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知らないことは、知りませんといえる。そういう人こそ信頼される―『論語』

受け売りではなく、自分の言葉で話そう

 知ったかぶりはしないほうがいい。
 けれど、 立場上、あるいはビジネスを進めるときに、「そのことは知りません」といえないときもあります。
 年下や部下からそんなことも知らないんだ、と見下されたくない、という心理が働くときもそうかもしれません。

 ネットで検索すれば、おおよその情報や知識は瞬時に手に入る時代。一方で、日々流れていく情報をおいかけてもおいかけきれません。その大半はすぐに消えてしまう。
 なので、私のように、ビジネスの第一線から退いて、フォロワーの立ち位置で関わっている人間としては、生ネタを追いかけることに精力を注ぐことはよりも、必要な情報を取捨選択し、利用価値のある知識(インテリジェンス)に加工する。そのことに精力を注ぎたい。

 そんな話を、前にも投稿しました。
尊敬される人は、受け売りではなく、自分の言葉で話している―『論語』

知らないことは、他人に知らない、と答えよ

 それを踏まえて、孔子が弟子の子路に、知ったかぶりをしないほうがいい、と諭している話に触れてみたいと思います。

「君に〝知る〟とはどういうことか教えてあげよう。
自分が知っていることは、他人に知っているといってかまわない。
でも、自分の知らないことは、他人に知らないと答えなければならない。
これが本当の知る、ということだよ」

子(し)曰(いわ)く、
「由(ゆう)よ、女(なんじ)にこれを知(し)るを誨(おし)えんか。
これを知(し)るをこれを知(し)るとなし、知(し)らざるを知(し)らずとなせ。
これ知(し)るなり」

『論語』為政篇

 子路は孔子より九歳年下、弟子のなかでは最年長クラスでした。勇み肌で血気にはやるところがあり、孔子のボディーガード役。
 しかし、学問のこととなると、秀才揃いの若い弟子にはかなわない。でも、若い連中になめられてたまるか、という思いがつよく、虚勢をはってしまう。知ったかぶりをしがちだったのでしょう。

 ふだんから子路のそういう言動をみて、心配していたのが師匠の孔子です。
 知ったかぶりをすると、それを見透かされて、若い弟子から軽んじられるだけ。子路にそれを改めさせるには、遠回しにいうよりも、直截にいったほうがいい。

 孔子はそう考えて、まるでペットを叱るような言い方をしのでしょう。
 孔子のもとで学んだあとは、てそれは自分が仕えることになる官僚や貴族に仕えることになります。やがて信頼を得て、活躍できるようになるためにも、知ったかぶりをする性癖は、ここで直してしまったほうがいいい。

聞いた教訓を実践できるようになるまでは、次に進まない

 この孔子の手厳しい指導の効果があったからか、子路の言動が慎重になったという記述が『論語』公冶長篇に出てきます。

子路は、先生から聞いた教訓がまだ実行できていない間は、新しい教訓を聞くことをたいへんこわがった。

 子路(しろ)聞(き)くありて、未(いま)だこれを行(おこ)なう能(あた)わざれば、唯(た)だ聞(き)くあらんことを恐(おそ)る。

『論語』公冶長篇

 このくだりについて、貝塚茂樹先生は次のように解説されています。

 言論よりも行動、理論よりも実践を重んじた孔子の門下で、この子路ほど教訓を実践にうつそうとひたむきに努力したものは少ない。
 孔子が子路を大好きだったのは、こういう美点があるからである。

 子路の言動に関する2つの話は、篇を隔てて別々に掲載されています。
 本来は別々のことがらなのかもしれず、因果関係があるかのように結びつけて理解するのは、牽強付会かもしれません。
 でも、人の成長といことを考えるうえでは、こういう読み方をしてもいいのではないでしょうか。


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