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織田軍その2 六道大軍団長(北陸道):柴田勝家・勝豊の家臣団と軍団

柴田勝家の略年表と家臣団と軍団、佐々成政、前田利家、佐久間盛政、柴田勝豊の軍団

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上洛の主力軍を勤めた最強の大将。北陸平定に送り出された最初の地方方面軍大軍団長。

「 かならず先陣をつとめ、城を攻め、兵を返す時は その退き口大切の場合、勝家が最後をたてまつる。 」『武家事記』

柴田勝家の略年表 (*1522~1583)の略年表。

北陸方面軍軍団長 越前国主。
尾張国愛知郡出身。上社村を領する。
<生年については1522~1530説があるので、だいたいこれくらいという感じで・・。54・57・58・60歳説があります。57歳の瀧川一益さんに「老齢なのに遠国においてスマナイ」と信長様はいたわっているので、1575年に勝家さんが北国御番役を申し渡された時の年齢は、57歳に比べてもう少し若い頃なのかもしれませんね。>

30歳頃(1551・1552) 織田信秀の葬儀に列席「柴田権六」。「萱津の合戦」に信勝に従い出陣。
中条家忠とともに坂井甚介を討ち取る巧名。
33歳(1554) 斯波義統が下克上される。弔いの為に信勝の命令で出陣(先手足軽衆、安孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎)。対・織田彦五郎(信友)配下の清洲衆、柴田軍の「清洲城攻撃」。
34歳(1555) 織田秀孝殺害事件、弔いの為に信勝の命令で津々木蔵人とともに出陣。織田信次の「守山城攻撃」。
35歳(1556) 8/*:織田信勝を擁して信長に叛す。織田信長・森可成との
「稲生の合戦」に敗れる(信長側の佐々孫介・山田治部を討つ)。三河侵攻、福谷城攻め。
36歳(1557・1558) 11/*:信勝暗殺される。織田信長に臣従する。
<信勝の跡職、尾張国末盛城主に抜擢され、信秀遺産の末盛衆の旗頭に。>
39歳(1560) 5/*:「桶狭間の合戦」。6/*:織田軍の「美濃侵攻」、丸茂兵庫頭・市橋・長井甲斐守に破れ殿軍を務める。
40歳(1561) 5/14:斉藤義龍が死亡した機会に「美濃侵攻」。
「森部の合戦」に勝利(長井甲斐守・日比野下野守を討つ)。
42歳(1563) 春:「美濃侵攻」、「新加納の合戦」に敗北し、森隊とともに殿軍。
45歳(1566) 西美濃「河野島の合戦」に織田軍敗北。
46歳(1567) 4月瀧川一益が北伊勢に派遣される。8~9月西美濃出陣、「稲葉山城攻囲」西美濃三人衆降伏。9月織田信長「北伊勢侵攻」。
47歳(1568) 9/*:近江箕作城攻略の先陣。柴田・森・坂井・蜂屋が南近江鎮圧。<黒幌衆の蜂屋頼隆は軍監か。>9/*:織田軍の主力として上洛。岩成友通の「勝龍寺城攻略」。10/*:堺に進駐。森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、佐久間信盛と河内富田林に禁制。12~1569年1月:三好三人衆が阿波軍を率いて上洛。幕府衆・和田惟政、野間長前、結城忠正、竹内秀勝とともに軍事行動。
48歳(1569) 2/*:堺に進軍、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、佐久間信盛と制圧。4/*:堺に「軍事費」賠償金を要求。8/*:伊勢の北畠具教「大河内城攻略」。大河内包囲与力、不破光治・佐々成政。ルイスフロイス、柴田勝家を「信長の副将」と評す。11/*:京都付近で森、坂井、蜂屋と連署で禁制。近江志賀郡に森可成配置(1570年3月城砦完成)。南近江に柴田(長光寺)・佐久間(永原)・中川(安土)配置、1570年5月に各地で籠城戦。
49歳(1570) 4/*:朝倉攻め「手筒山攻略」。浅井氏反乱のため撤退。六角家残党蜂起。6/4:近江「長光寺城守備戦」で六角義賢軍を撃破「甕割り柴田」伝説。6/28:「姉川の合戦」従軍。9/*:摂津に三好三人衆撃退。9月宇佐山城表にて織田信治、森可成戦死。50歳(1571) 1/*:明智光秀、志賀郡配領。2/*:近江佐和山城主・磯野員昌の降伏。5/*:伊勢長島一向一揆攻囲、長島退却戦にて敗退。<伊勢一向一揆で退き口を勤め負傷する。馬標を奪取されるほど崩れ苦戦した>9/1:佐久間信盛と、浅井配下「志村城攻略」。9/12:比叡山延暦寺焼き討ち。
51歳(1572) 同僚・中川重政と対立。重政の弟・津田信重が勝家の奉行を殺害。
52歳(1573) 2/*:将軍・義昭謀反。近江、石山・今堅田の二城に籠城。柴田・明智・丹羽・蜂屋の鎮圧軍出陣。4/3:上京放火、柴田・蜂屋・中川・佐久間・明智・長岡・荒木軍。4/*:摂津、三好義継攻め。伊勢長島攻囲。7/*:将軍・義昭再度謀反。南山城「槙島城攻略」、柴田与力に蒲生賢秀・永田景弘。8/17:越前乱入、朝倉義景自害。8/28:浅井家滅亡。9/*:柴田隊が六角義治の拠る近江「百済寺」、「鯰江城攻略」。9/*:佐久間隊が六角義賢の拠る「菩提寺城」、「石部城攻囲」。12/26:松永久秀降伏。
54歳(1574) 3/9:大和国多聞山城の城番。3/27:原田直政とともに東大寺「蘭奢待」切り取り奉行。4/*:近江国「石部城攻略」。越前一揆。上杉謙信越中侵攻、河田長親を配置する。6/*:伊勢長島一揆征伐に従軍。大鳥居城を攻略。冬、勝家病気の為に京都にて療養。
55歳(1575) 4/*:三好康長の拠る高屋城攻囲に出陣。5/21:長篠の合戦。7/*:越前侵攻、三国湊の森田三郎左衛門に七日間の湾口封鎖を指示。

 <北畿内(東)方面軍:惟住長秀軍団長との共同作戦>
8/18:勝家「鳥羽城」攻略。越前一揆鎮圧、府中(今立・南條・丹生の一部)に佐々成政、前田利家、不破光治を配置。秀吉加賀乱入、能美・江沼郡を平定。8/*:越前国主拝領(支配領土は丹生・吉田・足羽・坂井の四郡)「北ノ庄城」築城開始。柴田勝豊、越前豊原寺城主。12/*:和泉国の松浦肥前守の取次ぎ。

1575年 「北陸道方面軍」の成立。遠隔地の前線に配置される(出世か左遷か・・)。
<1575年柴田勝家が「光秀出頭(出世)」と嫉妬を記す。>

「北国表警固として越前に据え置かれ候。」「北国御番役仰付儀」-柴田勝家-『川辺氏旧記』。

56歳(1576) 「北ノ庄城」城郭拡大。柴田勝豊「丸岡城」築城。利家、越前一向衆弾圧。5/3:伊達輝宗家臣・遠藤山城守に音信。1576年4月~1577年9月能登国「七尾城の攻防」、1577年9月織田派の長続連・綱連親子討死。

57歳(1577) 8/10:加賀豪族・柴山長次郎の取次ぎ。8/*:瀧川、丹羽、羽柴等、越前救援。9/*:羽柴と対立。上杉謙信、能登制圧。9/*:上杉軍との「手取り川の合戦」にて敗北。柴田(監物)義宣が谷城を攻囲するが七山家一揆に撃退され戦死。

58歳(1578) 3/13:謙信没し、上杉家内紛。加賀制圧。柴田義宣養子・柴田(佐久間)勝安が加賀の谷城を攻略。

能登、越中乱入。9/*:美濃国からの織田信忠配下の援軍・斎藤長龍、佐藤秀方、森長可、坂井越中、毛利秀頼が、上杉の旗頭・河田長親と合戦し是を破る。10/*:「越前衆」佐々、前田、不破、金森、原が「荒木村重討伐軍」として山陽に派遣される。

59歳(1579) 3/*:北条後援の上杉景虎を、武田後援の上杉景勝が制し家督相続。加賀牛首組・加藤藤兵衛が降服。4月「荒木村重討伐軍」佐々、前田、不破、金森、原が帰還。8/9:「加賀征伐」安宅、本折、小松町口を火攻めし、帰陣。

60歳(1580) 3/9:「加賀征伐」柴田勝家・拝郷家嘉・徳山則秀・佐久間盛政(1500)、「金沢(尾山)御坊の合戦」。末森城主・土肥親真を撃破。<北陸道方面軍の稼動。>
8/*:林秀貞、佐久間信盛が追放される。越中富山攻囲で勝家、佐々成政と対立。佐々成政、越中守山城の神保長住救援。11/*:一揆首領の若林長門・坪坂新五郎等、19名の首級を信長に献上。
<北陸道方面軍の稼動。加賀平定。>
61歳(1581) 2/*:柴田勝家、不破光治、前田利家、上洛。「京都馬揃え」に参加。3/*:「京都馬揃え」の隙をつき加賀一揆蜂起、留守居の将、吉原次郎兵衛、毛利九郎兵衛、徳山少左衛門が戦死。3/1:上杉景勝が「越中進軍」。河田長親の拠る松倉城入城。織田方小出城の攻防。佐々成政「越中乱入」。加賀方面は佐久間盛政が一揆鎮圧。
<北陸道方面軍の稼動。>
9/*:越中「荒川の合戦」佐々成政(3000)対・河田長親(2500)、丹羽権平の横槍で勝利。1581年菅屋長頼(七尾城)、福富秀勝(富来城)が能登平定後の政務。9/*:伊賀制圧。 10/*:前田利家、能登拝領。佐々成政、越中富山城主。12/*:前田利勝、信長娘と婚姻。
<北陸道方面軍の拡大。>
62歳(1582) 2/*:総大将・織田信忠に従い飛騨口より金森長近軍団が「甲州乱入」。不破勝光、原長頼(原長政)、信濃国の諏訪高遠の信長本軍に召集。3/11:武田勝頼自害。3/*:一揆方・富山城落城。佐々成政軍団、越中平定戦。6/3:越中魚津城奪取。清洲会議に出席。

63歳(1583年) 越前北ノ庄城にて自害。<1585年に丹羽長秀も北ノ庄にて自害・・・。>

<越前支配の後半、金森・原・不破は柴田勝家指揮の北陸軍団から切り離された行動をしている様子です。柴田軍団は養子・勝豊、拝郷や毛受、甥の佐久間盛政など粒ぞろいの武将が育ってきていたので、与力なしで独力でも上杉と真っ向勝負できる威容を備えていたのかもしれません。>

柴田勝家 評 「甚だ勇敢なる将軍にして、全生涯を武道に委ねた。」 -ルイスフロイス-

柴田勝家与力衆 (その1)尾張末盛城「織田信勝(信行)」家臣時代


⇔↓柴田勝家 (*1525~1583)権六・修理亮。斯波系。尾張譜代の宿老。織田信勝の後見人。1553年7月「海津の合戦」、1554年「清洲城攻略」に軍功。1556年8月林秀貞と結び、織田信長の失脚を謀るが「稲生の合戦」に敗れる。以降、信長に忠節を尽くし、1568年上洛に従う。1570年5月近江長光寺城主。6月佐久間信盛とともに「落窪の合戦」に六角氏残党を撃破。1573年将軍義昭との抗争では京に出陣。<この間、明智光秀の出世に嫉妬>1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1575年から越前国主として八郡を領する。「(仮称)北陸方面軍大軍団長」。1577年加賀攻略に瀧川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉を率いる。1580年加賀平定。1581年「京都馬揃え」に参加。与力の佐々成政に越中、前田利家に能登が与えられる。1582年には越中魚津城まで進出、「松倉城攻囲」の陣中で「本能寺の変」を知る。原田直政は婿(直政は同世代のようなので勝家の姉妹か?)。

<1550年代、「織田信勝(信行)」末盛城家老時代の先手足軽(末盛)衆>
安孫子 * (*)右京亮。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃(中市場合戦、山王口の戦い)」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

藤江 * (*)九蔵。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃(中市場合戦、山王口の戦い)」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

⇔太田 * (*)牛一・又助。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃(中市場合戦、山王口の戦い)」。のち信長直参。『信長公記』を世に残す。<織田信勝の先手足軽衆か?>

木村 * (*)源五。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃(中市場合戦、山王口の戦い)」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

芝崎 * (*)孫三。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃(中市場合戦、山王口の戦い)」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

山田 * (*)七郎五郎。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃(中市場合戦、山王口の戦い)」。<織田信勝の先手足軽衆か?地味に尾張に勢力をもつ山田一族。>

1556年三河乱入

⇔荒川頼季 (*)新八郎。1556年柴田勝家とともに福谷城攻め。

早川* (*~1556*)藤太郎。柴田勝家与力。1556年三河福谷城の原田氏重との抗争に負傷。<早川、荒川の誤りか?>

1560年三河乱入
⇔※*佐久間盛次 (*)久六郎・久右衛門。柴田勝家の(姉もしくは妹)婿。五器所城主、佐久間盛重の弟。佐久間盛政兄弟の父。織田の重臣・佐久間家と柴田家を結ぶ重要人物。息に盛政、安政、勝政、勝之。三河三好(三吉城主)。息の勝之が三好城を継承する。<父は久六盛重とも。西三河と縁があることから佐久間重行(入道全孝)の系譜にある佐久間氏か。>

柴田勝家与力衆 (その2)

<1571年 伊勢長島一揆征伐戦「大田口の合戦」 柴田軍団与力衆>

塚本 * (*)小大膳。尾張譜代。柴田軍団の目付け、軍監か。<のち信忠軍団配属。>

市橋長利 (*)九郎右衛門。美濃衆。早くから織田家に通じ信長奉行。<のち信忠軍団配属。>

氏家直元 (*)卜全。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<戦死。子息は信忠軍団配属。>

安藤守就 (*)伊賀・平左衛門。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<失脚。>

稲葉良通 (*)伊予守・一徹。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<のち信長直属。>

不破光治 (*)河内守。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<のちも柴田勝家与力。>

丸毛光兼 (*)兵庫助。美濃衆。美濃の侍大将として数々の合戦で織田軍と抗戦。<のち信長直属。>

飯沼長継 (*)勘平。美濃衆。美濃の侍大将。<のち信忠軍団配属。>

《個人的感想》 20年後には美濃衆を率いる旗頭に成長していたということですね。
 織田家の遊撃軍団の集合体、織田主力軍を形成し、その旗頭を担っていたのは、第一期は森・坂井、第二期は柴田・佐久間だったんじゃないのでしょうか、柴田の軍団は、織田家筆頭として最初に越前の分国大名として独立軍団を形成するという結果に到ったのでは。
 織田主力軍の旗頭からはずされたという事、柴田勝家的には、北陸御番役の名誉よりも、ある意味本流からはずされ傷ついていたかもしれませんよね。(1575年末の勝家の大病も、主力軍旗頭からはずされる原因となったかもしれませんね。信長様も各地の戦場で酷使するよりも、定位置でじっくり内政に取り組ませようと判断したのかもしれません。)
 上杉との「手取川の合戦」には、久々に全軍の指揮権を得たと感じた柴田勝家に対して、丹羽・瀧川の現主力軍を率いる旗頭が、「老将はだまっとけ」的な態度を示していたため、羽柴秀吉の無断退却のような、主力軍の戦意の低さが表に出てしまったのではないのでしょうか。
 信長様的にも、この問題は家臣団のこじれとして、対処に困り、秀吉を処刑するというわけにもゆかなかったのでは。

1560年「桶狭間の合戦」に今川義元、討死。
下社の柴田家は西三河方面の重鎮。 岩崎丹羽氏の抑え、守山、末盛の監視。落合の戸田氏は品野城にて離反した桜井松平家次の抑え。

柴田勝家の家臣団と軍団 1575年成立。

○与力衆(目付) 織田信忠(1557~1582)世代
柴田勝家 (*1525~1583)権六・修理亮。柴田土佐守・勝義の息。兄弟に勝直。織田信秀の重臣。信長弟・織田信勝(信行)の後見人、のち信勝に替わり末盛城主。姉妹は原田直政の妻。信勝の息・津田信澄(信重)を養育する。近江長光寺城主。1571年伊勢長島一揆征伐に佐久間信盛とともに軍団旗頭。1575年8月越前一向一揆を滅ぼし、八郡支配を任される。1577年「手取川の合戦」に上杉謙信に敗北。1578年加賀国を制圧。1580年越中侵攻。1581年京都馬揃えに上洛。越前国北ノ庄城主。息に勝敏、養子に勝豊、勝政、勝久、(勝忠、勝里とも)。娘(養女)婿に高城(千葉)胤則。
<個人的には斯波氏の家老の家柄の島田氏(越前侍)との関係が気になります。本当に斯波家の庶流なのかな・・。><裏付けがとれませんが、前妻は幌衆・飯尾信宗(尚清:1528~1591)の娘(年齢的におかしいので飯尾定宗の娘(信宗の姉妹)か。><織田信長早期の重臣・森可成、坂井政尚が、勝家はどうして矢玉の飛び交う戦場で伏せない(身を隠さない)で指揮を執るのだと戦話の話題にあげていたといいます。猛将に驚嘆される猛将。危険を楽しむ破滅願望が信長様と通じる部分だったのでしょうか。><家紋的には北信濃の武家がよく使う紋章らしいです。斯波家が信濃守護となったときに在地の豪族と縁を結んで尾張に連れてきたのかもしれませんね。><息の柴田勝忠という系統は最近勝家肖像画がでてきた子孫の方の家系なのでしょうか。詳細不明です。>

<柴田勝家の一門(連枝衆)> *柴田一門

▲柴田勝重 (*)源六。尾張一色城主。<土佐守・勝重と同一人物か?>

▲柴田勝義 (*)平・土佐守・勝成。土佐守・勝重の息。息に柴田勝家、勝直。柴田家一門衆惣領。愛知郡上社城主。娘婿に佐久間盛次、(瀧川一益?)。<柴田氏の別系図から。土佐守・勝義と同一人物か。?><瀧川一益と柴田さんが関連するところが面白いです。どうなんでしょう。信長在命中ではなく清州会議後の政治的な婚姻でしょうか?>

柴田勝直 (*)土佐守・勝成(勝義?)の息。柴田勝家の弟。柴田家一門衆。下社城主。<柴田義宣と同一人物か。?><勝直といえば、信長様の肖像画と関連する余語勝直とかもいますけど・・。柴田=余語なのか、佐久間=余語なのか、佐々=余語なのか、混同されただけなのか。ややこしい関係です。>

柴田勝仲 (*)十兵衛。勝直の息。柴田家一門衆。のち福島正則家臣。下社城主。<十兵衛というところが、美濃の明智系柴田を臭わせます(笑。>

柴田* (*)宮内少輔。柴田勝家の兄弟。柴田家一門衆。<柴田勝直と同一人物か。>

柴田勝春 (*)柴田勝家の兄弟の息。勝家の甥。柴田家一門衆。1583年九州に落ち、立花家に出仕。

*吉田* (*)(柴田)・次兵衛。柴田勝家の一門衆。柴田勝家の姉婿、柴田勝豊の実父。1575年越前国丸岡城主。4万5000石。<草履取りからの出世で名高いらしい、秀吉の様な・・。勝家も実力主義者なので秀吉とは相性が悪かっただけか。>

渋川* (*)(柴田・吉田)・弥左衛門・八左衛門。吉田一門。柴田勝家家臣。<??吉田次兵衛の養子で、柴田勝豊の実父とも??。勝家と勝豊は一世代挟む関係なのでしょうか。>

↓▽*柴田勝豊 (*)吉田勝豊・(渋川?)・伊介・伊賀守。柴田勝家の一門衆。吉田次兵衛の息。稲葉貞通の娘婿。柴田勝家の姉の息、勝家の甥。勝家が養子に迎える。1573年京都の治安維持に勝家配下の将として従軍。1575年越前丸岡に入城。1581年京都馬揃えに上洛。<柴田家を、斯波家を継承した足利の名門・渋川氏に近づけようという系図操作でしょうか。>

↓▽*柴田勝久 (1568*~1583)権六。柴田勝家の一門衆。柴田勝家の妹の息。養子に迎える。1583年「賤ヶ岳合戦」に出陣。<柴田勝家の姉妹は佐久間盛次、瀧川一益に嫁いだらしいですが・・。佐久間(柴田)勝政も妹の子ですが・・。>

*柴田勝政 (1556~1583*)佐久間勝政・三左衛門・勝成・(勝安)・実政。柴田勝家の一門衆。父は佐久間盛次。母は柴田勝家の妹。佐久間盛政の弟。勝家の養子。日根野高吉の娘婿。弟に勝之。1580年3月「加賀侵攻」に先陣を務める。1581年京都馬揃えに上洛。のち蒲生家に出仕。息に勝重、勝次。勝山城主?。<勝安は別人ということらしい。勝山城も勝安が城主らしい。義宣の養子なら、勝家の養子というのは誤りになりますし・・。>

▽山本* (*)猪右衛門。柴田勝政の郎党、側近。

*↓▽柴田勝之 (1568~1634)佐々勝之・佐久間勝成・源六郎・大膳亮・安之。柴田勝家の一門衆。佐久間盛次の息(4男)。母は柴田勝家の妹。佐久間盛政・勝政の弟。1582年織田信忠に従い、信濃高遠城攻略に軍功。佐々成政の娘婿。佐々家に養子に迎えられる。のち蒲生家に出仕。

↓▽*柴田勝敏 (*1568~1583)於国丸・権六・宮内少輔・(勝久)。柴田勝家の一門衆。勝家の息(実子)。1575年「越前侵攻」に従軍。1577年7月菅屋長頼から織田剣神社の宛がいを指示される。1583年「賤ヶ岳合戦」に出陣。捕虜となり近江佐和山にて斬首。<佐和山城は死刑執行場なのでしょうか・・・。*活躍期間のわりに生年が怪しい。>

⇔↓○*佐久間盛政 (1553~1583)(柴田)・理助・修理亮・鬼玄蕃。五器所・佐久間家。柴田勝家の一門衆。父は佐久間盛次、大学・盛重の甥。母は柴田勝家の妹。1575年「越前侵攻」に従軍。1580(天正8)年3月「加賀侵攻」に先陣を務める。豪勇で天下に知られる。加賀(金沢御坊)尾山城主。石川・河北の二郡を支配。1581年京都馬揃えに留守居。1583年「賤ヶ岳合戦」に不覚。↓下位の佐久間盛政軍団を参照してクダサイ。<本家・佐久間大学盛重(盛次の兄)の嫡男・佐久間盛昭は信長馬廻(北畠攻略に尺限番衆)から、丹羽長秀の与力となって奥山と改姓するようです。><秀吉政権下で一門の佐久間道徳は京都でクーデーターを起す。>

▽佐久間* (*)(柴田)・帯刀左衛門。五器所・佐久間一門衆。盛政とともに1575年「越前侵攻」に従軍。

*柴田義宣 (*~1577)監物。柴田勝家の一門衆。加賀侵攻に七山家一向一揆の拠る谷城を攻囲し戦死。<越前の勝山城主?>

▽柴田勝政 (*~1583)勝安・佐久間勝政・勝成。柴田勝家の一門衆。柴田義宣の養子。佐久間盛次の息。佐久間盛政、柴田勝政の弟。義宣戦死の翌年、谷城を攻略。越前勝山城主。<その活躍年代からして佐久間盛政の庶兄でしょうか。勝山城主となる原長頼との関係が気にかかるところです。><原さんは名前が勝胤・勝根とめまぐるしく変わるので、一時柴田義宣の養子となっていたりするのでしょうか・・・。>

↑*柴田勝全 (*)次左衛門尉。柴田勝家の一門衆。1575年「越前侵攻」に従軍。のちに堀秀政に仕える。越後青木山城主。<花押が勝全と勝定は別物らしいです。次左衛門、源左衛門も別々の人名ということでしょうか。>

*柴田勝定 (*)源左衛門尉・佐渡守・安定。柴田勝家の一門衆。1575年「越前侵攻」に従軍。越前領内の寺社奉行。1578年北ノ庄城城代、丸岡城救援。<明智光秀臣下の柴田勝定(源左衛門が重複する)は別人でしょう。同じ源左衛門なので混同されたのでは。美濃侍の柴田角内の系統など、美濃柴田氏の結びつきではないでしょうか。><明智・柴田両家とも滅亡した影響で残された資料が少ないのでしょう。現在では明智秀満(弥平次)と光春(左馬介)が別人ともいわれるくらいですから・・。>

<柴田勝家の御由緒家>

 ※家臣ではない。*準一門
⇔※*原田直政 (*~1576)塙。柴田勝家の婿。姉は織田信秀側室。妹は織田信長側室。元・赤幌衆。「長篠の合戦」に旗元鉄砲衆の指揮官。1575年任官、原田改姓。山城守護・大和守護兼任。畿内織田軍の旗頭。<原田直政の姉妹は織田信秀・信長親子の側室でもあり、信長様と柴田を結ぶ重要人物。><息子のひとりは柴田家の養子とかになってないのでしょうか。謀反人の息・信澄を育てた勝家ですから、ひきとりそうな気がしますが。>

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⇔※*佐久間盛次 (*~1568*)久六郎・久右衛門。柴田勝家の(姉もしくは妹)婿。五器所城主、佐久間盛重の弟。佐久間盛政兄弟の父。1557年「名塚攻め」に従軍。1568年信長上洛に従い「近江観音寺城攻め」、「山城勝龍寺城攻め」に従軍。息に盛政、安政、勝政、勝之。三河三好(三吉城主)。息の勝之が三好城を継承する。<織田の重臣・佐久間家と柴田家を結ぶ重要人物。父は久六盛重とも。西三河と縁があることから佐久間重行(入道全孝)の系譜にある佐久間氏か。><佐久間盛政が父の戦死後、若年で家督を相続し軍功をあげ「鬼玄蕃」と呼ばれたとされるので、早く戦死しているようです。>

⇔▽*保田安政 (1555~1627)佐久間安政・久六郎・久右衛門・備前守・安次。父は佐久間盛次。盛政の弟。畠山昭高臣、紀州保田若狭守・知宗の養子。のち蒲生家に出仕。<紀州勢として畿南に所在したか。1582年「山崎の合戦」以降に北陸軍に合流か。><高野山攻めに神戸信孝の軍団が紀州方面に存在したようなので、その配下となっていたか?>

⇔※▽津田信澄 (1557~1582)織田信澄・坊・坊丸・信重。織田信勝の嫡男。*柴田勝家に養育される。浅井家重臣・磯野員昌の養子となり、大溝城主。<勝家の主筋です。><末盛の足軽衆は信澄に従うか。>惟住(丹羽)長秀の軍団

⇔※▽*高城胤則 (1571~1603)源次郎。関東衆・下総の原(千葉)家の家老職、高城胤辰の息。柴田勝家の養女(中村文荷斎の娘)と婚姻。12歳で父の死により家督。1585年千葉邦胤が死去、以後は北条氏政の七男・千葉(北条)直重に出仕。佐久間安政を匿う。下総小金城主。<柴田勝家在命中の婚礼だと思います。本能寺以前か、以後か。秀吉との対立の中での同盟ということもあるかもですが、それなら北条家一門と結ぶだろうし・・・。織田家の勢いをみて、主家からの独立を目指す胤辰が、中央勢力と結びたいと思い息子の嫁にと柴田勝家に懇願したかもいれませんね。>

<尾張衆 由緒ありか?>


⇔※*飯尾信宗 (1528~1591)織田・隠岐守・尚清。織田一門。飯尾定宗の息。織田信秀の娘婿。娘は長谷川秀一の室。元・赤幌衆。<裏付けがとれませんが姉妹が柴田勝家の前室とも。信長様側近の長谷川秀一とも繋がるパイプの人物です。信長と柴田を結ぶ重要人物。>

⇔※*▽飯尾敏成 (*~1582)織田・茂助・毛助。飯尾尚清(信宗)の息子。準織田一門。信長側近・長谷川秀一と義兄弟。1582年「本能寺の変」に新二条御所にて討死。<代々、幌(母衣)を背負って武門の誉れ高い一族だったのでしょう。><柴田・原田・飯尾・長谷川の血脈も、織田家と深い係わりがあるようです。>

⇔※*▽長谷川秀一 (*~1594)織田・可竹・御竹・貞長・藤五郎。長谷川嘉竹の養子or実子。赤幌衆・長谷川橋介の甥。飯尾信宗(尚清)の娘婿。織田信秀の庶子とも。1575年「長篠の合戦」に従軍。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。翌年、二条御所・安土城築城開始。伴天連屋敷造営奉行。矢部家定と安土宗論の奉行を務める。秀吉との関係良好。接待中の家康と伊賀越え。東海道・関東方面担当(徳川・穴山目付け)。越前敦賀11万石。<一門代表の側近として、同じく一門の万見さんの跡職を継承したのか。><1581年~本能寺前は近江比田(肥田?)城を与えられていたようです。比田=肥田ならば、蜂屋頼隆の和泉半国守護栄転により与えられたものでしょうか。>

<美濃衆? 由緒ありか?>


⇔柴田角内 (*~1556)信長公記の尾張守護代家の家人に柴田角内あり、尾張守護・斯波義統を襲撃する。その後に斎藤道三の家臣・柴田角内あり。道三息子の斎藤義龍の軍勢との前哨戦に道三軍の代表として「一騎打ち」に勝利する。清洲織田家滅亡後に斎藤道三のもとへ行くというのも不思議。斯波・武衛家を道三が滅ぼしたくて、あらかじめ送り込んだ刺客なのか、美濃「長良川の合戦」後は登場してこないので、ここで道三に殉じたのでしょうか。柴田勝家との関係は一族?それとも別系?なのかはっきりしません。 とにかく気になる人物なのですw なので家臣ではないですが掲載しました。><明智光秀に与し、斉藤利三と縁戚である柴田氏は美濃の柴田なのではないでしょうか。明智家と縁戚である美濃の柴田とはこの角内の一門を指していて、尾張の柴田とは関係ないのかもしれません。>

<近江衆 由緒ありか?>


⇔新庄直頼 (1535~1612)新三郎・駿河守。琵琶湖の要所、朝妻湊の領主。坂田郡朝妻の土豪、新庄直昌の息。佐久間盛重の娘婿。1549年に父が戦死し家督。1570年「姉川の合戦」に第4陣を務める。1573年六角残党とともに西近江・新庄城籠城。浅井滅亡直前に織田家に臣従する。木下秀吉の与力。朝雲城主。息に直定、直綱、秀信、直房。娘婿に柴田某。養女に佐久間盛政の娘。<同じ坂田郡の今井家との関係が気になるところです。六角氏が細川家の内紛に介入した際、先陣の将に新庄あり。><秀吉に従わない新庄家・・。柴田、羽柴の加賀遠征の喧嘩別れの原因となる人物だったりして。><柴田・佐久間とただならぬ関係。>

<三河衆 由緒ありか?>

瀧川に仕える本多、柴田に仕える松平、徳川家臣というのはあやしすぎる。

柴田政之 (*)息に久則、重久、重次、政忠(康忠)。<詳細不明。徳川の功臣のはずなのに話題にものぼらない事が不思議です。>

⇔柴田康忠 (1538~1593)七九郎・孫七郎・重政・政忠。柴田政之の息。兄に久則、重久、重次。三河一揆では改宗し家康派。その時の武功により「康」の字を与えられる。1571年「味方ヶ原の合戦」、1575年「長篠の合戦」に先鋒を務める。本能寺の変後、諏訪郡高島に陣し、信濃佐久衆を支配。娘婿に神保氏勝。<柴田家の家紋からたどると戦国以前に信濃の武将に「二つ雁鳥」の家紋が使用されており、柴田氏の出自が信濃に関連するものとすれば、家康の信濃平定に柴田政忠が抜擢されるのは自然な成り行き。ただ政忠の「忠」の字が誰の名付けたものなのか(信忠直参じゃないの?)。柴田勝家が家康は織田領を維持しようと頑張ってると誤解したのは、北陸との国境を挟んで、この柴田さんが縁戚だったからとか。それが家康の抜擢の着眼点だったのでは?><子孫が織田家と婚姻を結べたり、川口家と婚姻を結んだりするのは、三河柴田家がそれなりに高い地位の血筋なのだからでは?。子孫は「天下人」をはばかって、敵対した血筋なのを隠しているのでは?もしくは、徳川家の不利な歴史の真相が発覚しないように隠滅させられたとか。><本当に家康の三河譜代なのでしょうかねえ・・。柴田氏の勢力は上社・下社だけでなく佐久間氏のように三河にも及んでいたのではないでしょうか。>

柴田勝家の譜代家臣団と軍団


<柴田勝家の(尾張)譜代家老衆、柴田家内衆・旗元(旗本)衆>
 * 縁戚・御由緒

*柴田* (*~1583)弥右衛門。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。<柴田勝全の身内か。よく似た名前の、柴田勝家の一門で柴田勝春の息・弥左衛門は、のち尾張徳川家家臣。>

○*中村宗教 (*~1583)文荷・文荷斎・聞下斎。柴田家家老。娘は柴田勝家の養女となり関東北条氏の与力・下総の高城氏(高木胤則)と婚姻。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。<斯波義達に従い遠江に遠征した中村氏の子孫でしょうか。><北庄殉死の衆に中村与左衛門あり、息子か。><娘が柴田勝家の養女となるからには何か血縁関係が・・。>

中村* (*)与左衛門。柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に従軍。<中村文荷斎の一門か。>
*佐久間* (1568~1583)十蔵。柴田勝家の小姓。前田利家の娘(摩阿姫)婿。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。<室は秀吉の側室に・・。>

⇔○織田順元 (*)津田順元・金左衛門・対馬守・信元。織田順俊の息。若年より信長に仕え、後・柴田勝家の家老。1583年勝家死後、溝口秀勝に出仕。67歳で京都に没す。<津田対馬守と名乗ってたらツんだらけです。臣下に下るというよりも、勝家の与力なのでしょうか。>

○拝郷家嘉 (*~1583)五助・五左衛門・久盈。1575年「越前侵攻」には直参足軽大将として従軍。勝家の北陸討伐軍の将として活躍し、1580年加賀大聖寺城主。のち柴田家中でも「最も剛の者」として知られる侍大将。能州荒山合戦第2陣。1583年「柳ケ瀬」にて戦死。息に治太夫、孫十郎。<勝家が認めた、柴田配下の勇将です。>
▽戸波* (*)隼人。拝郷家嘉の家臣。鉄砲隊隊長。1583年「賤ヶ岳合戦」に戦死。

加藤景利 (*)次左衛門。1570年代初頭に柴田勝家の奉行として諸政にあたる。<尾張熱田の加藤氏か。熱田と上社柴田氏は親しかったということか。>

○一瀬* (*)一ノ瀬・新左衛門。柴田勝家の足軽大将。1575年「越前侵攻」に従軍。

毛受勝惟 (*~1583)免受・(水野・三井)・茂左衛門。毛受照昌(勝明)の息。毛受勝照の兄。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に弟とともに戦死。<室町時代に近江に毛受家あり。勝家が長光寺城主となってからの家臣でしょうか・・。><勝照、家照、なぜか勝助に集中するいろいろな名は兄弟二人の名なのでは?>

毛受勝照 (*~1583)免受・(水野・三井)・勝介・勝助・荘介・吉親・照景・家照。柴田勝家小姓。勝明の息・1571年伊勢長島一向一揆で本陣が崩れた際に馬印を死守した勇将。1575年「越前侵攻」に従軍。小姓頭として所領1万石。1580年加賀平定報告の使者を勤める。1583年「賤ヶ岳合戦」に勝家の影武者をつとめる。兄・茂左衛門尉とともに戦死。息に重之。<勝家、叩き上げの武将です。><「家」の字も与えられていて家照ともよばれるそうです。本来は兄弟それぞれに「勝」・「家」を与えてたかもしれませんね。>

毛受吉勝 (*)勝明の息(3男)。兄に勝惟、勝照。甥に重之。

小島* (*~1583)若狭守。備後出身の侍。1554年小早川隆景の攻撃により父・祐直が戦死。大和に落ちる。織田家に仕官。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。息の行栄(行円)が出家し備後三原に戻る。<備後小島氏と関連があるようです。><六角義賢の長男、六角若狭守との関係も気がかりです。広島浅野家藩士に伝わる様子です。>

杉江* (*)彦四郎。柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に従軍。
徳山* (*)吉右衛門。柴田勝家家臣。秀現とともに1575年「越前侵攻」に従軍。<徳山一族。>

井上* (*)久八郎。柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に従軍。
井上* (*)清八。柴田勝家の侍大将。久八郎とともに1575年「越前侵攻」に従軍。

村本* (*~1583)甚五兵衛。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。

大屋* (*~1583)兵衛門。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。<三河・尾張国境地帯の地元豪族として度々名が出る大屋氏。意外な勢力をもつかも。><池田恒興の家侍と、大屋の家侍が抗争し、信長様が仲裁したという、あの大屋さん一門か。>

松浦* (*~1583)九兵衛。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。<近江時代、中川重政との抗争で代官・松浦弥助が殺害される。><和泉の松浦一門でしょうか。>

坂 * (*~1614)蒲生郷成・源次郎・源左衛門。尾張出身、坂勝則の息。柴田勝家に仕える。のち関小十郎、蒲生家に出仕し、鉄砲大将。4万石。息に(蒲生)郷舎。<神戸信孝の母上の実家・坂氏との関係がきになるところです。><のちの柴田⇔信孝ラインのパイプ役だったのでしょうか・・・。><上坂左門さんと同じコースです。>

富永* (*)新六郎。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。浅井長政の三娘を警護し、秀吉陣中に送り届けた『賤ヶ岳戦記』。<お市の方の三娘(茶々・お初・お江)を守るという大役、三河設楽長篠の津島天神牛頭神社系列の神官・富永一門か。><三河衆(吉良家家臣系統)も参加にしていたということでしょうか。><織田信忠の嫡男・三法師秀信の家老に冨永勝吉という人物がいます。織田信忠と柴田家を結ぶ冨永の縁です。><足利将軍を守ったのも富永氏。天下人にとってなにか特別な家系でしょうか。>

上村* (*~1583)六左衛門。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。柴田勝家の姉を警護する。<吉田次兵衛の室のことか?>

↓*安井家清 (*~1583)左近。もと柴田勝家直参。のち佐久間盛政の家老。加賀和田山城主。1581年に三堂山城主とも。<佐久間盛政の臣下ながら城持ち大名に抜擢されている。><立場的には盛政と同格ではなく、佐久間領の支城主として配置されたものか。>

↓*近藤無一 (*)右近。もと柴田勝家直参。1575年越前侵攻に従軍。のち佐久間盛政与力。1583年「賤ヶ岳合戦」に中川清秀を討取る。

(山城 毛受(能勢)家) 足利義教側近・頼勝が祖。

毛受勝春 (*)将軍・足利義政家臣。室町幕臣。弟に勝則、勝任、勝紀。
毛受勝則 (*)将軍・足利義尚家臣。室町幕臣。息に勝宗、勝孝、勝明。
毛受勝孝 (*~1568)足利家家臣。室町幕臣。信長上洛年に死去。息に勝能。

毛受勝能 (*)勝孝の息。息に勝玄、勝佐、勝元。

≪個人的感想≫ 幕臣、毛受(摂津能勢系)家との結びつきは、永禄11年(1568)の上洛からでしょうか。それとも、それ以前から柴田勝家には京都とのパイプがあったのか。毛受家との関わりが、柴田家系譜の謎を解く手掛かりになりそうな気がしますが。幕臣・飯尾氏ともども気になる縁です。

<柴田勝家の軍団・尾張与力(軍監)衆>

○与力「城持ち」大名→後に組下大名(遊撃軍団長)に発展。
府中三人衆は今立・南条の両郡を支配。

○↓佐々成政 (1539~1588)内蔵助・陸奥守。佐々盛政の息、または成宗の息(五男)で成吉の養子とも。信長の元・黒幌衆。1575年柴田勝家の与力。府中三人衆のひとり。比良城主。のち越中国の軍団長に就任。<下記↓佐々成政の家臣団参照してください。>

○↓前田利家 (1538~1599)犬千代・又左衛門・孫四郎。前田利昌の四男。信長の元・赤幌衆。信長の意向により前田家家督、荒子城主。のち越前府中三人衆のひとり。「槍の又佐」と天下に名をはせる、隠れなき武辺者。「長篠の合戦(1575)」に武田武者と組み討つ、鉄砲より槍が好きな古風さも持つ。1575年柴田勝家の与力。のち能登国の軍団長に就任。<下記↓前田利家の家臣団参照して下さい。>

▽↓前田利勝 (1562~1614)犬千代・孫四郎・肥前守・利長。利家の嫡子。織田家一門に迎えられる。父とともに各地に転戦。のち秀吉に従い、父の死後は豊臣5大老のひとり。<信長様の娘、相婿・丹羽長重がライバル。>

松浦* (*)弥助。柴田勝家家臣。近江常楽寺代官。中川重政の代官、建部寿徳・春田与右衛門と対立。津田隼人・信正に殺害される。<母を置いて逃走したとも。>

鈴木* (*)孫右衛門。柴田勝家家臣。近江常楽寺代官。中川重政の代官、建部寿徳・春田与右衛門と対立。津田隼人・信正に殺害される。

丹羽秀友 (*)溝口秀朝・久助。丹羽秀盛の息。柴田勝家家臣。のち溝口秀勝に出仕。<どこの丹羽一族でしょう。岩崎・丹羽氏勝の分家に丹羽氏秀という人物がいるのですが、その系統でしょうか?・・・。><丹羽と溝口の深い関係はいったい何なのでしょう。>

○毛利* (*~1581)九郎兵衛。柴田勝家の与力。加賀二曲城主。京都馬揃えの隙をついた一向一揆の反抗により落城。<第一次加賀支配の城主。信長から付属された与力か。>

○吉原* (*~*1581)次郎兵衛。柴田勝家の与力。加賀鳥越城主、別宮城主。一向一揆の反抗により落城。佐久間盛政が奪還する。<第一次加賀支配の城主。信長から付属された与力か。>

⇔平野* (*)津島・小法師・甚右衛門。尾張津島の武士。信長に直訴して家臣となる。信長馬廻衆。先駆け殿軍に励む。のち軍令違反をしたため追放される。上杉家に出仕。<上杉家臣となるところなど、前田慶次とよく似た生き様。ひょっとして師匠?>

佐久間* (*)七右衛門。柴田勝家家臣。賤ヶ岳合戦に本陣後ろ備え。<北庄殉死の衆に、小姓・佐久間十蔵あり。>


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