「切磋琢磨」。スキルや知識だけなく、「心を磨く」ことに真意あり―『論語』
「継続は力なり」につながる言葉
新人が職場に配属されるこの時期に、「継続は力なり」ということをスタッフに訴えたい。それにふさわしい『論語』の言葉を、研修でとりあげてもらえませんか。
企業のオーナーからのそんなリクエストに応じて、候補の言葉をいくつか挙げたところ、オーナーが選んできたのは、「切磋琢磨(せっさたくま)」でした。
現在では、互いに競い合って、技能やスキルなど高める意味で使われていますが、もともとは、学問や道徳、技芸などを磨き上げる「自己研鑽」を意味していました。
この企業の勉強会では、「切磋琢磨」をテーマにグループディスカッションをし、「継続は力なり」についても考えてもらいました。
グループ別に発表。いろいろな考え方や意見が出てくるのを受けて、オーナーがスタッフに自分の考えるところを伝えていきます。
日々、努力を重ねていく。
途中で技術やノウハウの習得をあきらめない。
ライバルに負けないぞ。先輩に追いつき、追い越す――そういう気概を持つことが大事である、と。
今日学んだことがすぐにできるようになるわけではありません。しかし、成果は後からついてくる。
ふだんの仕事でのやりとりに加えて、こういう場が共有できると、たとえば新入社員がひとりで悩んでしまう、やる気を失ってしまう、その一歩手前で誰かが手を差し伸べ、明日への勇気を奮い起こす。そんなチームの土壌ができていくように思います。
「切磋琢磨」もともとの意味は
さて、「切磋琢磨」のことです。
古代中国では珍重されていた高価な材料を加工するために、特殊な技術が必要とされました。切・磋・琢・磨とは、それを加工する技術・作業のことです。
「切」は骨を切って加工する
「磋」は象牙をといで加工する
「琢」は玉(ぎょく)を打って加工する
「磨」は石を磨いて加工する
この言葉は、『論語』で、弟子の子貢(しこう)が孔子と交わした会話に出てきます。
貧しくても卑屈にならない。豊かになっても傲慢にならない。モノの豊かさ以上に大事なことがある、それが心を磨くことだ、と思いいたった会話の一節です。
と言いますと、『詩経』にある、骨を切る、象牙を研ぐ、玉を打つ、石を磨く。そのように心にも磨きをかけよ。孔子先生はそう、おっしゃりたいのですね。
どういう経緯でこうい問答になったのか、その前段のやりとりをみてみましょう。
弟子の子貢が、孔子にたずねた。
「貧しくても卑屈にならない。豊かになっても傲慢にならない。こういう生き方は、いかがでしょうか」。
「うむ。それならなかなかのものだ。だが、貧しくても人生を楽しみ、豊かになっても礼を守る、こういう人物にはまだ及ばないね」。
孔子からの返答を聞いて、貧富での境遇以上に大事なことがあると言われて、心を磨くことの大切さに気づくのです。
そして、彼らが生きた時代より前に編まれた『詩経』に歌われた、衛の武公の自己研鑽ぶりを表現した言葉を引用したのでした。
それは、次のように伝わっています。
淇水という川のほとりには緑の竹が見事におい茂っていました。そこに美しく文才のある君子がいて骨や角を削り、石を打って磨き、美しく整えるように自分自身を磨いて努力していました。学問をし、心を広くし、明るく輝いている―そのように力強く、心ある君子を私たちは長く忘れることができないのです。
ところで、子貢と孔子の問答には、まだ続きがあります。
子貢の答えを聞いて、孔子はこう胸の内を明かすのです。
孔子は子貢の言葉に合点がいって、こう告げたのです。
「君とは深く語り合える関係になったなあ。一つのテーマをきっかけにして、モノゴトの本質まで考えることができるとは(偉いものだ)」
弟子の成長を褒め、師弟の心の絆をこれから深めていこう、と語る師匠。
ここにほほえましい師弟関係をみることができます。
昭和の牧歌的な時代には、上司と部下にもこういう関係性がありました。この本を読んでおきなさいとか、紹介状を書くからこの人に一度挨拶をしておきなさい、と導いてくださったものでした。
残念ながら、年功序列制度が崩れていくにつれて、こういう人間関係は職場から消えてしまいました。
最後に、「切するが如く、磋するが如く、琢するが如(ごと)く、磨( (ま)するが如(ごと)しに関する問答の読み下し文です
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