見出し画像

克己復礼。一日でもいい、自分の都合ではなく、他人のために生きる―『論語』

自分の都合≧他人の都合 の生き方をしていませんか

人は自分の都合を第一に考えて生きています。
そう断定してはいけないのかな? 
わが身を振り返ってみると、自分の都合を最優先にして生きていることが多いです。

 数式にすると、

自分の都合≧他人の都合

 それに対して、公私ともに、他人のために尽くす、自己犠牲、献身的な生き方をしている人も少なくありません。数式にすると

自分の都合≦他人の都合

 そんなことを考えながら、『論語』を読んでいて、目に留まったのが、弟子の顔淵(がんえん)が孔子先生に「仁」とは何かを尋ねた一文です。

 顔淵(がんえん)、仁(じん)を問(と)う。
 子(し)曰(いわ)く、
「己(おのれ)に克(か)ちて礼(れい)に復(かえ)るを仁(じん)となす。

『論語』顔淵篇

 仁とは、私欲をおさえて、人間生活の基本である礼の道にたちかえることだよ。

 ここでいう「礼」とは、今日でいう礼儀作法のことだけにとどまりません。社会規範、モラルを守ることなども含まれています。

孔子は続けて、こう言います。
「たった一日でいい。自分の都合で生きるのではなく、人として踏み行うべき道を生きてみたら、どうだろう。
世の人々はその生き方を目の当たりにして、人を思いやることの大切さに気づき、見習うとするのではないだろうか。
仁を実践することは、自分の力でやり遂げることで、他人の力を頼ってやることではない」。

 孔子の意図を、私なりに解釈で。
 己に克(か)ちて礼に復(かえ)ること。
 それは、アタマでわかったつもりになっただけではダメだよ、まずは一日でもいいから実践してみなさい。あなたの生き方に接した人たちは、それを見習おうとするだろう。
 すると、仁を実践する人の輪が、次々に伝搬していくではないか。

 読み下し文です。

 一日(いちじつ)己(おのれ)に克(か)ちて礼(れい)に復(かえ)れば、天下(てんか)仁(じん)に帰(き)す。
仁(じん)を為(な)すは己(おのれ)に由(よ)る、而(しか)して人(ひと)に由(よ)らんや。

『論語』顔淵篇

社会規範にはずれた行動はしないこと

 顔淵は、一を聞いて十を知ると言われたほど、孔子の弟子のなかでも突出して優秀とされていました。その彼をもってしても、その真意を取り違えることのないようにという思いからでしょうか、孔子にさらに尋ねています。

「もう少し具体的に申しますと……」
「礼(社会規範)にはずれたものに対しては、視ないこと、聞かないこと、礼(社会規範)にはずれた発言をしないこと。そして、礼(社会規範)にはずれた行動はしないことだよ」
「至らぬ私ですが、精一杯つとめてみます」

 まずは、世の中で行われていることが、社会規範から外れているかどうか、それを見極めなさい、と孔子は説いているのでしょう。
 そのうえで、社会規範から外れるような行動をしてはいけない。別の言い方をすれば、人としての道を踏みはしてはいけない、ということでしょう。

もっと、ベタな言い方をすれば、次のようになるのでは?

 人というのは、他人の間違いや不正には、敏感で口うるさいものですが、そこに思惑や利害を絡めれてはいないか、どうか。
 そして、いざ実践するときにも、自分に都合のいいように解釈してやっていないか、どうか。

 読み下し文です。

顔淵(がんえん)曰(いわ)く、
「請(こ)う、その目(もく)を問(と)う」。
子(し)曰(いわ)く、
「礼(れい)に非(あら)ざれば視(み)るなかれ。礼(れい)に非(あら)ざれば聴(き)くなかれ。礼(れい)に非(あら)ざれば言(い)うなかれ。礼(れい)に非(あら)ざれば動(うご)くなかれ」。
顔淵(がんえん)曰(いわ)く、
「回(かい)、不(ふ)敏(びん)なりと雖(いえど)も、請(こ)う、この語(ご)を事(こと)とせん」。

『論語』顔淵篇

「仁」とは何か。
その極意を孔子が示した名言が、「克己復礼(こっきふくれい)」。

この言葉について、受け止め方が変わったら、また取り上げることにします。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?