息に重孝、善同。<次男・信雄のことはまかせたって感じでしょうか。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。><赤川氏と特別な関係があるようです。><尾張岡田氏は山田氏の分流とも。>

⇔↓⑩ 中野一安 /nakano,kazuyasu(1526~*1582)又兵衛・(重吉?)。織田信秀からの臣。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂の七本槍のひとり(⑦/7)。信長の家督相続時頃、「弓三張」のひとり。信長の信頼厚い勇士。1570年三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1578(天正6)年荒木村重の有岡城攻囲、城下を火攻め。1580年佐久間信盛追放の奉行。1581年馬揃えに弓衆百人を率いる。<一番そばでずっと信長様の最初から最後までをみてきた人かもしれません。重吉という名前については徳川家臣の人物と混同されてしまったらしいです。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⑪ 内藤 * /naitou,*(*)勝介。信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。のち信長補佐の四老のひとり。「赤塚の合戦」に先手足軽衆のひとり。以降消息不明。息に小三郎、主計。娘婿に祖父江長定。<四老(おとな)のなかでも武闘派の侍だったようです。いくさ時の階級が足軽大将なのは同名の息子かもしれませんが・・。><三河の豪族・内藤清長と関連はないのでしょうか。清長は一揆に参加してのち消息不明です。>

⑫ 神戸 * /kanbe,*(*)市左衛門。信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。中島郡光明寺城。<北伊勢からながれてきたんでしょうか。生駒市左衛門の誤記か。><丹羽長秀に従い北畠攻めに戦死する神戸あり。>

⑬ 永田 * /nagata,*(*)(長田)・次郎右衛門。信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。<六角家臣に永田氏あり、南近江からながれてきたんでしょうか。><大橋家とも関係がある長田家だったりするでしょうか。信長初陣に三河大浜の敵は長田/osada,だったらしいですが。>

<弾正忠家、軍師>

 ⇔武藤雄政 (*)掃部助。織田信秀家臣。信秀の那古屋城奪取後、尾張勝幡(塩畑)城主。 1555年野夫城主。 <勝幡を預けられるほどに信秀の信任厚い。><信長の重臣・武藤舜秀と関連ありか>

⇔↓佐久間重行 (*~*1553)九郎左衛門・入道全孝。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。1535年松平清康戦死。1549年岡崎城主・松平広忠を暗殺する。1554年息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。><多々良(大内)氏族の山口氏との一族同然の関係から、管領代・大内義興との関連が考えられなくもありません。「応仁の乱」からの抗争の上に尾張の諸豪族の繋がりが存在するのではないのでしょうか。諸豪の連合間の争いの中で、織田弾正忠家が伸し上がれたのではないのでしょうか。>


《個人的感想》 清洲織田大和守家の権力失墜は、中央の政権の動向に連動していて、織田達勝と親しい管領・細川高国の「権力失墜」に連動していたのでは。
 信秀は新勢力の細川晴元、その重臣である三好家と、急速に結びつき尾張での地位を確立したのでは。
 弾正忠・信秀の家臣では、柴田権六さん、佐久間盛重さん達がいつ頃から台頭してくるのかが気になるところです。
 東海道一円で、「永楽通寶」が流通の要として定着する原因はなんだったのでしょう。中国の銅銭を多く入手できる立場にあったのは、当時最も経済力のあった山口の太守・百済王の末裔・大内義興。
  1508年に大内義興が、前将軍・足利義稙を擁して上洛し、政権を握り、管領・細川高国とともに天下を統制しようとしたならば、「通貨」の基準となる銭を選定しようということになるかもしれません。
 そうすれば、瀬戸内海の玄関「堺」、「京都」、六角の「近江八幡」、高国の婿・北畠のいる南伊勢、尾張にいる大内同族の山口氏、三河の細川領、そして今川氏が管領・細川を支持し、通貨基準をそれにならったとしたら・・。主要な通貨が各商業都市で定まり「銭」の需要が増えたのでは。
 細川高国・大内義興(高国・義興は仲違いする)、その敵対勢力である細川晴元、その家宰・三好(範長)長慶と同盟を求めていた織田信秀が、
 尾張津島にて旧ライブドア方式で自ら銭を造りだしていたとすればどうでしょう。朝廷への献金、伊勢神宮への献金、貴族も驚く「不思議の大営」。
 斯波家に関わる武家
 山口(大内)氏の親戚である佐久間との結びつきから、織田弾正忠家が津島で「永楽通寶」を鋳造していたとしたら。当然その根幹となる鉱山や原料の流通の制覇が必要となります。
 尾張と美濃の鉱山地帯、瀬戸周辺や、その領主の戸田氏、それに代わる桜井松平氏、渥美半島から元康を売り飛ばす戸田氏、これらの攻防も、尾張・三河・美濃国境の鉱山の奪取と結びついているのでは?
 「桶狭間」に到る今川と、新興・織田の対立と抗争は、通貨を操ろうとする獅子身中の虫に対する、今川家の経済攻防だったのでは。
 秀吉の代に整ったという貨幣経済、それ以前に先駆けとして、「闇銭王」ともいえる織田信秀があり、織田弾正忠家の台頭とともに、旗印「永楽銭」による全国的な流通基準貨幣の宣伝、織田信長の中央進出による流通銭としての「永楽銭」の確立があったのではないでしょうか。
 畿内進出とともに「生野銀山」の接収があり、織田鋳造銭の価値の引き上げ、ライバルとなる甲斐武田氏の甲州金の打倒、
毛利家との対決は、石見銀山を背景とする、毛利の基準通貨との、経済戦争そのものなのかもしれません。  どうでしょう?(妄想。
<もし信長様に関連するのなら、「永楽銭」収集してもいいかもしれません(笑。>

<戦奉行・織田弾正忠家 織田信秀の宿老>
平手政秀 /hirate,masahide(1492~1553)<世良田>・監物・中務大輔。信長与力家老・那古屋衆。愛知郡平天城主・経秀(経英)の息。織田弾正忠家宿老、織田信長の後見人。室は橋本一巴の姉。弟に野口政利、季定、長成。1533年公家・山科言継、飛鳥井雅綱を接待。1543年織田信秀の使者として上洛。天皇家に御所修理料壱千貫を献上。1547年「吉良大浜攻撃」に従軍。1548年才覚で斎藤道三娘との婚姻を取り持つ。1553年1月自害。長男に五郎左衛門・長政<弟・(野口)政利を養子>。次男に監物・久秀(宗政1524~1574)。三男に甚左衛門・汎秀(久秀の息とも)。娘婿に織田長益。尾張国志賀城主。春日井郡小木村に政秀寺が建立される。息子の一人は埴原常安の養子とも。<「古今集(和歌)」に通じた文化人と評されます。><武功夜話に平手三位とあるのは誤記ですか?> <松平家の家系図と結びつくことに。家康が、幼少人質時代に平手家に世話になった事があるのでは?。>

林 秀貞 /hayasi,hidesada(*~*1580)<稲葉・一柳>・新五郎・佐渡守・(備前守)・通勝。織田信定に出仕した林(稲葉)通安の息。林勝隆の養子。信秀、信長、信忠三代に仕える織田家随一の老臣。信長与力家老・那古屋衆。尾張沖城主。愛知郡狩宿を領する。1531年飛鳥井雅綱に蹴鞠の弟子入り。1556年織田信勝を後援し、柴田とともに信長に叛した「稲生の合戦」に敗北。信長に赦免される。1562年1月松平元康と清洲会見。三河に同盟の答礼。那古屋城主。1568年上洛し京畿の政務に係る。1573年足利義昭との取次ぎ。1573年9~10月北伊勢「長島一向一揆」攻撃に従軍。1574年直江景綱との取次ぎ。1574年島田秀順とともに囲い安宅船を建造。1574年7~9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。織田信忠に家督が譲られて以降は信忠の執事として重きを成す。1578年播磨「三木城攻囲」に従軍。1580年、信長に過去の失態(1573年伊勢一向一揆に敗北)を責められ追放。京都にて没。<美濃の稲葉家とは河野氏を先祖とする親戚。松永久秀の家臣の林通勝とむすびつけるよりは、稲葉一鉄の長兄、稲葉(林)通勝と混同されて、「林佐渡守・通勝」で一般に普及したと考えるのが自然かと・・・。>

青山秀勝 (*~1544)余三左衛門尉。織田信秀家臣。信長与力家老・那古屋衆。1544年土岐頼武擁する朝倉家と結び美濃稲葉山城攻め、道三軍に敗れ戦死。息に虎(秀昌)。38歳。<『信長公記』に与三右衛門。戦死した余三左の跡職を与三右が継承するか?。>

青山信昌 (*~1544*1547)与三右衛門。織田信長の那古屋城時代の四老のひとり。信秀の美濃稲葉山城攻略に従軍し戦死。

青山秀昌 (*)虎・小助。余三左衛門尉秀勝の息。内藤勝介の息・小三郎と共に、因幡守家臣・桜木隼人助を討ち、三河に出奔。家康に出仕。<家康家臣の青山氏は、元々は織田家の重臣・内藤氏だったか?。>

▽青山昌起, (*)新七。余三左衛門尉秀勝の息。
▽青山吉次, (*)与三。余三左衛門尉秀勝の息。

青山 * /aoyama,*(*)新七。蜂須賀党頭衆のひとり。織田信秀に従い1547年9月美濃「稲葉山攻め」に従軍『武功夜話』。1564年の墨俣築城、1567年の「稲葉山城攻略」に木下秀吉に与力。以降は信長直参の馬廻衆。1575年長篠城救援に金森長近・酒井忠次の別働隊の軍監。息に小助。<織田信秀に従い、再び信長に出仕する不思議。何があって浪人(蜂須賀衆)してたのでしょう。><青山新七と、青山与三右衛門との事績が混同されているとしても、息の小助が川並衆から離れて信長直参になるのは確かな様子です。><丹羽長秀の家老・青山宗勝と信長小姓の青山虎の親子との関連が気になります。>

内藤 * /naitou,*(*)勝介。信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。のち信長補佐の四老のひとり。信長与力家老・那古屋衆。「赤塚の合戦」に先手足軽衆のひとり。以降消息不明。息に小三郎、主計。娘婿に祖父江長定。

内藤* (*)小三郎。弟に主計。義理の兄弟に祖父江長定。青山秀勝の息・虎とともに、因幡守家臣・桜木隼人助を討ち、三河に出奔。家康に出仕。<家康家臣の内藤氏は、元々は織田家の重臣・内藤氏だったか?。>

<戦奉行・織田弾正忠家 織田信秀の与力衆>
寺沢 * /terasawa,*(*~1544*1547)(毛利)・又八。織田信秀の家老。1547年斎藤道三軍に敗北し戦死。舎弟に毛利藤九郎。(岩越喜三郎)。<1568年伊勢「大河内城攻撃」に丹羽長秀家臣に寺沢弥九郎あり。一門か。><秀吉古参家臣にも寺沢藤左衛門(広政)あり。>

毛利敦元 /mouri,atumoto(*~1544*1547)十郎。寺沢又八の舎弟。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。1547年斎藤道三軍に敗北し戦死。その後、毛利(十郎)新助が家督を継承したと考えられる。<父の名を踏襲する十郎から、義元首級を討ち取る武勲により新助と改名したか。>

毛利 * /mouri,*(*~1544*1547)藤九郎。信秀の家老、寺沢又八の舎弟。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。斎藤道三軍に敗北し戦死。<斯波家の臣ながら軍奉行・信秀に従軍か。>

岩越 * /iwakosi,*(*~1544*1547)喜三郎。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。斎藤道三軍に敗北し戦死。<菅屋長頼の家老に、岩越吉久あり。子孫か。>

⇔▲佐久間重行 /sakuma,sigeyuki(*)九郎左衛門・入道全孝。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。岡崎城主・松平広忠を暗殺する。息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。>

柘植* (*)三河国三好(三吉)城主。<三好城は柴田勝家の甥・佐久間勝之が城主となる。勝之は佐々成政の養子。1582年に廃城。><隣接する福谷城の原田氏との関係もあり、長興寺「信長肖像画」の作画依頼者、余語(佐々縁戚)氏、久三郎正勝へと繋がる気がします。柴田敗者側の消された歴史に関連がありそうです。><長興寺が位置的に矢作川を挟んで岡崎に隣接する。家康家臣とされる柴田政之・康忠親子は元々三河のどこに所領を持っていたのでしょう?。(H28.11月悩)>

佐久間盛重 /sakuma,morisige(*~1560)大学助。信長弟、織田信勝老臣。1551年織田信秀の葬儀に信勝に従い参列。親信長派。信長と信勝の対立の中で1556年名塚砦守将。1556年信長派として「稲生の合戦」に橋本十蔵を討取る功名。1560年今川義元に対して「桶狭間前哨戦」丸根砦で討死。息子は奥山盛昭。のちの柴田勝家配下の猛将・佐久間盛政の叔父。<個人的には佐久間盛重の次ぎに書かれている佐久間次右衛門は山崎の信盛じゃなくて、五器所佐久間の誰かだと思います。>

⇔▲織田寛継 /oda,hirotugu(*)播磨守・(信辰?)。織田家一門、藤左衛門家庶流。三奉行・織田寛故の息。1543年(1546年?)織田信秀に従い、最前線の大垣城を守備。1547年斉藤軍に攻囲され、後詰の織田信秀の援軍は破れる。息に信張。<のちのち、本家よりも信長に近い信張が嫡流とされたのでは。><織田信張さんはのち和泉半国守護となる。><寛維とは従兄弟ということでしょうか、もしくは親子なのか。>

毛利広雅 /mouri,hiromasa(*~1563)掃部助・広包。元・斎藤家家臣。1537年織田信秀と音信。織田家に通じる。のち美濃大垣城主。息に広盛。<信秀の代に大垣城主の織田播磨守・寛継との関係が気になります。><森可成と先祖を同じくする同族らしいです。>

毛利* (*)小三郎。織田信秀家臣。

⇔○長谷川与次 /hasegawa,yotugu(*~1599)丹波守・可竹・嘉竹・(興次)。赤幌衆の長谷川橋介は弟。信秀の馬廻衆。信長馬廻衆。信長側近として各種奉行を務める。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年8~9月三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1570年9月江北出陣。1571年5月伊勢長島一向一揆征伐に従軍。1574年伊勢長島に従軍。1578年安土信長茶会11人衆のひとり。1582年甲州征伐に従軍し「恵林寺焼き討ち」奉行のひとり。岐阜城城代。のち秀吉に出仕、越前に所領を有す。長谷川秀一の養父。<もともとは信秀葬儀の際に信行に追従した家老のひとりか。>

長谷川* (*)宗兵衛。織田信秀家臣。<丹波守与次と同一人物とも>

山田 * /yamada,*(*)弥太郎。信秀の馬廻衆。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№12」。<もともとは信秀葬儀の際に信行に追従した家老のひとりか。><尾張衆。山田一族。信秀の古渡・那古屋の奉行、山田弥右衛門の関係者カ、織田信勝(信行)の家老にも山田氏あり。本能寺戦死の小姓衆に同名あり。>

山田綱定 (*)弥右衛門・「野木庄兵衛」。織田信秀家臣。信行家老。信秀葬儀に参列。息に高定。

堀部氏俊 /horibe,ujitosi(*)(佐々木・六角)・(堀場?)・森川・金右衛門。近江六角氏分家。堀部氏兼の息。室は大村越前守。織田信秀家臣。本多忠勝与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠 合戦」従軍。1582年家康とともに上洛。「本能寺の変」に家康とともに伊賀越えで帰還。息に重俊。<遠江の戦線に織田家の軍監として派遣されていたのでは・・・。><中川金右衛門は、森川の誤記なのでは・・。><医者・曲直瀬道三は堀部氏のようです。>

花井政勝 (*~1562)三河守。1555年山口家から奪還後の星崎城主。1560年「桶狭間」に従軍し中島砦入りを引き留めた家老六人衆(林・池田・長谷川・蜂屋・平手)のひとり。娘婿に沢井雄重。<星崎城は尾張山田荘の山田氏創建。1582年頃には岡田(尾張源氏山田氏後裔)重善が星崎城主。><今川に通じ降伏した花井一族もいるか?>

山口重俊 (*)息に重勝。織田信秀に従う。息に重勝。寺部城主。

山口重勝 (1547~1595)清蔵・半左衛門。息に重政。織田信秀に従う。養子に佐久間信盛から佐久間姓を与えられた重政。寺部城主。娘婿に豊臣秀次。

山口盛隆 (*~1564)海老之丞。山口惣領家。祖父に安盛、父に宗可。織田信秀に従う。1560年水野帯刀とともに丹下砦を守備。1564年美濃堂洞城攻めに戦死。市場城主。

柘植玄蕃允 (*)真野・玄蕃頭。織田信秀に従う。1560年鳴海城包囲の丹下砦の将。<1583年柘植道昌が諸輪南城を築城。のちに真野氏を名乗る。><三河との国境・柘植道満館も関連ありか。>

 * (*)十左衛門。1560年鳴海城包囲の丹下砦の将。<1533年山科言継の日記に伴九郎兵衛兼久あり。>

山岡* (*~1554)河内守。織田信秀に従う。1554年今川軍の侵攻により落城。重原城主。<山口氏の誤りでしょうか?。それとも近江瀬田の山岡氏に関連ありか?。>

矢田* (*~1564)作十郎。吉良家家臣。1563年家康の支配に対して起きた三河一揆の首領。小豆坂にて戦死。<家臣ではないかもしれませんが、信秀の統治圏内の領主です。安祥城以西の絵下城。境川流域。>

戸部政直 (*~1557*1558)新左衛門。織田信秀に従う。今川方に離反する。岡部元信を引き入れる。今川義元により誅殺される。戸部城主。

近藤景春 (*~1560)九十郎・景治。沓掛城主。近藤伊景の跡職を継承。松平広忠家臣。のち織田信秀に従う。1559年戸部氏の調略により今川義元に降伏。今川一門・浅井政敏が入城。高圃城に退去。1560年織田軍の攻撃で戦死。

原田氏重 (*)糟谷氏の領地を継承。1550年丹波隼人佐が城主。跡職を継承。1556年織田家との抗争に大久保忠勝、忠佐、阿部忠政が後詰。酒井忠次、渡辺義綱が二ノ丸城主とも。三河福谷(うきがい)城主。<中条氏の領地に隣接する。1560年酒井氏と柴田勝家が福谷を巡り抗争。><信秀の側室・原田氏や、柴田勝家の縁戚・原田(塙)直政と関わりがあるんじゃないでしょうか。>

原田種友 (*~1572)大蔵・藤左衛門。1561年久木城主。1572年「味方ケ原の合戦」に戦死。息に種吉。孫に種成。三河久木城主。<年代的に福谷を追われた原田氏が久木に移った気がします。>

津島大橋家由緒の林氏。
(筆頭家老・林家)

▲林 * (*)新左衛門。弟に八郎左衛門。尾張林家。息に秀貞、通具。<尾張林家は和田裕弘氏によると知多郡に縁があると。『言継卿記』に秀貞の父は八郎と記載あり。>

⇔林 通安 (*~1580)(稲葉)・八郎左衛門・(宏綱)。稲葉(林)通村の息。尾張林家。義兄弟に織田弾正忠家の信定。甥に織田信秀。美濃の稲葉氏は一族。息(養子?)に秀貞、通具。娘婿に森可成。<娘婿に森可成か。新右衛門・通安とは同一人物では?。もしくは親子で同じ名乗りというのもありえなくは無いです。><稲生の合戦に林家に替わり森家が台頭するのは、同族の分裂だったからでは?。>

⇔林 通安 (*)新右衛門。室は塙義元の娘。娘婿に森可成(元・長井家家臣、のち織田信長家老)。息に森家家老の林為忠。<「稲生の合戦」に林通具を討ち森可成が信長重臣に出世するので、「林一族の争い」から可成を勘当とかで、別人としているのでは?><室は塙義元の娘、この人が原田直政の父なら、塙家を通して林=森=原田=柴田のパイプができるのですが・・。原田直政が出頭するのも判る気がするのですが。>

⇔▽塙 義元 (*)大野木・(於ノ木)・茂元。尾張大野木の豪族。1567年連歌師・里村紹巴を尾張に接待。娘婿に森家の家老・林通安。<世代的に塙直政の父か?兄か?><森可成の室は為忠の父・林通安の娘。>

△林 勝隆 (*)九郎。新五郎秀貞を養子とする。

林 秀貞 (1513~*1580)<稲葉・一柳>・新五郎・佐渡守・通勝・「南部但馬」。織田信定に出仕した林(稲葉)通安の息。林勝隆の養子。弟に美作守・通具。妹婿に森可成。織田信秀、信長、信忠三代に仕える織田家随一の老臣。尾張沖城主。愛知郡狩宿を領する。知多郡水野氏との取次。1531年飛鳥井雅綱に蹴鞠の弟子入り。1555年父・宏綱の供養の為に寺院建立。1556年織田信勝を後援し、柴田とともに信長に叛した「稲生の合戦」に敗北。信長に赦免される。1562年1月松平元康と清洲会見。三河に同盟の答礼。那古屋城主。1568年上洛し京畿の政務に係る。1573年足利義昭との取次ぎ。1573年9~10月北伊勢「長島一向一揆」攻撃に従軍。1574年直江景綱との取次ぎ。1574年島田秀順とともに囲い安宅船を建造。1574年7~9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。織田信忠に家督が譲られて以降は信忠の執事として重きを成す。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。1578年播磨「三木城攻囲」に従軍。1580年、信長に過去の失態(1573年伊勢一向一揆に敗北)を責められ追放。京都にて没。息に光時、光之、勝吉。娘婿に(槍林)通政。68歳。<美濃の稲葉家とは河野氏を先祖とする親戚。稲葉一鉄の長兄、稲葉(林)通勝と混同されて、林通勝で一般的になったと考えるのが自然かと・・・。><信秀の父・信定の室は林氏のようです。信秀とは乳兄弟などの特別な関係なのかもしれませんね。><北伊勢の豪族・南部氏(伊勢平家富田氏後裔)との縁戚関係などがあって、南部と称したのかもしれませんね。>

▽林 通政 (*~1573)<稲葉・一柳>・新次郎(新二郎)・新三郎・(光時?)。秀貞の息子(養子で娘婿・従兄弟とも)。大橋重長の娘婿。織田信長の甥。「槍林」と讃えられる勇者『武家事記』。1570年江北・伊勢に従軍するという。1572年に「味方ケ原の合戦」に援軍に赴いたらしい。1573年9月北伊勢「長島一向一揆攻撃」で殿軍をつとめ戦没。<斉藤道三軍の旗頭(槍奉行と呼んでいいのか)、林道慶(林通政)さんが「槍林」の異名なのかもしれませんねえ。美濃侍といえば南北朝の頃から土岐千本槍と呼ばれるくらい、戦闘は槍主体の様ですし。>

▽林 光時 (*)長左衛門。秀貞の息。弟に光之、勝吉(一吉)。<光時と、「槍林」新次郎とは別人とも。>

▽林 光之 (*)喜兵太。秀貞の息。<弟の林美作に子供が居れば養子にしたんじゃないでしょうか。>

▽林 勝吉 (*)山内・伊賀守・伝助・伝左衛門・一吉。秀貞の息(3男)。のちに山内一豊の家老。息に勝久。

(林家与力)
▽加藤* (*~1573)次郎左衛門。1573年9月北伊勢「長島一向一揆征伐」に従軍。退却の際に通政とともに殿軍を務め戦死。弓の名手として近隣にきこえる勇士『信長公記』。<熱田の加藤氏でしょうか。>

▽前田* (*)与十郎。荒子城主。<前田利家一族か?>
▽中川* (*)弥兵衛。米野城。<馬廻・中川重政とも関連ありか?>
▽土方* (*)将監。大脇城。<大脇氏とも関連ありか?。>

↓森 可成 (1523~1570)(大橋)・与三・三左衛門・三郎左衛門。可行の息。母は大橋重俊の娘(青木秀三の娘とも)。弟に可政。美濃出身、元・斎藤家臣。室は林通安の娘。1556年叛した林・柴田に対し信長側で「稲生の合戦」に従軍。1557年岩倉織田氏との「浮野の合戦」に従軍。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。1563年美濃国「新加納の合戦」に柴田勝家とともに殿軍で軍功。美濃攻略時に、東美濃支配に貢献。1568年近江宇佐山城主。1568年9月上洛に従い柴田勝家とともに「青龍寺城攻略」。柴田勝家・原田直政・坂井政尚とともに京畿の政務に係る。1569年8~10月「伊勢北畠平定戦」に従軍。1570年4月「越前侵攻」に従軍。1570年6月「姉川の合戦」に従軍。1570年9月宇佐山城で浅井・朝倉氏と戦い、織田信治とともに討死。<林秀貞一族の婿として迎えられているようです。林(稲葉)家は代々武者奉行の家柄のようで、斉藤道三の旗頭・林道慶や、近世大名となった森家の武者奉行にも林某がいるようです。>

森 可政 (1560~1623)(大橋)・九一郎・宗兵衛・対馬守・勝也。可行の息。高木政清の娘婿。息に重政、可澄、成正、可春、正次、正信。娘婿に関武兵衛、柘植正時、各務利峯。

▽森 可隆 (*~1570)<林>・伝兵衛。可成の長男。林家と親戚。坂井(余語)政尚親子との不仲で有名。尚恒に遅れまいと武功を焦り手筒山に討死。<武者奉行家の林通具を信長様が討取り、それ以降は縁戚の森家にその主要な役割が移譲されたような感じです。>

⇔坂井秀忠 (*~1528*29)織田信秀家臣。春日井郡品野の豪族。松平清康・信定軍により品野城を奪取される。尾張国品野城主。<三河上野城の酒井忠尚と関係ありか。もしくは、信長の侍大将となる坂井政尚の系統か?>

坂井政尚 (*~1570)余語盛種・右近尉・尚房。美濃出身。元・斎藤家臣。実父は余語盛政、余語長盛の弟。1563年美濃「新加納の合戦」に先鋒を務めるが敗北。1568年9月信長に従い上洛。柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成と山城国勝龍寺城を攻略。1569年8月大河内城・北畠氏征伐の為の「伊勢侵攻」に従軍。1570年「越前侵攻」、北近江「小谷城攻囲」に従軍。6月「姉川の合戦」に先陣を勤める。楽田城主。同年11月、猪飼氏等の近江堅田衆の要請で堅田守将、朝倉氏と戦い討死。息に尚恒、越中守。<余語氏は三河の侍だとかで、三河の酒井は、尾張に来ると坂井となるみたいですから、家康と対立して出奔した酒井氏が尾張でどのように遇されたのか、心に引っ掛かっています。関連あるのか・・・。><また、佐々成政の母は余語氏の娘であることから、余語家を通じて佐々家とは縁戚のようです。余語氏の系図に坂井家の手掛かりがあるかもしれません。><坂井(赤川)下総守・成利の養子という説もありますが世代的に苦しいかも・・。>

↓▽坂井尚恒 (1555~1570)余語・久蔵。政尚の息子。1568年信長上洛軍に参加、「観音寺城攻略」に武功、足利義昭から感状を与えられる。「姉川の合戦」に討死。弟の坂井越中守が家督相続。<守山城の家老にも坂井氏、清洲城織田家の家老にも坂井氏がいるので、父・政尚がどの系列の坂井氏の養子になったのかがまず問題かなあ。>

⇔赤川景弘 (*)坂井通盛・三郎右衛門。弟に赤川惣左衛門。元・織田孫三郎信光家臣か。矢島六人衆のひとり。のち熱田東加藤家の弥三郎により討たれる。息に成利。

▽赤川* (*)惣左衛門。赤川景弘の息。のち尾張国星崎城主である岡田長門守・重善に出仕。

▽坂井成利 (*~1600)赤川・下総守。赤川景弘の息。織田信長家臣。のち信雄、秀吉に出仕。息に善右衛門・成高、半左衛門・成政。<坂井政尚と義兄弟の縁を結ぶという。信長の命で坂井に改姓(復姓?)。>

▼坂井成政 (*~1625)赤川成政・半左衛門。織田信長家臣。坂井成利の息。兄に善右衛門・成高。

⇔△青山秀勝 (*~1544)余三左衛門尉。織田信秀家臣。信長与力家老・那古屋衆。1544年土岐頼武擁する朝倉家と結び美濃稲葉山城攻め、道三軍に敗れ戦死。息に虎(秀昌)。38歳。<『信長公記』に与三右衛門。戦死した余三左の跡職を与三右が継承するか?。>

(青山氏)
⇔青山信昌 (*~1544*1547)与三右衛門。織田信長の那古屋城時代の四老のひとり。信秀の美濃稲葉山城攻略に従軍し戦死。

▽青山信次 (1542~1612)与三・佐渡守。信昌の息。北陸方面軍。のち前田利家家臣。寺西九兵衛の娘婿。山崎長徳の娘婿。養子に長正。

⇔○長谷川与次 (*~1599)可竹・丹波守。長谷川秀一の養父。赤幌衆の橋介は弟。信長側近として各種奉行を務める。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年8~9月三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1571年5月伊勢「長島一向一揆攻撃」に従軍。のち信忠の重臣。1574年7~9月伊勢「長島一揆殲滅」に従軍。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。岐阜城城代。<名を「與継」と置き換える事ができれば、読みも「よじ」とは呼ばないで「よつぐ」でしょうが・・。可竹・嘉竹で「よしたけ」もありえます。>


佐久間盛重(*~1560)大学助。信長弟、織田信勝老臣。1551年織田信秀の葬儀に信勝に従い参列。親信長派。信長と信勝の対立の中で1556年名塚砦守将。1556年「稲生の合戦」に橋本十蔵を討取る功名。1560年今川義元に対して「桶狭間前哨戦」丸根砦で討死。息子は奥山盛昭。のちの柴田勝家配下の猛将・佐久間盛政の叔父。<個人的には佐久間盛重の次ぎに書かれている佐久間次右衛門は山崎の信盛じゃなくて、五器所佐久間の盛重弟の誰かだと思います。>

⇔佐久間* (*~1558*)甚四郎。1558年大高城を今川軍に奪取され、一族の多くが戦死。大高城主。<山口教継が大高城を奪ったことになっていますが、松平勢とも言われています。1560年には今川家の支城であることは間違いないです。><信盛の甚九郎と名乗りが似ていますから、山崎佐久間なのでしょう。>

中川重政 (*不詳)織田・八郎右衛門・駿河守。織田一族。元・黒幌衆。1568年上洛に頭角を現し、丹羽長秀・明智光秀・木下秀吉とともに京畿の政治に係る。1568年(or1570)近江安土城主。永田景弘と建部寿徳を与力とする。1570年8~9月三好三人衆の籠る摂津「野田福島城攻略」に従軍。1571年「長島一向一揆討伐」に従軍。8~9月「江北出兵」に従軍、「比叡山焼き討ち」に参加。1572年3月浅井攻め、滋賀郡攻略に出陣。1573年弟の津田盛月が領地をめぐって柴田勝家と争い失脚。1579年津田宗及の茶会に出席するという。<系図類の守山の信次の孫という説は否定されている。><尾張品野や守山に進出してきた桜井松平などにも織田の娘との婚姻関係がありますし、そちらの血縁なのでは。>

島田秀順 (*~*1576)所之助・秀満。村井貞勝とともに織田家の財政実務を担う。1568年の上洛後は京畿の政務。将軍邸の普請奉行、1572年信長の京都宿所の普請奉行。禁裏の賄料を創出するため兵糧の貸付業を開業。1573年対立する足利義昭と信長との間の通信使。(天正3)年4月から消息不明。

中条家忠 (*~*1577)小一郎・将監。尾張春日井郡の豪族。1552年「海津の合戦」に従軍。「浮野の合戦」、「桶狭間の合戦」、1570年「小谷城退却戦」に簗田広正・佐々成政と殿軍を務める。「姉川の合戦」、「伊勢長島一向一揆討伐」に従軍。1577年「紀州雑賀征伐」に従軍後は消息不明。<1551年岩崎丹羽に敗れた丹羽氏秀の落ちた先は三河中条家。><伝統の中条家が織田家により滅亡するとされるのは、江戸時代の捏造では・・。><『武功夜話』では佐々・簗田・中条は春日井衆で一括される。><『武功夜話』の小一郎とともに記載される中条又兵衛はその後どうなったんでしょう。家康にくらわれたのかなあ・・・。><三河西加茂郡にも中条家が多数存在するようです。西加茂の武将は高橋衆と呼ばれ一括されるようです。>

丹羽氏勝 (1523~1597)源六郎・勘助・右近大夫。尾張の豪族。氏織の息。室は織田信秀の娘。1551年信長軍を撃退。度々信長と対立するが、臣従後は勇猛さを買われ信長馬廻衆。1555年6月織田信次なき守山城に籠城し織田信勝軍を退ける。1556年織田信時なき守山城に籠城する。1569年伊勢北畠氏の「大河内城攻囲」、1570年「姉川の合戦」、「野田・福島の合戦」に従軍。1580尾張愛知郡岩崎城主。1580年近江伊吹山(薬草園)を監督する。伊吹山を訪問した信長に家臣の落ち度があり、信長に過去の失態とともに責められ追放。<子孫は小牧長久手で徳川派・・。>

(尾張 簗田家)もと熊谷氏。湖北塩津湊を制する熊谷氏、若狭武田家重臣の熊谷氏も遠い一門か。

簗田政綱 (*)出羽守・正綱。斯波家家臣。息に左衛門太郎・広正。九之坪城主。1560年沓掛城主。<簗田氏はやはり関東公方関連の武将なのでしょうか。足利→側近・簗田、斯波→側近・簗田もありえるかも知れませんね。><弥次右衛門とは別人ともされますが。>

簗田広正 (*~1579*)別喜広正(1574年、任官改名)・右近太夫・左衛門太郎。出羽守の息。1553年に清洲城にて政変がある。その頃から信長に臣従したか。1570年「小谷城攻囲」の殿軍を佐々成政・中条家忠とともに務める。織田信忠軍団に配属されるが、1575年8月「越前平定」後に加賀檜屋、大聖寺城を与えられる。北陸方面軍(副)軍団長。佐々長縄(長秋)、堀江景忠島兄弟等を与力として加賀に侵攻するが、1576年一向一揆の抵抗により撤退し失脚。尾張九坪に蟄居する。<もと清洲衆。与力の佐々長縄(長秋)は越中戦線に復帰。><中世の越中・加賀方面では北条一族の名越(なごや)一族が勢力を持ちますが、名越=那古屋に通じるとすれば、那古屋氏は簗田さんと関係が深くもあり、加賀方面に配置される意味合いができてくるのかなあ~と妄想されるのですが、どうでしょう。><『武功夜話』では佐々・簗田・中条は春日井衆で一括される。><『武功夜話』の簗田親子の弥治右衛門=(出羽守)、鬼九郎=(別喜広正)に相当すると推測されます。>

(三河簗田氏)
のち高力氏
▽簗田重長 (*~1535)高力・熊谷。三河額田郡の豪族。松平清康の与力。織田信秀との抗争に、息・安長とともに戦死。孫に清長。

▽簗田安長 (*~1535)高力・熊谷。三河額田郡の豪族。松平清康の与力。織田信秀との抗争に、父・重長とともに戦死。息に清長。

⇔長江景則 (*~1560)景隆。利景の後裔。元・美濃の又守護代家。尾張春日井郡の豪族。品野城の桜井家次に従う。1560年信長軍の侵攻により落城。息に景隆。桑下城主。

<平手(得川・世良田)家>

平手* (*)五郎右衛門。平手一門衆。政秀の息(長男)。

平手長政 (*)(得川・世良田)・(野口政利とも)・孫右衛門。尾張国春日井郡の豪族。平手一門衆。政秀の養子。息に政知。

▽野口季定 (*)(得川・世良田)・平手・秀定・(秀貞)。尾張国春日井郡の豪族。平手一門衆。息に季胤。

▼平手季胤 (*)(得川・世良田・野口・大炊助・季種)。尾張国春日井郡の豪族。平手一門衆。季定の息。織田信雄に出仕。尾張国に六千貫の所領を与えられた。

▽野口長成 (*)(得川・世良田)・平手。尾張国春日井郡の豪族。平手一門衆。

平手久秀 (*)(得川・世良田)・監物・甚左衛門。政秀の息。尾張国春日井郡の豪族。平手一門衆。1560年「桶狭間」に従軍し中島砦への進軍を引き留めようとした家老六人(林秀貞、池田恒興、花井三河守、蜂屋頼隆、長谷川嘉竹)のひとり。跡職は汎秀が継承。

平手汎秀 (1553~1572)(得川・世良田)・甚三衛門。平手一門衆。信長後見人・平手政秀の孫(五郎右衛門か、監物の息)。1570年「野田・福島の合戦」に従軍(野村越中が討死するという激戦)。原田直政戦死後、佐久間信盛与力、摂津川口砦守将。若くして将校に抜擢されるが、1572年佐久間信盛・水野信元とともに徳川家援軍。「三方ヶ原の合戦」に勇戦して討死。<平手家は得川・世良田を先祖とするらしく、家康さんは独創性で徳川にしたんじゃなくて、尾張人質時代に記憶の中にこの苗字が妙に気にかかったんじゃないでしょうか。それか信長様との同盟上、平手政秀さんにあやかったとか・・・。徳川家康公ファンの方から、しばかれそうな発想ですねw>

<津島衆>

 尹良親王(ゆきよししんのう)の息・良王親王の後裔(氷室氏)守護衆。
津島牛頭天王神社社家。津島神社門前町(天王川馬津湊)町衆。南朝後裔4家7苗字。

⇔大橋* (*)(大河内)。津島4家のひとつ。織田信秀に従い各地に従軍。<織田信定の娘婿に大橋重長。>

⇔河村* (*)(波多野)。津島7苗字家のひとつ。織田信秀に従い各地に従軍。

⇔岡本* (*)津島4家のひとつ。<のち神戸信孝家臣に岡本氏あり。>
山川* (*)津島4家のひとつ。
恒川* (*)津島4家のひとつ。
平野* (*)津島7苗字家のひとつ。<「ちょっぽり甚右衛門」を輩出する平野氏か>

真野* (*)津島7苗字家のひとつ。<のちに秀吉家臣の真野氏>
鈴木* (*)津島7苗字家のひとつ。
光賀* (*)津島7苗字家のひとつ。
宇佐見* (*)津島4姓のひとつ。<越後の宇佐美氏との関連が気になるところです。両者とも同じ南朝の勢力圏の武家です。>

宇都宮* (*)津島4姓のひとつ。<下野国宇都宮の一族でしょうか。豊前宇都宮、>

開田* (*)津島4姓のひとつ。
野々村* (*)津島4姓のひとつ。<織田信長に重用される野々村家に関連するか。>

⇔堀田正定 (*)(紀)・正貞。津島7苗字家のひとつ。斯波家家臣、堀田正純の息。息に正高、正則。<斎藤道三の重臣に堀田道空。堀田道悦は兄弟とも。>

⇔服部* (*)津島7苗字家のひとつ。織田信秀に従い各地に従軍。<長島一向一揆に関係の近い服部氏あり。一部は織田三奉行の藤左衛門家に通じるか。>

津島五か村
米之座、堤下(とうげ)、筏場、下構、今市場あり。
矢島六人衆
元・織田孫三郎信光家臣。坂井孫八郎を討ち取った集団が矢島六人衆という。<矢島とは何処か。津島の誤記か?。>

画像5

尾張津島イメージ図(信定の勝幡城は川の上流で繋がる)

(津島衆)


<織田信秀 奉行衆>
牛頭天王社⇔設楽に分社あり。 町衆・堀田、大橋、河口 <安土城の絵図にも牛頭天王社が。>

⇔↓祖父江秀重 /sofue,*(1522*1524~1585)氷屋秀重・五郎右衛門尉。海東郡津島牛頭天王社神官。織田信秀からの家臣、尾張の奉行。1549年尾張国内8箇所の代官職(蔵入地代官)に任命される。1582年安土城二の丸留守居役。財務関係の担当、蔵入地代官。愛知県中島郡祖父江。<信忠家臣団の尾張の奉行衆も参照して下さい。>

祖父江 * /sofue,*(*)金法師。津島神社神官。1550年織田信秀から尾張国内の代官職の継承者に任命される。<秀重とは別人。><山内一豊に出仕する祖父江氏あり。>

祖父江長定 (*)内藤勝介の娘婿。義理の兄弟に内藤小三郎、内藤主計。
(津島神社禰宜・「九郎大夫」)1524年5月織田信貞、河村慶満に「九郎大夫」継承を認める。

河村勝久 /kawamura,katuhisa(*~1556)助右衛門。津島神社神官。1556年「稲生の合戦」に信長方にて戦死。<斯波家家老に河村氏あり。織田弾正忠家とは河村慶満からの付き合い。>

河村秀彰 /kawamura,hideaki(*~1562)津島・八郎・九郎大夫・伊之助。津島神社神官。河村秀清の息。津島社禰宜「津島九郎大夫」慶満の養子に迎えられる。1538年信秀が相続を承認。

▽河村秀綱 /kawamura,hidetuna(*~1574)津島・九郎大夫・勘左衛門。津島神社神官。津島社禰宜「津島九郎大夫」。1562年家督相続。弟・将昌が跡職継承。

▽河村将昌 /kawamura,nobumasa(*~1581)(大橋)・津島・九郎大夫・久五郎。津島神社神官。津島社禰宜「津島九郎大夫」。大橋重長の娘婿。兄の死により家督。1561年「森部の合戦」に従軍。敵将・神部将監を討つ軍功。兄・秀綱の養子として跡職継承。義兄弟に大橋重賢。<将昌=しげまさ=sigemasaとも読めそうですが・・。>

大橋重一 /ouhasi,sigekazu(*)大河内・源左衛門。津島神社神官。大河内重元(左衛門佐・元綱とも)の息。母は大橋定広の娘。大橋家、和泉守・定安の養子。兄弟に牧村源次郎・政忠(斎藤道三家臣)。息に重長。<大橋和泉守・定安の跡職を継承。1520年代の当主か。叔父の大橋定祐が1555年に尾張蟹江城戦に戦死。><大河内家は弟の大河内源三郎・政局が継承。>

大橋重長 /ouhasi,sigenaga(*)清兵衛。津島社家。津島の豪族。大橋重一の息(又は弟)。祖母は熱田大宮司・千秋家の娘。織田信秀の娘(御蔵ノ方)婿。義弟に織田信長。兄弟に大河内源三郎・政局、中根平左衛門・政照。息・大橋長将は堀田正道の娘婿。息に越中守・重賢、織田勘七郎・信弐、大和守・定和。娘婿に林新三郎(秀貞の養子)。<先祖は斯波義郷と縁有り。河口家、大河内家とも縁組。重長の姉妹は服部、堀田家と縁組。><大橋家が1400年代に世良田氏と縁を結んでいるので、世良田=平手氏ならば、津島の中での平手氏と大橋氏の関係も見えてきそうな気がします。>

▽河口盛祐 /kawaguchi,morihiro(*)大橋・川口・帯刀左衛門。大橋定広の息(次男)。河口宗持の養子。室は徳川家康の祖母。息に宗吉。孫に宗勝。<子孫は織田信長の側近、福富秀勝と縁を結ぶ。>

河口宗吉 (*)大橋・川口。河口盛裕の息。小島信房の娘婿。息に宗勝。<信秀と相婿の義兄弟か。>

長田広政 /osada,hiromasa(*~1545)大橋・喜八郎・広正。大橋定広の養子。母は熱田千秋家の娘。長田政度の養子。息に大浜の長田重元(信長初陣の敵方)。孫に永井直勝。<池田恒興を討った永井直勝の祖。昔から主(源義朝)を討つ長田(忠致)の家系ですね。それで永井に改姓したのでしょうか。歴史っておもしろい。>

堀田之重 /hoxtuta,yukisige(*~1609)紀・天王右馬大夫。津島神社神官。津島社禰宜「天王右馬大夫」。信長から東美濃との交通を免除される。<細川水軍として瀬戸内を支配した安富氏と一族とも。吉備地方の豪族、浦上氏も同族とも。当時の関係性からして、ありえない話ではないと思えます。>

堀田正道 /hoxtuta,masamichi(*)紀・弥三郎・加賀守。津島神社神官。斯波家重臣・堀田正純の息。1510年父の死により家督相続。弟に之正。織田弾正家に接近。信秀、信長に出仕。1583年秀吉により尾張中島に所領を持つ。津島の元豪商・大橋長将は娘婿。息に正貞。孫に正高、正則、正遠、正秀。

堀田正貞 (*)正定。正道の息。息に正高、正則、正遠、正秀。従兄弟に之継。義兄弟に大河内、服部氏あり。

▽▽堀田正高 (*)正貞の息(長男)。<斎藤道三に出仕した堀田道空とも。正貞の世代の人物が道三や信秀と同世代ような気がします。>

▽▽堀田正則 (*)正貞の息(次男)。弟に正遠、正秀。家督は正秀が継承する。

▽▽堀田一縄 (*)之継の息。弟に之昌。正高の従兄弟。息に一継、貞継、一純。<瀧川一益などと同じく当時の南尾張で「一」の名を持つ同族集団関係があったのでは。「之」の字は池田之助などに関連するのでは。>

服部 * /haxtutori,(*)久左衛門。津島神社神官(御師)。1561年一門の服部康信から長井甲斐守を討ち取る旨の報告を受ける。<服部左京亮との関係が気になります。服部党は分裂していたのでしょうか。酒井や石川のように二流あるというのが当時一般なのでしょうか。>

服部康信 /haxtutori/yasunobu(*)平左衛門。海東郡服部の豪族。室は大野佐治家の娘。1561年「森部の合戦」に長井甲斐守・衛安を討つ軍功。息に小平太・一忠、小藤太。<大橋家の娘婿。相婿に道三の槍奉行の林駿河守・通政、堀田孫左衛門尉・正定。>


≪個人的感想≫ 大橋重一、堀田一縄、「一」の字の名前の先駆者か。一の名を持つ武将は津島に関連する武将かもしれません。
正や、友、貞(定)なども、それぞれ縁戚関係や、元服加冠の際に影響のあった人物と捉えられそうですね。周辺の弥富服部友定なども、深い関係が考えられそうです。

(苅安賀城) 

木曽川流域を抑える。一宮関家、木全家と対立抗争。
浅井高政 (*)信濃守・政高。息に政澄(政貞)。苅安賀城城主。木全氏(忠澄の父・木全征詮)を従える。<岩倉織田家の重臣・山内家と同盟関係。><信秀家臣、浅井安親と関連ありか?>

⇔▽浅井政澄 (*~1581)新八郎・信濃守・信広・政貞。毛利長秀の娘婿。1568年六角氏箕作城攻略に軍功。木全氏は信長の直臣となる。息に長時、政重。娘婿に市橋長勝。<山内一豊と特別な縁がある。血族集団か。><一宮の関家と抗争。>

(清州衆)

那古屋弥五郎 (*~1542*1548)名古屋。清州衆。織田信秀に従い出陣。尾張国の豪族。1542年今川家との三河国第1次「小豆坂合戦」に今川家臣・由原と戦い戦死。息子も弥五郎を名乗る。

(四家)大橋・岡本・恒川・山川
(七姓・七党)堀田・服部・河村・平野・鈴木・真野・光賀

 ▽恒川長政 (*)恒河。津島衆。信長に従い美濃攻めに従軍。1561年「森部の合戦」に日比野清実を討つ軍功。娘婿に大橋重賢。<一族に右馬允。><京都所司代・村井貞勝家臣に恒河氏あり。>

 
《個人的感想》 大橋家は南朝で、井伊谷に潜んでいた親王の子孫。三河の冨永氏のように、牛頭天神社の社家として南朝方は生き残っていたのかもしれませんね。そして系図上に現れる、斯波家との婚姻、大河内家との婚姻、井伊家との縁は1500年代初頭の斯波義達の「遠江大乱」と結びついているのかもしれませんね。織田信秀からすれば、今川家からの独立は尾張の旧秩序の復興が大義名分だったのかもしれません。
 織田信秀という名将がいてこそ、息子・信長の飛翔があったのでしょう。

(熱田大宮司家)国司尾張家後裔。

本家・野田、在京・千秋、三河・星野、萩、一宮、篠田、長山氏など。
尾張熱田イメージ図(信秀の古渡城は熱田神社向背の尾根(岬)状の地形で繋がる。)

⇔千秋季光 /sensyuu,suemitu(*~1544*1547*1549)藤原季光・紀伊守。熱田大宮司。弟に定季。尾張国の豪族。織田信秀に従う。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。1547年斎藤道三軍に敗北し稲葉山城下で戦死。妖刀「景清あざ丸」の伝説を残す。跡職は千秋季忠(*~1560)が継承。知多半島、羽豆崎城主。息に季直、季広、季忠。

▽千秋定季 (*)貞季。熱田衆。季光の弟。<幕府奉公衆に千秋輝季あり。在京の千秋家か。>

千秋季直 (*)左近将監。熱田衆。季直の死後、跡職は季忠が継承。息に季重。

千秋季重 (*)熱田衆。1560年季忠の死により家督代行。跡職は季信が継承。

⇔千秋季忠 /sensyuu,suetada(*~1560)藤原。熱田大宮司。尾張国の豪族。織田信秀に従う。季光の死により家督継承。寺社不入特権を剥奪する今川義元に反発。桶狭間の前哨戦に今川軍に突撃。知多半島、羽豆崎城主。

⇔千秋季信 (*)季忠の息。熱田衆。15歳の時に信長より熱田大宮司職に専念するように指示され武者働きから引退。

浅井安親 (*)織田信秀家臣。熱田浅井家。1550年頃信秀の礼状を受ける。

浅井 * /asai,*(*~1576)四郎左衛門・備中守・「黒鬼」。尾張国の熱田豪族。織田信秀に従う。千秋季忠は娘婿。季信は孫。1547年「稲葉山城攻め」に従軍。信長の盆踊りに参加し家来衆とともに「黒鬼」担当。1556年織田信勝との「稲生の合戦」に従軍。1566年里村紹巴を接待。息に信雄家臣の四郎左衛門。<尾張刈安賀の浅井氏の一門か。>

浅井充秀 /asai,mituhide(*~1595)源五郎・又左衛門。藤次郎・安親の息。尾張国の熱田豪族。織田信秀に従う。1552年頃織田信長から音信。<木全又左衛門・忠澄との関係がきになります。>

田島* (*)熱田神社神職。千秋家一門衆。熱田衆。
馬場* (*)熱田神社神職。千秋家一門衆。熱田衆。

⇔岡本良勝  (1544~1600)平吉郎・太郎右衛門・重政・下野守。熱田神宮の社家一門。信孝の母方の叔父。1568年信孝の神戸家養子に坂口縫殿助とともに付家老として従う。信孝家臣。2万石。峯城主。<織田一族で春日井郡岡本に住して姓とするとも。>

(熱田衆)

 加藤家=母衣衆に選出される侍を輩出。熱田衆単独で今川水軍服部党・服部友貞を撃退する軍事力を擁する。林秀貞を介して、熱田加藤家と津島大橋家は縁戚関係。
(東加藤家)
▲加藤順光 /katou,nobumitu(*)東加藤。加藤惣領家。熱田加藤12代目。加藤景繁の息。加藤延隆の兄。

加藤順盛 /katou,nobumori(1514~1588)東加藤・図書助・又八郎・よりもり。加藤順光の息。熱田加藤13代目。羽城に居し東加藤と呼称される。次男・弥三郎(*~1572)は信長の赤幌衆。一時尾張の人質となった、松平竹千代(徳川家康)を預かる。<商家ながら、「幌衆」を輩出した武門の家柄でもあります。>

▽加藤順政 /katou,nobumasa(1535~1599)東加藤・又八郎・図書助・吉郷・入道道珠。熱田加藤14代目。加藤順盛の息。信長、信忠に出仕。1560年「桶狭間の合戦」に連動して、今川水軍を撃退。息に信忠の小姓・辰千代。<弟は「幌衆」の一員。>

⇔▼加藤 * (1567~1582)加藤順政の息。織田信忠の小姓。

⇔↓⑰ 加藤 * (*~1572)(東加藤・岩室)・弥三郎・勘右衛門。尾張熱田の豪商・(東)加藤順盛(1514~1588)の次男、順政の弟。徳川家康の尾張人質時代を共に過ごす。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。永禄末年頃、赤川景弘(坂井通盛)を斬る。長谷川橋介・山口飛騨・佐脇良之とともに信長から追放され、家康に仕える。「三方ヶ原の合戦」で討死。

(西加藤家) 御用商人
▲加藤延隆 /katou,nobutaka(*)西加藤・のぶたか・入道全朔。熱田西加藤家。加藤景繁の息。順盛の叔父。本家の順光の弟。西加藤家を分立。織田信秀から保護され要脚・徳政の免除、船運の利権を与えられる。織田信秀家臣。1552年家督相続した織田信長からこれまで通りの権利を保障される。

加藤資景 /katou,sukekage(*)西加藤・紀左衛門・隼人正・景隆。熱田西加藤家。延隆の息(長男)。1552年家督相続した織田信長からこれまで通りの権利を保障される。1558年再び権利を保障される。1560年「桶狭間の合戦」に連動して、今川水軍を撃退。

加藤元隆 /katou,mototaka(*)西加藤。熱田西加藤家。延隆の息(次男)。1550年頃信長から大瀬古、(加藤?)余五郎跡職を保障される。

▽加藤家勝 /katou,iekatu(*~1614)奥村家勝・西加藤・与三郎・家唯。西加藤家の入婿。前田利家と相婿で義兄弟。信長の勘気を受けた前田利家を養う。<前田家の家老・奥村(家福)永福との縁はここではじまるか??。><柴田勝家も西加藤に出入りしていたという。勝家と家勝の間柄。勝家死後に家唯か?。>


≪個人的感想≫ 西の加藤家勝、東の加藤順盛、それぞれ柴田勝家系の「勝」や、佐久間信盛系の「盛」を持つのは、織田信長の二家老の後援勢力ということでしょうか。対岸に五器所村。佐久間家との関係も熱田絡みでしょう。三河の加藤家は信秀の時代に信広と共に進出した加藤一族か。

<東海道の加藤氏>
加藤* (*)賀藤・助丞。信長家臣。足軽衆。
加藤* (*~1573)賀藤・次郎左衛門。林秀貞の与力。1573年伊勢長島に従軍し戦死。

加藤喜助 (*~1573*1574)1574年白金の所領を岩村(岩室?、加藤弥三郎の息?)小十蔵が継承。

⇔加藤春永 (*)宗右衛門。瀬戸加藤氏。陶工。
⇔▽加藤景茂 (*)市左衛門。瀬戸加藤氏。陶工。信長馬廻。1575年長篠合戦に迂回軍軍監。

加藤忠景 (*~1584)太郎右衛門・景常。尾張長久手の豪族。織田信雄方として秀吉軍と戦い戦死。

加藤* (*)賀藤・彦左衛門。1580年大和郡山で馬を献上する。
⇔加藤景秀 (*~1560)甚五郎。今川家臣。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。<三河加藤氏か?>

⇔加藤景利 (*)次左衛門。柴田勝家家臣。1570年代初頭に柴田勝家の奉行として諸政にあたる。<尾張熱田の加藤氏か。熱田と上社柴田氏は親しかったということか。>

⇔加藤* (*)将監。柴田家家臣。能登長(長谷部)家家臣。1580年加賀侵攻に従軍。観光坊と槍合せ。

⇔加藤* (*~*1576?)甚五郎。伊勢国梅谷郡の豪族。北畠信雄家臣。1576年「熊野攻略」の大将として先陣。長島城を熊野軍に攻略され敗退する。<赤羽の嫉妬による謀略で討たれたとも>

⇔加藤長次 (*~1572)比ノ丞・日根丞。織田方。「味方ケ原の合戦」で戦死。<熱田の加藤家の一門でしょうか・・。日根助と同一人物か。><三河一向一揆にかなりの加藤氏が参加しています。>

⇔加藤正信 (*~1572)九郎次郎。織田方。「味方ケ原の合戦」で戦死。<熱田の加藤家の一門でしょうか・・。景元と同一人物か。><三河一向一揆にかなりの加藤氏が参加しています。>

⇔加藤景継 (*~1572)源四郎。織田方。「味方ケ原の合戦」で戦死。<熱田の加藤家の一門でしょうか・・。><三河一向一揆にかなりの加藤氏が参加しています。>

⇔加藤* (*)与十郎。1581年万見重元とともに近江北郡に所領を宛がわれる。

⇔加藤* (*)兵庫頭。1582年安土城留守居。

⇔加藤教明 (*)孫次郎・三之丞・広明・景喜。三河長良の豪族。三河一揆に参加。将軍・義昭に出仕。息に秀吉家臣、加藤嘉明。

⇔加藤光泰 (1537~1593)作内・遠江守・景教。元美濃斎藤の臣。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。秀吉の横山城在番期に奮戦する。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。秀吉「黄幌衆」のひとり。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「高松城攻囲」に一軍の将。秀長の補佐役。<武功夜話では草創期から秀吉旗本。>

《個人的感想》 1549年に織田信長(16歳)が近江国友村に500丁の鉄砲を発注とも・・・。その頃から信秀公は病気の状態で、信長に国政を委ねる感じだったのでしょうか。それにしても500丁、津島・熱田の経済力が弾正忠家を支えていたのでしょう。
 1553年平手政秀死後に富田村正徳寺にて斎藤道三と会見。道三方800人折目高肩衣の正装(800人の立派な美濃武士)、対して、信長方800人甍を並べ、三間半朱槍500本、弓・鉄砲衆500丁(付き従う小者が1000人ばかり武器を持ってということか)。
 甍=現在では切妻の屋根とか高く尖った部分とかの意味です。人に例えるならツッパリリーゼントの先端みたいな感じでしょうか。戦国時代ならちょん曲げとか、もしくは光秀肖像の三角形の尖った冠とかの意味になるのでしょうか。とりあえず。高く突き出たカッコした人が800人ゾロゾロと・・

<織田家 軍団長の父達>

黒字=同盟? 紫字=対立中? 緑字=他国・無縁 赤字=敵対

森 可行 (1494~1571)小太郎・越後守。可秀の息。室に大橋重信の娘。森可成(1523~)の父。土岐家家臣。尾張葉栗郡蓮台の豪族。斎藤秀龍(入道道三)と対立し、織田信秀に通じるという。弟に成恒。<縁者は津島大橋家です。>

坂井盛政 (*)余語盛政。弟に余語長盛。尾張守護代家・坂井氏の縁戚か。清洲家老・坂井大膳の逐電の後、織田家重臣。尾張楽田の豪族。坂井政尚(政重)の父。<矢島六人衆の赤川家とも血縁的に特別な関係がありそうです。><楽田城主・織田寛貞(津田一安の父)の部下か、犬山・織田信清の部下か。><敏定に従い近江余呉から移住とも。美濃出身と言われるのは何故。><1526年連歌師・宗長を接待した清洲の小守護代、坂井摂津守・村盛との関係が気になるところです。1529年品野城に松平信定・清康と抗争した坂井秀忠という人物もいるようです。>

川尻親重 (*)河尻。室は織田信俊(信敏とも)の娘。清洲織田大和守家の家臣。尾張守護代・家老家の河尻氏の分家。河尻重俊の跡職を継承した川尻秀隆(重遠)(*1527~1582)の父。秀隆は織田信武に出仕するとも。<娘婿に斯波義統、もしくは毛利秀高。毛利長秀は秀隆の甥。><秀隆は織田氏の娘の実子だった場合、織田一族ということか。><信敏、信武の存在が不明です。>

佐久間信晴 (*)山崎佐久間・甚九郎。佐久間信盛・信辰(信直)兄弟の父。<西広瀬城主・佐久間重行(全孝)→佐久間朝信=佐久間信晴(甚九郎)か。><娘婿に織田信広とかなら、信広の娘婿に丹羽長秀で佐久間と丹羽の縁続きとかにならないものなのでしょうかね~。佐久間・丹羽両家の派閥が別れすぎてるのが気になります。><余語氏と縁戚とも。><1558年大高城主に甚四郎あり、兄弟か。>

* (*)はなば。塙(原田)直政の父。娘婿に織田信秀。<家紋は「万」の字らしいです。卍なのか万なのかは謎です。><森家の家老・林為忠(1556~)の室の父が塙義元(茂元)尾張春日井郡大野木の豪族という。>

丹羽長政 (*)斯波家家臣。尾張春日井郡の豪族。室は野呂氏または織田信秀の娘。丹羽長秀(1535~)の父。<織田信秀との縁戚関係がいつ頃成立したのか不明です。長政、長秀、長重の奥さんがずっと織田家の人ならすごいですね。><児玉党といわれてますが、家紋的に波多野(松田)氏。守護一色の守護代・波多野全慶の子孫がどうなったのかが気になるところです。また、奥州斯波氏の家臣には波多野(河村)氏が従うとか。><1520年代に水野家家臣に丹羽五郎左衛門という人物がいたらしい・・。>

滝川資清 (*)伴・大原・池田・一勝。高安貞勝の息とも。従兄弟に高安範勝。近江甲賀郡大原の豪族。滝川一益の父。近江五反田城主。<1532年山科言継の接待に参加した瀧川彦九郎という人物が既に尾張にいるようです。彦九郎⇔池田恒興の父とかだったりするでしょうか。>

柴田勝義 (*)斯波・土佐守。勝重の息。尾張愛知郡上社・下社の豪族。斯波家家臣・一門衆。柴田勝家の父。娘婿に佐久間盛次。一族に義宣。<勝山城主・義宣が土佐守を名乗っていたならば勝家よりも嫡流ということか?。><家紋的には信濃豪族系。伊勢の小串氏との関係も気がかりです。>

明智光綱 (1497~1535)土岐・光国・光隆。光継の息。明智光秀の父。義父に光安。妹婿に斎藤秀龍(入道道三)。

松平広忠 (*)岡崎。清康の息。徳川家康(松平元信)の父。清康の「守山崩れ」により桜井松平家に所領を横領される。縁戚の吉良家家老、三河牟呂城主・富永忠康に保護され養育される。岡崎城主。<子供の松平元康は父の恩人・富永家を滅し、源氏を詐称。>

木下* (*~1543)弥右衛門。尾張国愛知郡中村の武士。羽柴秀吉の父。1535年には帰農するか。室(仲)の後夫に竹阿弥。


《個人的感想》  坂井・川尻・塙・丹羽・木下は親の名もわからないです。柴田・滝川・佐久間もあやふや。軍団長達は一代で駆け上がったうえに、権力闘争に敗れ事績の消されたものや、勝者に服従し自らあやふやとした子孫もいるのかもしれませんね。


<三河衆>

 <今川に送られる松平元康を、織田家に人質に送った戸田一族などのその後が気にかかります。>

⇔×水野信近 (*~*1560)刈谷・十郎左衛門。刈谷城主。水野惣領。水野忠政の長男。水野守忠の養子となり水野惣領。息・信政(*~1575)は水野信元の養子となり緒川城主。<水野信近は1560年桶狭間戦に岡部元信に破れ戦死したとも。><以降の十郎左衛門は息子の信政の事績でしょうか。>

⇔×水野忠政 (*)緒川・金吾。水野家分家。緒川水野氏。松平広忠は娘婿。1543年織田方に属し、松平広忠は「於大の方」を離縁。1554年1月織田信長の村木城攻撃に従軍。

水野信元 (*~1575)藤七郎・四郎右衛門・下野守・忠次・信之。三河の豪族、水野忠政の息、妹(お大)は松平広忠の室。徳川家康の叔父(外祖父)。三河国緒川・刈谷城主。1560年岡部元信が「桶狭間の合戦」後に水野信近を討つ。1561年甥の家康を誘い織田・徳川の同盟を成立させる。1562年1月松平元康、清洲に同盟の挨拶。1570年「姉川の合戦」に従軍。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1574年7~9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。1575年5月「長篠の合戦」に従軍。「長篠の合戦」の際、陣中で佐久間信盛と争い失脚。1575年12月家康に誅殺される。<秋山信友の兵糧を用立てた疑惑によるらしい。佐久間信盛が武田勝頼に「お味方致す」と密書を送り長篠に誘き出しますが、水野信元の内通を利用し泳がせた情報戦だったのでしょうか。>

野辺正則 (*~1574)平蔵・越後。遠江野辺荘の豪族。信長直参衆。遠江に所領を持つ。1574年6月遠江の「馬伏塚城攻略」に戦死。「寛永伝」「重修譜」に登場。<徳川家の歴史抹消の影が!>

河口宗吉 (1520~1582)(大橋・川口)・文助・宗治。元・水野信元家臣。大橋一門衆。小島信房の娘(織田信長の伯母)婿。「小豆坂の合戦」に従軍。63歳。息に河口宗勝。<幌衆というのは宗勝の義父・福富秀勝のことでしょう。混同されてしまっている様子です。>

奥平貞勝 (*)三河国山家三方衆のひとり。織田信長に応じて度々今川家に謀反。1556年田峯定継を調略。今川方の菅沼定直を破る。今川方の野田定村の攻撃で阿知波定直が戦死、奥平貞勝は降伏する。息に奥平貞能。従兄弟の奥平急加斎・定国は剣聖・上泉秀綱の弟子。<貞勝の代に織田家に臣従しています。奥平家と織田家の繋がりは、かなり古いもののようです。息子の信昌は織田信長の直属だったのでは?>

⇔鈴木重辰 (*)寺部・日向守・(重教?)。西三河衆。1533年岩津城表で松平清康と合戦。以降、松平家と抗争。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。義元配下の松平元康・酒井忠尚の攻撃を受ける。のち寺部城を奪還。1566年佐久間信盛と対立し寺部城を奪取される。

⇔三宅高清 (*)帯刀。三河国人。西三河衆。三宅右衛門大夫・貞保(高貞と同一人物か)が佐久間氏から広瀬城を奪取。以降、広瀬城主。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。松平元康・酒井忠尚の攻撃を受ける。加茂郡広瀬城主。<三宅氏は有力外様として1582年駿河攻略後に駿河に移封されます。>

三宅高貞 (*~*1561)東広瀬・右衛門大夫・(高定)。西三河衆。1558年松平元康に奪取された広瀬城を再奪取。1561年広瀬城を再び失う。東広瀬城主。娘婿に美濃の遠山景行。<1561年清洲同盟後の織田家の西加茂郡平定戦によるものか。><貞保と同一人物か。>

佐久間重行 (*)九郎左衛門・入道全孝。尾張衆。西三河衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。岡崎城主・松平広忠を暗殺する。息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。>

山岡* (*~1554)河内守。織田信秀、信長家臣。1554年今川軍の攻撃により落城。三河国重原城主。<山岡景佐が、山口盛隆の娘婿になるようなのですが、西三河と近江瀬田に何か交流があったのでしょうか。>

竹村長方 (*~1558)長七郎。尾張品野城の桜井松平家次と抗争。1558年3月家次の奇襲により敗北落城。尾張国山崎城主。<犬山の信清や、岩倉の信賢との最前線を支えて来た武将だったのでは?。>

▽竹村* (*~1558)孫七。長方の一門。尾張品野城の桜井松平家次と抗争。1558年3月家次の奇襲により敗北。戦死。<犬山の信清や、岩倉の信賢との最前線を支えて来た武将だったのでは?。>

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