とある夫婦の始まりから終末まで⑦

音信不通で10年の父との邂逅は衝撃でした。

信じられないほどやつれた父、家の中は荒れ放題、あれほどキレイ好きで埃を嫌って潔癖だった二人がなぜ・・・。父は肺を患い、家の中の移動でもぜーぜーという状況、母は認知症を発症し家事が全般滞ってしまい、父も頑張って対応してたようですが、生活が崩壊し始めてました。

私の姉(長女)が一人で何とか仕事をしながら両親の面倒を見てくれていました。
私は何も知らずで相変わらずのバカだったことに改めて気が付きました。

とりあえず毎週末で実家に帰るようにし、必要な食べ物を作って持っていく日々。

美味しくないと言いつつ食べる父。
味覚もだんだんなくなって行っているようだ。

段々と状況が悪くなり、ついに家の中の移動もできなくなった。毎日仕事終わったら1時間で移動して実家へ行き面倒を見る生活をしばらく続けたが無理だこれは、、、と気が付いた。

妻を頼らぬように対応していたが、手を差し伸べてくれることを期待してたのだろうか、余計に苛立ってしまった。これは自分で決めたことだとさいど 自分に念押しした。

部屋異動ができなくなって2週間後になんとか介護ベットの手配はできたが、そのベットを父が使うことはなかった。

父はもう限界だった。姉も自分も限界だった。
その日の訪問診療で入院を決断、父は病院へ救急搬送された。

コロナ禍で全く面会ができない状況が続く。
入院して3日くらいで生死の境をさまよう。簡易的な人工呼吸器で延命。
本人は延命措置を希望してないことを20年来の付き合いの主治医に明確に伝えていたため、簡易人口呼吸器を取り付けることも医師は悩んだようだ。

母の認知症の問題で不動産相続など面倒毎があったので公正証書遺言を残すことにした。公証人役場の方が来て父と面談を行うため、簡易人口呼吸器がはずされた。

無事面談を終えた後、父は絶好調だった。
今振り返っても最高のギフトタイムだった。
妻も私の姉も母も居てみんなで笑いながら30分くらい話ができた。

その後医師と話をした。
肺を病んでいた父は、呼吸が上手くできず、血中の酸素濃度はさておいて、二酸化炭素濃度が薄まらず幻覚などが見える状況とのことだった。強制的に呼吸をさせれば一定下げることが出来るが、所詮は対処療法でしかないと。この対処を続けること自体本人が望んでいるのか悩んだと言われた。

そこから1か月程度、また少しずつ呼吸器を取り付ける前の状態にもどっていきましたが、たまに面会許可が出て会えると、
父からは「ばーさんはどうしてる?」
「相変わらずだよ。家で姉(長女、次女)が見てくれてる。入院してからは3人で交代で見てるよ」と伝えると父は苦い顔をした。

「相変わらずでは困るんだよ」という意図だと亡くなったあとの父のメモを見て理解した。

父のメモには、母の認知症の症状、状況などここ数年毎日残されていた。

相手は認知症、怒るわけにも行かない、とは言え頓珍漢なやりとり、、、頭にきてたことも全部メモされてた。
そして認知症の進行をすこしでも遅らせるために父がしていた努力が何よりも読み返して堪えた。
毎日新聞を取りに行け、寝てばかりいるな、嫌われ役を買って出てたと知った。
なくなる半年前でメモが途絶えた。字も書けないほど父は衰弱し始めていた。

そんなことも知らずに私は、「自分で取りに行けないなら新聞なんてもう止めなよ」と何度も言ってしまった。
今振り返れば父なりの皮肉で「お前はお母さんには優しいなぁ」だった。
(おれにも優しくしてくれよ。。。と言いたかったのかもしれない。)

入院する前に寝室へ父の手を引いて連れて行ったとき資産の相談をした。
母が認知症なので法定相続となった場合手続きがかなり難しい点を父に伝え
家や他の不動産をどうしたいか聞いた。

父は
「何年か前にお前に電話したのはこういう話をしておきたかったんだ。
 こうなってしまってからでは伝えきれないことがたくさんある。お前は本当にバカだなぁ。」と。

それでも父は自分が希望することを口頭で僕に伝えてくれた。
一番面倒を見てくれた姉二人のことはもちろん考えた上で、
「将来の介護費用のことを考え現金は母にすべて相続させ、不動産はお前が少し勉強して運用しろ」と。

母もそんなに長くはないことを見越し、現金は母に相続させ施設費をカバー、母が亡くなったあとは3人で相続しなさいということだと理解しました。。

相続を自分が仕切るように頼まれたことで、僕の中ではこんな自分をまだ見捨てないでくれたんだ。申し訳ない気持ちになって勝手に涙がでてきてしまいました。

私の中で自分決めて進んできた道で後悔はしないと心に決めてましたが、大きな傷を背負った感覚が芽生えてしまいました。
でも両親のためにできる限りの礼は尽くそうと心に決めた瞬間でもありました。

母を実家に一人にはできないので実家で1か月姉と交代で仕事をしながらの母介護生活。

1か月後でなんとか介護施設への入居が決まった。入居はしたもののコロナ禍で介護施設も面会禁止。

ましてや入居したくないと母が暴れてるのでしばらくは合わない方がいいかもと施設の方に言われ会えない日が続いた。

母が施設に入居して3週間後、、、父が旅立った。

病院から連絡を受けて高速を飛ばし、父の下へ、、、まだ少しでも話せるかもしれない。。。
病院もずっと面会禁止でしたから、とにかく気持ちは焦ります。

妻も「私もいった方がいい?」と聞いてくれたので、できれば、、、と一緒に出たのですが、
「お風呂上りで顔が渇くので化粧水が欲しい。コンビニに寄ってほしい」と、高速で言われ、仕方なく出口付近のコンビニへ。

5分待っても10分待っても出てきません。
「どういう状況かわかってる?」
少し声を荒げてしましました。
「あなたのコーヒー買おうかと思って」
「今じゃなくていいよ」
せっかく来てくれたからもっと言葉を選べばよかったと思います。

妻にこんな時は気持ちをわかってくれるはずという甘えもあったんだと思います。所詮は夫婦など他人なので察してくれなんてことは無理だと今は思います。

結局父は独りぼっちで旅立っていました。コロナ禍とは言え寂しい思いをさせてしまいました。

あの時10分急いだところで、、、ではありましたが、夫婦として相手の気持ちや立場をお互いに考えることがこの人とは、出来ないかもしれないという疑念が、確信に変わってしまった瞬間なのかもしれない。

ここから妻との関係は、加速度を付けておかしくなっていきました。

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