校正とか私とか

私、誤字脱字が気になる性分でして。
内内の申し送りの記載内容から、割と重要な採用試験に係る書類まで。「ん?」と思うとその後の内容が入りにくくなる、そんな人間でして。
「『私』というものは納得がいかないと先に進まないものではないのか」と言われればそうかもしれない。
しかし、それでも内容はそれなりに伝わっているし、書類も上の確認が通って発されている。
チェックする側も見落としているんだろうと思いながら眺めてみるも、
「いや、これはこの字じゃなくね?」「この表現は複数の捉え方が生まれるぞ」と気になってしまうことは常々あり。よくわからないストレスがここにはいる。

ここで僭越ながら、つたない文章ではあるが、可能な範囲で考察したい。

まず単純に、自身が気にしすぎな性格もあることは承知している。
個人的には「目から入る情報である方が理解しやすい」「声などの非言語要素にゴリゴリ依存している」という特性と「私の日本語理解力が他の人と良くも悪くも異なっていること」があるんじゃなかろうかとの考えに至るなど。
私が気づく誤字って大体同音異義語なので。音声で確認すれば誤字は分からないわけで。時々明らかに違う字がぶち込まれてたりするけれど。
理解力は確認の際に「あ、いや、そうじゃなくて、このつもりで書いてた」などと言われ、非言語ゴリゴリと関連してニュアンスが拾えていないことを指摘されているように思うことがあるので。にんげんだもの。解釈が100%合致しないことだってあるわよ。

すこし前、「スマホやパソコンの使用頻度が増えて、漢字が出てこなくなった、調べないと書けなくなった」旨のコメントを耳にしていた時期があった。シューロンを執筆していた約2年(ソツロン時代も含めると約4年)、手書きのメモを残していたとはいえ、基本はパソコン作業で変換させれば大体の候補は出てくる。何かしらの手書きの場面で、字を思い出せずにスマホで調べることは私も何回か経験しており、ポッと漢字が出てこなくなった恐怖体験におののいた。文字を文字(意味のあることば)として認識するというより、記号(のようなかたちのような)で認識するようになってきたのかもしれない。

意味を確認し、これはこの字が妥当だろうと考えてアウトプットする。手書きであれ機械出力であれ、この工程は軽く扱われていいものだろうか。
「文字だけでは伝わらないことがある」など言われてはいるが、その文字すら違うものが使われてしまったら、伝わらないの意味まで変わってしまう。そう思うのは私だけなのだろうか。校正の職に就くわけではないが、意味を踏まえた上での文字の出力は大切にしていきたいとここで誓おう。

って、あれれ、考察していたら新しい問いが生まれました。こうやって研究は回っていくんだなぁ…しかし、私は言語学や形態素、認知の専門ではないので、可能であればどなたか議論していただきたい(他力本願寺、餅は餅屋のスタンス)。


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