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家族を守るのか、法に従うのか。正直に生きるとは?―『論語』

バカ正直に生きることがベストの選択なのか

正直者とはどういう人のことを言うのでしょうか。
その基準は、時代背景や社会のあり方、宗教観などによっても、かわってきます。

 朝ドラ「虎に翼」では、第2次大戦後の食糧難のときに、闇米には一切手を出さず、栄養失調となり、ついには肺浸潤で33歳の若さで亡くなった判事の逸話をモデルにしたエピソードが、最近放映されていました。

 闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた判事は、職務に忠実に法を順守し、正直な生き方を貫いたのでした。当時、都市部では政府から支給される配給米だけでは足りず、非正規に流通する闇米も入手して飢えをしのいでいた、とされています。ほかの判事たちも、家族を抱えていれば、そうやって生き延びようとしていたことでしょしょう。

 この判事の死は、世間の同情を集め、「聖人」とあがめられるほどになりました。遺族に大金の香典が贈られ、画家であった山口夫人の絵を最高裁判所が買い上げることで弔意を表したのです。

 その父親の選択に対して、遺された子息は、どう思っていたのか。
 かなり後になってのこと。弁護士の山形道文氏が、判事の生涯まとめた『われ判事の職にあり』が1982年に刊行されたのですが、そこに長男の思いが掲載されています。

とうとう一個の法律と一方的に心中してしまった自己陶酔型の利己主義者。
あの破滅的な飢餓のさなかで、一家の柱と頼む父に死なれてしまった。五歳と三歳の子を抱え、母はどうやって生き延びることができるだろう。父の実家から母の実家へ移り、そこで育ててもらわなければならなかったではないか。
死んでしまうことよりも、生きることの方が遙かに難しかったといえる。
「お前のお父さんは偉い人だった。それなのに、なんだお前は」といわれもしたが、ではその父は、母と幼児を遺棄し、一体、どんな立派な義務を尽したということができるのか。

山形道文著『われ判事の職にあり』

 正義(正直であること)は、誰のための正義(正直であること)であるのか。
 家族の生命を守る。本人が生き抜いて、子どもたちを育て上げていくこと、使命ではないのでしょうか。
 社会の正義を貫くことも大事ですが、個人の生命を奪ってしまう法制度であれば、それを完璧に順守することあベストの選択だったのか。
 遺された子息の思いに触れると、考えさせられます。

父の窃盗を訴え出た息子は正直者といえるのか

 ということで、思い起こしたのが、孔子が生きた古代中国に、正直とはどういうことか、を巡って問答がなされた一節です。

 正直であることが、家族の犯罪におよんだときに、何が何でも家族を守ることを優先するのか、社会の一員として、法律に準じるのか。
 楚(そ)国の葉(しょう)県の長官、葉公(しょうこう)と孔子との盗人を巡る問答を見ていきましょう。

 衛の国の葉(しょう)という県の責任者・葉公(しょうこう)が、孔子と面談したときに、自分のところの正直者のことを話題にした。
「私どもの村には正直者の躬(きゅう)という男がいます。彼は、自分の父親が羊を盗んだのを知って、証人として訴え出ました」
 それに対して、孔子はこう答えました
「私どもの村の正直者はそれとは違います。
父は子の罪を内緒にしますし、子は父の罪も内緒にします。そういう人としての情に従うのが、正直というものではないでしょうか」

 躬の父親がなぜ羊を盗まなければならなかったのか。
その事情をここからは知ることができませんが、息子を含めた家族の食べ物を手当てしようとしたのでしょう。父親のその愛情に感謝よりも、法を破った父の行為は許されるべきではない、とした息子の倫理観。
 統治者、行政官としては、法を順守した息子のそれを高く評したい。

 それに対して、父親を告発し、罪人として裁かれてしまったのでは、家族を支える働き手はいなくなってしまう。家族間の愛情を大切にし、家族としての営みを続けていく。それが人として生きる道の基本であって、その思いこそが正直ではないか。
 法を順守する正直よりも、人としての基本を重んじる正直のほうが大切と考えていたのが孔子。

 この問答をめぐって、貝塚茂樹先生は次のように解説されています。

 孔子が生きた春秋時代末期は、社会の治安が悪く、盗賊が横行していた。それだからこそ、葉公は、父の窃盗罪を訴え出た息子のことを、得々として自慢話をした。(略)
 家庭道徳の基礎の上に国家の治安が維持されるのを当然とする孔子は、これに反対した。
 孔子の持ち出した物語のほうは、あるいは架空の話かもしれない。(略)

 修身斉家(しゅうしんせいか)治国平天下(ちこくへいてんか)

 まずは自らを修め、家を斉える。そのうえで国を治め、天下を平らかにする。と『大学』にあります。孔子の倫理観と通底するものがです。
 しかし、秩序が崩壊した社会においては、あるいは統制に重きおく独裁体制においては、法令遵守の徹底が求められるでしょう。

 最後に読み下し文です。

葉公(しょうこう)、孔子(こうし)に語(かた)りて曰(い)わく、吾党(わがとう)に躬(み)を直(なお)くする者(もの)有(あ)り。その父、羊ひつじを攘(ぬす)む。而しこうして子(こ)、之(これ)を証(しょう)せり。
孔子(こうし)曰(いわ)く、吾(わが)党(とう)の直(なお)き者ものは、これに異(こと)なり。父(ちち)は子(こ)の為(ため)に隠(かく)し、子(こ)は父(ちち)の為(ため)に隠(かく)す。直(なお)きことその中(うち)に在(あ)り。

『論語』子路篇

 法令遵守を第一に考える『韓非子』では、このやりとりをもとにした考察がされていますので、機会をあらためて触れたいと思います。


参考までに。
判事の死について、後日その経緯が新聞記事で報じられ、多くの人が知るところとなったのは、次のような報道によってでした。

 “安い給料では食えぬ”と判検事がぞくぞく弁護士に転業していく折柄、いまこそ判検事は法の威信に徹しなければならぬとギリギリの薄給から、一切のヤミを拒否して配給生活をまもりつづけ、極度の栄養失調がモトでついに肺浸潤でたおれた青年検事の話が、このほど葬儀に参列した同僚と、その日記からはじめて明らかにされ悲痛なその死をいたまれている。

 昭和21年(1946)10月、東京区裁判所第14刑事係の経済犯専任裁判官となり、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。
 山口良忠判事(33)で、世田谷区に妻(31)との間に二児を抱えていたが、(中略)判事、月給三十円(税込)足らずでは、押し寄せるインフレの波では二人の子供が訴える空腹さえ満たしてやれなかった。
 そのたびに妻はタケノコを提案し、急場をしのごうとしたが、山口判事は“人をさばく裁判官の身で、どうしてヤミができるか、給料でやっていけ”と家人をしかりつけ、配給だけの生活を命じた。こうして夫婦はほとんど毎日しるばかりすするほかなく、配給ものは全部二児にあてがっていた。
 これを見かねた岳父、元大審院判事弁護士、神垣秀六はじめ在京の縁者たちが郷里から食糧を贈ったが、裁判官はそんな違反はしてはならぬとしりぞけ、経済係判事として全く身を清潔に保ち、激増する経済事犯を一人で百件から持って審理に敢闘していた。
 本年三月頃極度の栄養失調におちいり“このままでは死んでしまいます”という妻の訴えもガンとして聞かなかった。岳父神垣氏は食糧をとどけても受取らないので、一週に一、二度ずつ山口一家をよんで食事することにしたが、そんな計画的なことはごめんだ、とそれさえもことわり、栄養失調はいよいよひどくなって、微熱が出るようになった。
 妻は医者の診断を受けるようすすめたが、“オレが今病気だと休んだら、受け持っている百人からの被告人はいつまでも否決のままでいなければならない”と聞かず、この状態で約半年。ついに去る八月二十七日、東京地裁で倒れた。

(1947年11月5日付、朝日新聞) 




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