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14世紀 後醍醐天皇の軍団・南朝の北畠顕家の軍団、宗良・懐良親王の軍団、足利直冬の軍団

北畠顕家の家臣団と軍団

<南朝方、奥州軍> 

1338年「阿倍野の合戦」

義良親王 (*1328~1368)憲良親王・後村上天皇。御醍醐天皇の皇子(第八皇子)。母は阿野廉子。1334年陸奥将軍府:多賀城にて陸奥統治。1337年尊氏追討のため上洛。1338年伊勢から再度東北に向かうが暴風で帰還。1339~1368年天皇在位。

北畠顕家 (1318~1338)参議・左近衛中将・鎮守府大将軍・陸奥守。北畠親房の息。日野資朝の娘婿。足利尊氏との京都合戦に勝利。陸奥霊山城に戻るが尊氏の再挙に再び奥州軍を率いて上洛。土岐頼遠との「青野原の合戦」に兵力を失い、伊勢経由で大和、和泉に転戦。高ノ師直・師泰兄弟に敗北し自害。

▽春日顕国 (*~*1344)侍従。公家武人。北畠顕家、顕信を補佐。1337年小田治久と結び常陸乱入。1337年顕家に従い上洛。1339年2月関東に下向し下野攻撃。1344年大宝城を襲撃し捕縛される。

(陸奥国人)

南部師行 (*~1338)源・岩手・又次郎。八戸南部氏第4代。建武政権の侍所国代・糠部奉行所。1333年多賀国府に出仕。朝廷方として早河禅門・岩楯曽我光高・工藤貞行とともに幕府と戦い「大光寺合戦」に軍功。1337年北畠顕家は本拠地を霊山城とする。奥州を鎮圧。1337年8月に北畠顕家に従い上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北。1338年高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。八戸根城城主。

▼南部信政 (*~1338*)源・岩手・三郎・右近蔵人。南部師行の孫。政長の息(長男)。工藤貞行の娘婿。1335年北畠顕家の上洛に結城宗広・伊達行朝とともに従う。1337年8月に北畠顕家に従い上洛。1338年高兄弟との和泉「阿倍野の合戦」に顕家とともに戦死。息に信光、七戸政光。<1341年北畠顕信より鹿角合戦の軍功を賞されるとも。在命か。><1348年四条畷の合戦に高軍に敗北戦死というのは間違いでしょうか。>

結城宗広 (*~1338)新田義貞とともに北条氏を討伐。勲功から奥州の大領主となる。義良親王、北畠顕家の後見人となり、顕家の2度の上洛戦に従う。顕家戦死後、顕信を補佐し、南朝軍の挽回に尽力する。1338年9月義良親王を補佐し関東に渡海。途中遭難し伊勢吹上に病没。 

▽結城親朝 (*~1347)宗広嫡子。父・宗広、弟・親光を奥州の地で支援。1338年父・宗広が伊勢に死去すると中立し、南朝と距離を置く。1342年に北朝の石堂義房に投降。奥州の南朝勢力が衰える。

 ⇔葛西清貞 (*~1343)牡鹿・桃生・登米・本吉・気仙・磐井・江刺・胆沢領主。奥州惣奉行家。牡鹿郡石巻を本拠とする。北畠顕家に従い、南朝に忠節。

伊達行朝 (1291~1348)蔵人・左近将監・宮内大輔・伊達行宗。伊達郡領主・地頭職。伊達基宗の息、子息は宗政、宗遠。1335年北畠顕家に従い足利尊氏を京都から追う。1336年陸奥に帰国。1337年北畠顕家を領内の霊山城に迎える。1337年常陸の伊佐城にて高ノ師冬軍と抗争。陸奥に帰国する。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり。常陸伊佐城主。霊山城主。

中村経長 (*)太郎。義元の息。伊達一門。1337年常陸の伊佐城にて高ノ師冬軍に敗北。のち宇都宮公綱に出仕する。中村城主。

田村輝定 (*~1362)輝顕。田村郡領主。1338年北畠顕家に従い上洛。北畠顕信に従う。陸奥白河に戦死。

▽伊達宗遠 (1324~1385)飛騨前司。飛騨国司。1380年長井氏を攻略し米沢城を奪取。1381年大崎氏と戦い信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡を奪取。武石行胤と戦い亘理郡を支配。小沢氏、余目氏と同盟する。息に政宗、宗行。

⇔宇都宮公綱 ()

⇔新田義興 ()

⇔北条時行 (*)鎌倉府を攻略した北畠顕家軍に合流する。伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。 

⇔千葉胤宗 (1268~1312)千葉介。千葉頼胤の息。兄の宗胤が肥前国に出向したため、千葉荘を相続。下総・伊賀守護。息に貞胤。

⇔▽千葉貞胤 (1292~1351)胤宗の息。弟に粟飯原氏光。1312年家督継承。1331年楠木正成の赤坂城攻めに軍功。1333年新田義貞の挙兵に呼応し鎌倉攻略。建武政権後は南朝に属し、従兄弟の胤貞と宗家嫡流を巡り抗争。1335年千葉荘で胤貞、相馬親胤と抗争。二名が上洛の隙に胤貞の千田荘土橋城を攻略。1336年新田義貞に従う嫡男:一胤が丹波で戦死。1336年北朝方に転じる。1348年楠木正行との「四条畷の合戦」に軍功。次男:氏胤が家督継承。息に一胤、氏胤。

名和義重 (*~1338)1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。

名和義高 (*~1338)1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。

 ↓井伊道政 (*)井伊介。遠江の豪族。宗良親王は娘婿。1336年今川範国と抗争。三和光継に一門の多くを討たれる。1336年遠江守護。駿河狩野介・狩野貞長と連携。1338年「阿倍野の合戦」に今川配下の松井軍に敗北。息に井伊高顕。 


宗良親王の軍団 

遠江国奥山城 1336~  

「 思ふにも猶色浅き紅葉かな  そなたの山はいかか時雨る 」 

宗良親王 (1311~1385)一品中務卿・天台座主・征東将軍。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。1330年天台座主就任。「元弘の変」に讃岐に流罪。1338年伊勢より出航するが暴風により遠江国に漂着。井伊道政に後見され[信濃ノ宮、大草ノ宮、幸坂ノ宮]と呼ばれる。信濃大河原を拠点とする。1351年新田義興・義宗とともに鎌倉制圧。1355年諏訪直頼とともに小笠原長基と合戦し敗北。1369年関東管領:上杉朝房の攻撃により吉野に退散する。息に越後明光宮、尹良親王(伝説人物)。


<将軍:宗良親王の側近衆>

藤原則実 (*)十郎。伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。 

⇔北条時行 (*)鎌倉府を攻略した北畠顕家軍に合流する。伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。 

大橋定高 (*)伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。<子孫は、尹良親王の子孫を名乗る>

南朝の系譜が、戦国時代を突き上げる


<遠江国人衆> 


↑井伊道政 (*)井伊介。遠江の豪族。宗良親王は娘婿。1336年今川範国と抗争。三和光継に一門の多くを討たれる。1336年遠江守護。駿河狩野介・狩野貞長と連携。1338年「阿倍野の合戦」に今川配下の松井軍に敗北。息に井伊高顕。<南朝の道、「秋葉街道」を抑える>

 天野経顕 (*)前下野守。遠江の豪族。 

天野景顕 (*)安芸守。遠江の豪族。秋葉城主。 

▽天野遠幹 (*)民部少輔。遠江の豪族。天野景顕の息。 

▽天野遠貞 (*)対馬守。遠江の豪族。天野遠幹の息。 奥山* (*)遠江守。遠江の豪族。奥山城主。 

▽奥山朝藤 (*)六郎次郎。遠江の豪族。遠江守の息。 

二俣* (*)遠江の豪族。 

入野* (*)遠江の豪族。 

谷津直弘 (*)駿河守。遠江の豪族。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。谷津城 

▽谷津直能 (*)藤三郎。直弘の息。 

岡ノ直藤 (*)弥次郎。遠江の豪族。今城城主。 岡ノ直春 (*)美濃守。直藤の息。1337年坂田山砦構築。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。 

岡ノ良藤 (*)左近少監。直藤一門。 

上野直助 (*)左衛門次郎・直介。遠江の豪族。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。 

上野直定 (*)太郎。直助の息。 

田沢直道 (*)兵衛次郎。遠江の豪族。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。田沢城主。 

田沢通直 (*)大炊介。直道の息。

谷沢* (*)六郎左衛門。遠江の豪族。 

赤佐俊直 (*)三郎。遠江の豪族。 

石岡* (*)入道・浄覚。遠江の豪族。

藤原* (*)権三郎。元・楠家家臣。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。野に降る。 得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki 北畠顕信の家臣団


<奥州軍第弐世代> 

北畠顕信 (*~1380)鎮守府将軍。公家武人。1336年伊勢国司、1338年鎮守府将軍。1338年9月義良、宗良親王を補佐し関東に渡海。多賀城攻略に失敗し、霊山城を拠点とする。1347年宇津山城に移動。吉良貞家と抗争。1358年鳥海山大物忌神社に願文を奉納。のち眼病を患い自害する。息に信親、守親、親統。<津軽浪岡氏の祖となるか。> 

↑▽春日顕国 (*~*1344)侍従。公家武人。北畠顕家、顕信を補佐。1337年小田治久と結び常陸乱入。1337年顕家に従い上洛。1339年2月関東に下向し下野攻撃。1344年大宝城を襲撃し捕縛される。

 ↑結城宗広 (*~1338)新田義貞とともに北条氏を討伐。勲功から奥州の大領主となる。義良親王、北畠顕家の後見人となり、顕家の2度の上洛戦に従う。顕家戦死後、顕信を補佐し、南朝軍の挽回に尽力する。1338年9月義良親王を補佐し関東に渡海。途中遭難し伊勢吹上に病没。 

↑▽結城親朝 (*~1347)宗広嫡子。父・宗広、弟・親光を奥州の地で支援。1338年父・宗広が伊勢に死去すると中立し、南朝と距離を置く。1342年に北朝の石堂義房に投降。奥州の南朝勢力が衰える。

 ⇔↑葛西清貞 (*~1343)牡鹿・桃生・登米・本吉・気仙・磐井・江刺・胆沢領主。奥州惣奉行家。牡鹿郡石巻を本拠とする。北畠顕家に従い、南朝に忠節。

 ↑小田治久 (*1283~1352)民部大輔・高知。常陸守護職。常陸国小田七世。鎌倉幕府に従い小山秀朝・佐々木高氏とともに笠置山、金剛山で朝廷軍と合戦する。万里小路藤房を囚人として預かる。藤房の説得で朝廷側に転ず。1333年藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名。常陸にて北朝方の佐竹貞義と抗争。1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を迎える。1339年10月高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。1340年高ノ師冬の攻勢に抗しきれず、1341年11月降伏。北朝政権下でも冷遇される。小田城主。 

関 宗祐 (*~1343)1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を小田治久、下妻政康とともに迎える。1341年小田治久が高ノ師冬軍に降伏。1343年8月白河の結城晴朝が北朝に降伏。北畠親房を城から落とし、1343年高ノ師冬の攻勢に息の関宗政とともに戦死。関城主。 

東条* (*)1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を居城に迎える。足利方の佐竹軍に攻略され翌月に落城。神宮寺城主。<室町「応仁の乱」期に一瞬、東海道に東条国氏が登場しますが、子孫?。> 

下妻政泰 (*~1343)1338年以降、北畠親房に従い南朝方。春日顕国、興良親王を居城に迎える。1341年小田治久が高ノ師冬軍に降伏し、大宝城が南朝最後の拠点となる。1343年8月白河の結城晴朝が北朝に降伏。高ノ師冬の攻勢に戦死。大宝城主。 

真壁幹重 (*)真壁城主。1338年以降、北畠親房に従い南朝方。 

河村* (*)1338年以降、北畠親房に従い南朝方。 

↑伊達行朝 (1291~1348)蔵人・左近将監・宮内大輔・行宗。伊達郡領主・地頭職。伊達基宗の息、子息は宗遠。1337年北畠顕家を領内の霊山城に迎える。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり。伊佐城主。

 ↑▽南部政長 (*~1350)源・岩手。師行の従兄弟:南部政行の息。八戸南部氏第5代。1335年北畠顕家の上洛には同行せず、足利方の曽我氏を討伐。1338年父:政行の戦死により家督。宇津峰城の北畠顕信に従う。

 ▼南部信光 (*~1376)三郎・大炊助・薩摩守。信政の息。弟に政光。1350年祖父・政長より八戸根城を相続。1365年甲斐波井郷に上向。1367年神大和守を破り後村上天皇から軍功を賞される。息に長経。

 益戸国行 (*)志筑城主。 

  「玉骨はたとい南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん 」 -後醍醐天皇- 1339年「後醍醐天皇」吉野に死去。


<大覚寺統 吉野南朝軍>

1348年高ノ師直が「吉野焼き討ち」。賀名生行宮に撤退。
1368年「後村上天皇(義良親王)」摂津住吉行宮に死去。 

長慶天皇 (1343~1394)寛成親王・陸奥太守。南朝大覚寺統の天皇。後村上天皇の皇子。1369年足利義満・細川頼之の勧誘で楠木正儀が北朝に降伏。住吉行宮を捨て吉野に撤退。1383年弟の後亀山天皇に譲位。1386年隠居。 南山行宮に没す。懐良親王、宗良親王も相次いで没す。

後亀山天皇 (1350~1424)煕成皇子。南朝大覚寺統の天皇。後村上天皇の皇子。兄:長慶天皇の譲位により即位。足利義満の提案を受諾し、北朝の後小松天皇に譲位、南北朝統一をみる。弟の惟成親王(護聖院宮)が跡職。

建武新政の守護大名

⇔北畠顕能 (*~1383)(中院)・正二位・権大納言。伊勢北畠氏。北畠親房の息(3男)。中院貞平の息とも。野呂隆俊の娘婿。1335年伊勢一志郡多気城入城。1338年伊勢国司。1348年楠木正行に呼応して幕府軍を攻撃。1351年石塔頼房と抗争。1352年楠木正儀、千種顕経とともに京都突入。細川頼春を討つ。息に(木造)顕俊、(除野)顕相、顕泰。

 ▽湯川* (*)庄司。北畠顕能の腹臣。1352年男山八幡の籠城に兵糧が欠乏し幕府に降伏する。 

千草顕経 (*)忠顕の息。1352年楠木正儀とともに京都突入。細川頼春を討つ。

 四条隆俊 (*)中納言。1359年足利義詮の幕府軍に紀伊にて抵抗。1360年関東執事・畠山国清、義深兄弟の率いる幕府軍に抵抗。 

▽塩谷* (*~1360)伊勢守。四条隆俊家臣。1359年幕府軍と戦う。勝神山にて戦死。 

▽喜志* (*)民部左衛門。1359年南朝方。1360年幕府軍に降伏。 

▽喜志* (*)大夫。1359年南朝方。1360年幕府軍に降伏。 

▽山本* (*)1359年南朝方。 

▽湯浅* (*)大夫。紀州湯浅党の惣領。1359年南朝方。1360年幕府軍に降伏。 

▽田辺* (*)別当。1359年南朝方。 

▽湯河* (*)庄司。1359年南朝方。1360年畠山国清の「紀州征伐」に降伏。 

▽八木* (*)小山・八郎。1359年南朝方。1360年畠山国清の「紀州征伐」に降伏。 

▽岩田* (*)西蔵院院主・東三谷。1359年南朝方。1360年畠山国清の「紀州征伐」に降伏。1361年南朝方の反撃に滅亡。春日山城主。 各地域の南朝軍

<坂東(関東)衆> 


仁科重貞 (*)信濃の堀川光継の跡職継承。1336年「建武新政」に信濃国司。1336年比叡山籠城1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。。<信濃の小笠原一族か。子孫は武田信玄の息が養子として入る信濃の名門仁科家に繋がるか。> 

春日部家綱 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。 

江戸景氏 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。 

本間重氏 (*~1337)孫四郎。1336年「湊川の合戦」に軍功。1336年比叡山籠城に相馬とともに軍功。北国落ちに従わず、足利軍に降服するが六条河原にて処刑される。<本間一族は鎌倉幕府方として、中先代に関東で蜂起。> 

相馬* (*)四郎左衛門。1336年比叡山籠城に本間とともに軍功。


<東海・中部・北陸地方> 


 足助重範 (1292~1332)足助七世。「正中の変」に討死した足助重成の一族。1331年「元弘の変」に後醍醐天皇の笠置山籠城に参陣。総大将となる。1332年落城の際に捕縛され六条河原で討たれた。 

⇔○狩野貞長 (*)狩野介・貞綱。建武新政に武者所。1336年関東厩番、武者所三番。1336年比叡山籠城。1340年今川家と対立し宗良親王に従う。1352年新田義宗の挙兵に足利尊氏に従い出陣。駿河安倍城主。 

井伊高顕 (*~*1386)井介。遠江井伊谷の領主。奥山城城主。井伊通政の息。1337年比叡山落ちに際して妙法院宮を奥山に匿う。白羽湊に漂着した宗良親王を天野景隆とともに救援。足利一門、今川範国と抗争する。 

天野景隆 (*)遠江の豪族。井伊高顕とともに白羽湊に漂着した宗良親王を救援。 

香坂高宗 (*)天竜川上流の信濃の豪族。大河原城主。宗良親王に従う。 

⇔北条高行 (*)北条高時の息。南朝方に降る。信濃大徳寺城主。宗良親王に従う。 

中院定清 (*~1335)越中国司。井上(普門)利清の挙兵により戦死。 

⇔○井上俊清 (*~*1348)普門・越中守。越中の豪族。1338年武家方として越後新田軍と抗争。のち吉見頼隆に敗北し没落。桃井直常が越中新守護。 

栗沢正景 (*)新田貞員の後見人。1346年貞員に従い「能登乱入」。 

富来俊行 (*)能登国人。新田貞員を居城に迎える。木尾岳城城主。

<近畿地方> 


長沼高秀 (*)淡路守。長沼家惣領。南朝方として抵抗。家督を長沼秀行に奪われる。 

↑名和長生 (*)大井・長和・長重。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れる。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。


<中国・四国地方> 


荻野朝忠 (*)尾張守。丹波守護代。1344年南朝方に通じ幕府軍に攻撃される。<足利方の丹波豪族・荻野尾張守とは別人らしい。宗家と分家が南朝北朝に分かれて争うか?。> 

▲益田兼方 (*)石見国国人。益田惣領家。1335・36年足利方。息に兼見。 

⇔益田兼見 (*)石見国国人。益田兼方の息。益田惣領家。1335・36年足利方。 

福屋兼景 (*)石見国国人。中部の豪族。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。

 ↓高津長幸 (*)石見国国人。西部の豪族。吉見家分家。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。 

佐波顕清 (*)石見国国人。1335・36年宮方。 

工藤* (*)三郎。石見国国人。1339~1342年新田義氏を旗頭に、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。 

津野* (*)石見国国人。東部の豪族。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃。1342年新田義氏の降服後も、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。1344年頃まで三隅氏とともに最後まで抵抗。 

▲三隅兼連 (*)石見国国人。中部の豪族。益田家分家。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃。1342年新田義氏の降服後も、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。1344年頃まで津野氏とともに最後まで抵抗。息に兼知、兼春。三隅城主。 

三隅兼春 (*)四郎・与一・入道。石見国国人。中部の豪族。益田家分家。兼連の息。兄に兼知。1335・36年宮方。黒沢城主。杵束城主。

 周布兼宗 (*)石見国国人。中部の豪族。周布惣領家。1335・36年宮方。 

⇔周布兼氏 (*)石見国国人。中部の豪族。周布分家。1335・36年足利方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。


<瀬戸内衆 伊予国> 


⇔河野通治 (*)通盛。河野家惣領。河野通有の息。通増の従兄弟。朝廷方の河野一門の土居、忽那に対して、当初鎌倉幕府方として働き失領。幕府滅亡後、土居・得能氏とともに後醍醐天皇に従う。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王・新田義貞に従い越前に従軍。のち北朝方として働く。1342年土居・忽那氏に湯築城を攻撃される。息・通朝は北朝に降服し1350年に伊予守護。

 河野通増 (*~1337)土居通増・新左衛門尉。河野通成の息。通治の従兄弟。1331年護良親王に呼応して挙兵。1335年尊氏の関東下向に従う。のち新田義貞に従い「湊川の合戦」。新田義貞に従い越前に従軍。越前にて戦死。 

土居通世 (*)河野通世。1337年兄の戦死後家督。南朝方として働く。1337年懐良親王を三年間後援。安芸守護・武田直信、河野通盛の攻撃を撃退。1342年伊予落ちした脇屋義助を援助。 

▽土居通景 (*~1342)河野通景。細川頼春軍の攻勢で伊予世田城の攻防戦に戦死。 

得能通綱 (*~1337)河野通綱。得能通村の息。河野通増と結び1331年護良親王に呼応して挙兵。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。 

得能通時 (*)河野通時。1337年道通の戦死後家督。南朝方として働く。1342年伊予落ちした脇屋義助を援助。 

重見* (*)伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。 

村上義弘 (*)伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。1337年懐良親王を三年間後援。 

祝 * (*)大山祇神社神職。伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。<後の尾張の織田家家臣、祝 重正と、血縁的に関連ありか。> 

▽↑忽那義範 (*~*1356)藤原義範・下野法眼・下野房・下野坊。忽那水軍惣領。伊予国の豪族。元・鎌倉幕府御家人。重義の息(次男)。1336年北朝に転じた惣領(兄)・重清に代わり、南朝方惣領。伊予落ちした脇屋義助を援助。1337年懐良親王を三年間、自領に匿う。のち「観応の擾乱」に足利直冬を支援。

<伯耆衆>

 小林* (*)右京亮。山名時氏の家老職。伯耆の豪族。「二条河原の合戦」に佐々木山内判官(山内定詮)を撃退。<道南12館の小林氏と関連あれば、おもしろい。> 

小林重長 (*)民部丞。山名時氏の家老職。伯耆の豪族。丹波守護代。1355年南朝方が山名時氏と同盟し、幕府軍と合戦。


懐良親王の軍団

<九州南朝軍> 

懐良親王の勢力

▲菊地武時 (1192~1333)次郎。兄に時隆。菊池家惣領第12世。肥後の豪族。1333年後醍醐天王の船上山の綸旨を受け鎮西探題・北条英時を襲撃。少弐貞載の離反により戦死。のち7人の息子の間で跡職争い勃発。息に武重、頼隆、武茂、武舜、武澄、武吉、武豊、武敏、武光、武隆、武士、武尚、武義、武世。

 菊池武敏 (*~*1341)九郎・掃部助。武時の男(9男)、武重の弟。少弐貞載を討つ。1336年博多表「多々良浜の合戦」に1万騎。足利軍に敗北する。九州の局地戦で阿蘇惟直、秋月種道、蒲池武久、星野家能とともに南朝軍として活躍。兄・武重の帰国後これを助け、死後は武士を後見する。息に武本、武世(弟を養子?)。 

▽菊池武重 (1307~1338)次郎・肥後守。武時の男(嫡男)。弟に武敏。菊池家惣領第13世。1333年父・武時とともに鎮西探題を襲撃するが、少弐・大友の離反で敗北する。1336年新田義貞の足利征伐軍に弟・武吉とともに従軍。京都で新田義貞軍として活躍する。「菊池千本槍」を畿内に轟かせる。1336年「湊川の合戦」に敗北。弟・武吉は戦死。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。九州に帰還し、1337年2月南朝勢力として蜂起。翌年、急死する。 

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鎌倉時代末期から室町時代初頭にかけての天下人、足利尊氏を特集しました。

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