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戦国その5 越後の戦鬼:長尾為景の家臣団、越後の竜:上杉謙信(もと上杉輝虎:上杉政虎:長尾景虎)の家臣団

破邪謙正 毘沙門天 上杉謙信公 肖像のつもり。
「 生 知らず 死 又知らず  戯月 是 又、夢中の如し。 」
 - 上杉輝虎 - 辞世

<越後守護代:三条長尾家 歴代当主>


▲長尾能景 (*~1506)三条長尾・(義景)。坂東八平氏の系統。元・相模長尾荘の豪族。観修寺藤原流上杉家の執事家。越後三条長尾家9代目。1482年重景没後に家督継承。1504年関東管領・上杉顕定の要請で越後守護・上杉能房とともに「関東出征」、上杉朝良の「河越城攻撃」。越後国内の一向宗信仰を禁じる。越中守護・畠山尚順の要請で越中に出征、神保慶宗の裏切りにより越中国「般若野の合戦」で戦死。息に為景、為重。娘婿に上杉定実、高梨政澄、山本寺定景、飯沼正清。<信濃豪族・高梨政高の娘婿らしい。>

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足利幕府・関東公方の変遷と対立。

長尾為景 (1471~1536*1543)三条長尾・六郎・弾正少弼・信濃守・(戦鬼)。三条(府中)長尾氏10代目。越後守護代、長尾能景の息。古志長尾顕吉の娘婿。上杉謙信の実父。1506年父・能景の戦死により家督。1507年守護・上杉房能と対立。房能養子・上杉定実を擁立し、房能を討つ。山本寺定種・平子朝政を打倒。1508年揚北衆、本庄時長・色部昌長・竹俣清綱の反乱。中条藤資・築地忠基・安田長秀・志田春義を動員し反乱鎮圧。守護・上杉定実の実家、上条定憲と抗争する。1509年関東管領・上杉顕定が弟・房能の戦死に怒り越後乱入。栖吉・長尾房景、坂戸・長尾房長は管領方として敵対、本庄房長・色部・竹俣・上条定顕・八条修理・平子房長も離反したため越中に逃亡する。のち譜代の山吉久盛、揚北衆の中条藤資・築地忠基・黒川盛実・安田長秀の支持を得る。信濃衆の高梨昌盛・市川甲斐・小笠原大膳大夫・泉信濃、村山盛義・村山直義親子の加勢を得て反抗に転じ、上条定憲と和解し管領・顕定を討つ。1510年春日山城に復帰。1513年外祖父・高梨昌盛が没し、上杉憲方の策謀で信濃衆の島津・井上・海野・栗田氏が叛乱。上杉憲方の属将・宇佐美房忠を攻撃。1519年に父・能景の仇、越中の神保慶宗を攻撃。守護・上杉定実に春日山城を奪取されるが反撃。1530年上条定憲との対立に譜代の山吉政久・福王寺孝重、国衆の安田長秀・安田景元・北条光広の支持を得る。1533年上条定憲・長尾房長・中条藤資・新発田綱貞・本庄房長・色部清長との対立。1536年「三分一原合戦」に宇佐美定満・柿崎景家を撃退。生涯百余度の合戦を経験、「戦鬼」と称される。春日山城主。66歳で病没(77歳とも)。息に晴景、景房、景康、(上杉)景虎(入道謙信)。娘婿に長尾政景、上条定憲。

長尾晴景 (*~1553)三条長尾・弥六郎・弾正左衛門尉。三条長尾氏11代目。長尾為景の嫡男、上杉輝虎の兄。長尾(上田)政景と義兄弟。1536年越後守護代就任。足利義晴の「晴」字を拝領。和平路線を進めるが、揚北衆、中条藤資・本庄房長・色部勝長らが従わず。1548年守護・上杉定実の調停で隠居。42歳。

▽長尾景康 (*~1545)三条長尾・平蔵。長尾為景の息、晴景の弟。府中に居住。上杉家譜代の家老・黒田秀忠に討たれる。
▽長尾景房 (1527~*)(三条長尾)・上田・左平治。長尾為景の息、晴景の弟。<三条西実隆の日記に登場する。出家させられたか?黒田秀忠とともに謀反する長尾長景は同一人物か?>

上杉輝虎 (1530~1578)三条長尾・虎千代・平三・長尾景虎・上杉政虎・不識庵・謙信。越後三条長尾氏12代目。長尾為景の三男。母は栖吉長尾氏の娘。林泉寺・天室光育に入門。還俗し、1544年初陣。栃尾城主。1545・46年黒滝城攻略。1548年越後守護代就任。1550年越後守護・上杉定実病死。1551年1月越後国人・発智長芳討伐。2月上野城攻略。1553、1559年に上洛。1553年信濃国出征、8月「第一次川中島の合戦」。1555年2月「北条城攻略」。4月「第二次川中島の合戦」。1556年「駒返の合戦」。8月「第三次川中島の合戦」。1560年北陸経営、越中・椎名氏に加勢。3月越中国「富山城攻略」。9月関東遠征「岩下城攻略」、上野国「沼田城攻略」北条孫次郎を討取る。12月「那波城攻略」。
 1561年に関東管領上杉憲政の跡職を継承。上洛し将軍・義輝に「関東管領職」承認。3月相模国北条氏「小田原城攻囲」。鶴岡八幡宮参拝、上杉政虎に改名。同月武蔵国「松山城攻略」。9月「第四次川中島の合戦」<川中島で武田晴信(信玄)と総力戦、一騎打ちがあったとも>。11月武蔵国「松山城防衛戦」。上野国「国峰城防衛戦」。11月末「生野山の合戦」。12月「倉賀野城防衛戦」。1562年上野国「館林城攻略」。「騎西城攻略」。上野国「松井田城防衛」。4月信濃国「飯山城防衛戦」。4月中旬下野国「小山城攻略」。10月上野国「岩柩城防衛戦」。12月「和田城防衛戦」。1564年1月「小田城攻略」。2月「唐沢山城攻略」。5月「倉賀野城防衛戦」。6月「唐沢山城の攻防」。8月「第五次川中島の合戦」。
 1565年2月「倉賀野城防衛戦」。1566年2月「小田城再攻略」。「臼井城攻撃」敗北する。9月上野国「箕輪城防衛戦」。1567年4月上野国「厩橋城攻略」。1568年越中国「守山城攻囲」、7月「飯山城防衛戦」。11月越後国「本庄城攻略」。1569年8月越中国「金山城攻略」。1570年頃から謙信と自称する。1572年1月「石倉城攻略」。10月越中国「富山城再攻略」。1573年8月越中「朝日山城攻略」。1576年9月能登侵攻。1577年9月対織田家「手取川の合戦」勝利。長岡(細川)藤孝と歌道を通じて昵懇、1577年和歌口伝一巻を贈られている。


《個人的感想》 上杉謙信と和歌で親交を深める細川藤孝の行動。茶道を通じ交流を深める千利休。度々の上洛での関白・近衛前嗣(前久)と親密の仲。皆さん織田家にとっては松永久秀なみに怪しいです。畿内の文化人は油断ならないですな。
 1582年「甲州征伐」のおりに勃発した近衛前久と、織田信長の喧嘩。風前の灯の上杉家を保護しようと、近衛前久が嘆願したからでは?
「本能寺の変」の根底に上杉家との縁を、感じずにはいられません。

関東管領:上杉輝虎(上杉謙信)の家臣団 

( 丁(槍) 上杉氏軍役帖に記載された実在人物の軍役:1575)
 関東管領・上杉家。山内上杉は上野国を支配
 *上杉景勝が家督継承の際に、上田長尾家以外の主だった家臣が「御館の乱」に一掃されているため、武田家なみに一度上杉家は滅亡しているんだというくらいの気持ちで各武将の事績を見直した方が良い様です。上杉景勝は二代目ではなく、下克上して上杉家を乗っ取った戦国大名だと認識すべきかと思われます。(当然、徳川家の如く勝者の歴史改ざん(「上杉年譜」とかは都合悪いことは省略されてるかと)が行われているようです。)

<長尾(上杉)一門衆> 
▲長尾為景の越後統一戦にかかわる武将

<1559年『諸国衆御太刀之次第』記載、直太刀三人衆は特別な地位権限を持つ一門か。>

<上田長尾家>
▲長尾房長 (*~1552)上田長尾・越前守・房景。1509年関東管領・上杉顕定の「越後乱入」には管領方として、為景と対立。1533年「上条の乱」で長尾為景と対立するが、1536年息・晴景とは講和する。晴景を後援し長尾景虎(のち上杉謙信と称す)と対立。越後坂戸城主。<為景配下の福王寺孝重・山吉政久と抗争。>

長尾政景 (1526~1564)上田長尾・六郎・越前守・正景。為景の宿敵上田(坂戸)・長尾房長(房景)の息。長尾晴景・景虎と義兄弟。上杉景勝の実父。1549年輝虎に叛す。1551年父と共に輝虎に叛いたが、のち降服。輝虎の姉(仙桃院)婿となる。1555~56年出家遁走した輝虎を追いかけ春日山に連れ戻す。1559年「披露太刀之次第」披露太刀之衆第七位。1561年11月武蔵国「生野山の合戦」に軍功。1562年2月上野国「館林城攻略」に従軍。1564年宇佐美定満と野尻池で事故死。越後坂戸城主。

<古志長尾家>
上杉景信 槍54丁・81名 (*~1578)古志長尾・越ノ・長尾・十郎。古志長尾氏。1559年直太刀之三人衆①。父・房景の代から府内長尾為景を支持する。長尾為景は義兄弟。長尾景虎は甥。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。1578年「御館の乱」では、上田(坂戸)長尾の勢力の増長を嫌い景虎を支持し、山浦国清に討たれる。栖吉城主。<直太刀三人衆が景勝により討ち取られているということは、景勝がクーデターを断行したとしか・・・。>

<第一世代> ▲為景世代~ 1530年以前の出生

▲上条頼房 (*)上杉。越後守護上杉家一門衆。長尾為景と争った上条定憲(為景の娘婿)の弟。1503年一門の上条定実が、越後守護・上杉房能の婿養子となった家柄。1559年披露太刀、入道之衆六人のひとり。<同じ入道衆の直江実綱と同世代とすれば、1500年代生まれか?>

▲山浦* (*)上杉・主水・(主水正)。上杉一門衆。1559年披露太刀、入道之衆六人のひとり。<同じ入道衆の直江実綱と同世代とすれば、1500年代生まれか?上杉憲政の息、山浦憲重とも。><村上義清の息子が山浦家を継承。槍170丁250名を動員できる領地を有していたということでしょう。なかなかの大身。>

▲長尾俊景 (*~1515)下田長尾・平六郎。下田長尾氏。長尾庶流。1515年上田・長尾房長に討伐される。

⇔山本寺定長 槍50丁・71名 (*~*1578)上杉・三本寺。1507年父(定景?)は守護・上杉房能を守り、長尾為景に討たれた。1559年直太刀之三人衆③。第2期・謙信七手組のひとり②‘。越中の一向一揆に備える。「川中島の合戦」に信玄本陣に突入した。上杉景虎(北条氏秀)の後見人となる。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。「御館の乱」では景虎を支持。息に景定、景長。

⇔琵琶島広員 槍106丁・156名 (*)上杉・長尾・弥七郎・景通。善次郎は息カ。1559年「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十二位。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。「御館の乱」では景虎を支持。以降の消息は不明。

長尾藤景 (*~*1575)遠江守。下田長尾氏。長尾庶流。謙信の家老として、斎藤・柿崎・直江・北条・河田らとともに活躍。謙信七手組①のひとり。1559年「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十位。高城城主。<1575年軍役長作成時には既に死亡?。信州表での謙信の采配を侮り、謙信の命で本庄繁長に討たれるとも。>

⇔桃井義孝 (*~1578)上杉・右馬助・伊豆守・義高。1559年直太刀之三人衆②。1545・46年黒滝城攻略に従軍。1560年関東出征に春日山城留守居役。1561年「小田原城攻囲」に従軍。1564年8~10月「第五次川中島の合戦」に従軍。信濃国飯山在番。「御館の乱」では景虎を支持し、春日山城を攻撃するが討死。<1575年の軍役帳に記載されない武将は、揚北衆の本庄・鮎川・大川のように、軍役を免除される特別な地位ということも考えられます。><為景の代、桃井讃岐守は関東管領軍に参加。>

上条景義 (*~*1582)上杉。越後守護上杉家一門衆。上条頼房の息。1559年謙信とともに上洛。1561年「信濃出兵」には春日山城留守居。1577年能登国畠山氏の義春を養子に迎える。1582年森長可と信濃国境にて合戦、撃退する。以降の消息は不明。<1575年の動員名簿は養子の(畠山)政繁ではなく、景義が登録されるか。><何度となく長尾家と対立してきた上条家。>

<第二世代> 輝虎(景虎)世代~

1530年以降の出生 没年が1582年の武将は越中魚津城で玉砕(景勝の捨て駒?)。

上杉憲盛 (*)扇谷・山内・七沢・七郎・憲勝。扇谷・上杉朝昌の息。兄に上杉朝寧。山内・上杉憲政の養子。太田資正に養育される。武蔵国、深谷城主。のち松山城主。1561年「小田原城攻囲」に従軍し第二陣を務める。1563年2月松山城を北条軍に攻囲され降服する。北条氏邦に仕え上野国金山城を攻撃。

山浦国清 槍170丁・250名 (1546~*)村上国清・長尾・源吾・源五郎・蔵人・景国。信濃の豪族・村上義清の実子。1553年上杉一門の山浦家を継承する。1559年「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十三位。輝虎の信任厚く、諸侯との交渉を一任される。1572年越中に出征し一向一揆と戦う。1577年能登国末森城主。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。1579年「御館の乱」で景勝に味方する。1582年以降海津城主となり旧領を回復するが屋代秀正の徳川家離反のため失領し越後に戻る。<1559年には山浦入道の養子になっていたかと。>

<信濃国との繋がり。景勝の跡職継承は信濃豪族の影響力の現れでしょう。>

山本寺景定 (*~1582)上杉。定長の息。不動山城主。越中に出陣せずに留守居。「御館の乱」以降は消息不明。

山本寺景長 (*~1582)上杉・伊予守・勝蔵・孝長。定長の息、または弟。織田軍の柴田勝家と対陣し、1582年越中魚津城にて自害した12将のひとり。<兄に山本寺景定がおり、事績が混同されているとも。いずれにしても景定も「御館の乱」で消息が消える。>

長尾景連 (*)小平次・謙忠。長尾一門衆。為景の弟、長尾為繁の息。長尾景虎の従兄弟。旗本御手廻衆。1560年「関東出征」に従う。1561年「第四次川中島の合戦」に従軍。のち上野国厩橋城主。故あって誅殺される。<『上杉年譜』より引用。存在あやしいか。>

長尾時宗 (*)長尾一門衆。下野国・佐野昌綱の「唐沢山城攻略」に軍功。謙信から感状。以降、佐野昌綱の抑えとして関東に残る。<佐野昌綱の養子に入る長尾虎房丸の関係者か。>

長尾景親 (*)勘四郎。長尾一門衆。旗本御手廻衆。1561年「第四次川中島の合戦」に従軍。<『上杉年譜』より引用。存在あやしいか。>

↓*▲加地春綱 (*)安芸守・知綱。長尾為景の娘婿。謙信・長尾政景の義兄弟。1559年「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十五位。1561年「第四次川中島の合戦」に従軍。1564年8~10月「第五次川中島の合戦」に従軍。1564年信濃国飯山城在番。揚北衆。1565~1569年中に死亡カ。<川中島に先陣を勤めた加地知綱と同一人物か?><近江佐々木家の分家。戦国時代にも一族として交流はあったのでしょうか。>

<第三世代> 景勝世代~ 1550年以降の出生

上杉景勝 槍250丁・375名 (1555~1623)上田長尾・卯松・喜平次・(御中城様)・顕景。上田(坂戸)長尾政景の息、1559年輝虎養子。1572年10月春日山城留守居。1578~79年「御館の乱」で景虎に勝利する。その後佐渡を占領する。生涯最大120万石。<御中城様は後世の後付でも可か。>

上条政繁 槍63丁・96名 (1553~1625)畠山・弥五郎・山城守・義春。室は上杉景勝の妹。能登国守護・畠山義則の次男。1576年兄・畠山義隆が家老・長継連に謀殺される。第2期・謙信七手組のひとり①‘。上条上杉家を継承し上条城主。はじめ関東に派遣される。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。「御館の乱」では景勝に味方する。1582年森長可と信濃国境にて合戦、撃退する。1586年上杉家を出奔する。<1575年軍役帳に登録された上条は養父か。>

⇔長尾景直 槍50丁・81名 (*~1581)椎名・小四郎。旗本衆。長尾一族。1560年関東出征に春日山城留守居役。1575年「上杉家軍役帳」に長尾小四郎で登録。81名を負担。越中国の豪族・椎名康胤の養子となる。越中新庄城主。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。1578年一時景虎派に属し、所領を減封される。河田長親与力。のち織田に通じる。1581年越中小出に戦死。越中小出城主。

上杉景虎 (1554~1579)北条・三郎・(氏秀とは別人とも)。北条氏康の七男。室は上杉景勝の妹。1579年「御館の乱」で景勝に敗北する。堀江宗親の裏切りにより自害。<北条氏秀は玉縄系の人物のようです。>

⇔▽上杉景満 (*~1578)古志長尾・越ノ・長尾。古志長尾氏。1578年「御館の乱」で滅亡。栖吉城主。<古志・上杉景信の息か。>

(景虎派=親北条・織田勢力 景勝派=親武田勢力+上田長尾家) 1578~1579年「御館の乱」で反景勝派を粛清

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<越後守護:上杉政虎(上杉謙信)譜代家老衆>

▲旧世代   関東管領・上杉家の臣と、上杉家執事・長尾家の臣から構成される。頚城、古志、魚沼地方 
<1559年『諸国衆御太刀之次第』記載、披露太刀之衆、登場人物は実在武将。>
⇔▲上杉定実 (*~1550)上条。越後守護。上条房実の息。1503年上杉房能の婿養子。1507年長尾為景に擁立され、養父・房能を追う。1508年幕府から正式に越後守護に、為景は守護代に補任される。1509年関東管領・上杉顕定、養子・上杉憲房が「越後乱入」。実家の上条定憲、上田衆の長尾房長・平子房長・発智六郎、上杉一門・八条修理亮、栖吉の長尾房景、譜代の山吉孫次郎、桃井讃岐守・石川駿河守、揚北衆の本庄房長・色場昌長・竹俣清綱が離反する。のち上条定憲が定実支持に転じ、上杉顕定を撃退。1513年上条定憲・宇佐美房忠に擁され長尾為景と対立。1530年再び上条定憲が蜂起。宇佐美定満・大熊朝秀、上田の長尾房長、揚北衆の中条藤資・黒川清実・色部清長・本庄房長・新発田綱貞・鮎川清長・竹俣清綱らが支持する。1568年長尾為景の死により、息・晴景と和解。のち長尾景虎(上杉謙信)に家督を譲り病死。

上杉憲政 (*~1579)平井上杉・関東管領。上野国平井城主。上杉憲房の息。関東管領・上杉憲寛(古河公方・足利高基の息)の養子となる。1545年扇谷上杉朝定、古河公方・晴氏とともに北条家の河越城を攻囲。1546年奇襲により敗走、扇谷朝定は戦死し家系断絶。1547年信濃にて武田軍に敗北。1552年北条家の圧力に抗しきれず越後に落ちる。のち1557年上杉政虎(長尾景虎)を養子に迎える。1560年関東に入り関東管領職を譲渡する。1578年「御館の乱」で景虎派。上杉景虎の嫡子(道満丸)を匿い景勝に暗殺される。

山浦憲重 (*~1579)上杉・(村上)。上杉一門。1578年「御館の乱」で景虎派。以降の消息は不明。

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