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#1 三途の川を渡る時、果たして洗脳は解けるか。

十数年ぶりに親父の声を聞いた。
看護師さんに、トイレに行きたいがしんどくて歩けないと伝えているところだった。
診察室の隣の処置室から聞こえてくるそれは、あの頃家族がおびえた張りのある声とは、到底ほど遠い。
大好きなタバコや酒で、焼け切れきったことがすぐ想像の付く、懐かしくない声。それでもなぜか、すぐに私の親父と分かった。そして、今際の際だという連絡が、嘘でなく本当のことだとも。

親族への連絡を絶対だと指示したという院長先生が、カルテを見ながら今までの経緯を説明してくれる。カルテの一部に、「自分の失態により家庭が崩壊。家族とは絶縁している。今日は娘と息子が来てくれるはず。」と記載があるのを発見して、少し笑えた。
お金のない親父を2年4か月も見てくれたこの優しい院長先生には、素直に身の上話ができたのだろうか。家族崩壊の理由を、まさか自分のせいだと自覚しているなんて。この親父が。

それはこの親父に育てられた私たちにとっては青天の霹靂ばりの、天変地異が起こりましたか?ばりの、人生の中でもトップ3に入るくらいの。それくらいの驚きだった。
自分が悪いなどと、口が裂けても言わない男。プライドの塊で、それがためにこんなことになった男。

もともとの不摂生で長らく肥満のうえアル中・ヘビースモーカーだった親父は、糖尿病、高血圧を持病として持っていた。
2年4か月前に心不全で入院して以降、肝臓がん、肺がん、胃がんと患って、別の病院では治療不可能と受け入れ拒否をされたらしい。
院長先生曰く、知人宅のガスも電気も水道も通ってないところで寝泊まりしていた親父は、余命が発覚した時点でそこすら出て行ってくれと言われているので入院させてほしいと、先日、診察に訪れたという。
まだあの家にいたのか。あんなに金を巻き上げておいて、ガスも電気も水道も通っていないところに寝泊まりさせられていた?相変わらずあの家の人間は鬼だ。

「お父様は、はっきり言って短ければ一週間、長ければ一か月・・持つかどうか。まれに一年持たれる方もいますけれど、希望は薄いと思われます。」

「入院させるのにどのくらいかかりますか?」

院長先生の申し訳なさそうな余命宣告に、私ははっきりとお金のことを聞く。弟は隣で黙ったままだ。涙もろい彼なのに、まだ涙は見せていない。
私たちだって、自分の生活に精一杯で、お金に余裕なんかない。数十年ぶりに連絡してきたのが実父だからと言って、ほいほい出せるお金は一銭もない。
ましてやこの親父、数十年前に家庭崩壊を招いた元凶なのだから、なおさらだ。

「実はお父様、前回の入院費がまだ支払い終わっていなくて、そちらが91000円。前回の検査費用8500円も残債として残っておられて・・。」

頭がくらくらする。何がどうして一体。
いい大人がそんなことに?
しかもこの男に、生まれながらにして金運だけはあったのを知っていたから余計に意味が分からなかった。相変わらずあの家に貢いでいるに違いない。私は確信した。
親父の洗脳は、三途の川を渡ってもきっと解けはしないのだ。

「すぐにお支払いの必要はないですよ。生活保護の申請も入院してから考えることができます。残りの時間は緩和ケアしかできませんが、それなら当院でもできますし、お父様とは長い付き合いですからね・・。入院手続き、されますか?」

思えば院長先生は私たちが病室に入った時から優しかった。どんな迷惑な患者だったかと想像し、ついでに罵倒されやしないかとびくびくしながら入った私は正直拍子抜けした。それほどにやわらかい対応だったのだ。
私たちの事情を察してくれているからか。家庭崩壊を引き起こした親父の不自然な生活も、海千山千の院長先生には察しが付くことなのかもしれない。

払ってもらえるか分からない入院費が増えるかもしれないのに、入院させてくれるというのなら、もうこの慈悲深い先生にお願いする以外ない。
最後を見てもらうなら、この先生がいいときっと親父も言う。
私たちはこの病院で親父の入院をお願いすることにした。
入院の手続きをするために記入書類を見ていたら、前回の入院時の同意欄に、あの女の名前が書いてあった。

「坂井光子」

その名前を見たとき一瞬で、数十年前のあの辛い日の思い出が蘇った。
はらわたが煮えくり返りそうだった。
同時に、二度と帰らないと決めた町にまた戻ってきているのを実感する。
あの女のところにまだいたか。
こんなにボロボロになってまで、私たちを捨ててまで、まだあの女の所が良かったか、親父。

このくそ親父。
帰ってくるのが、余命数日前なんて。
洗脳も解けないままに。



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