プレイリスト:夕立

僕の話


 ネット上には、いくつもの噂、都市伝説が跋扈している。それらが肥大化して、エンタメになったり、それらを語ることが商売になったりしている。   
 普通にSNSをやったり、動画配信サービスを見ているだけで、それらは脳内に垂れ流される。
 まぁ、たいていのもののクオリティっていうのはたかが知れているし、ネット上の不確かなものすべてが、噂、都市伝説の類だってくくることができる。僕の存在は、電波を通した彼、彼女らにとっては不確かなものかもしれない。逆もまたしかり。

 僕は、インターネットを信用していない。だが、軽蔑もしていない。適度に楽しむ程度には、「ちょうどのいい娯楽だ」なんて、かっこつけた体をとりながら、スマホを触る指はタイムラインを揺らす。

 現代人たるもの、アカウントは最低限5つは持っているものだろう。用途は人によるだろうが、僕は趣味のフィールドによって分けている。

 いや、アカウントを反復横跳びすることは、ナウくないなと心のどこかでは思っているのだ。だが、住み分けは必要だろう。白いアイコンのアカウントにジャンプする。

 今僕がお熱なのは、この白いアイコンの、音楽関連のアカウントだ。なんだか最近になって、邦楽しかも90年代くらいの音楽を懐かしむ気概が生まれ、青春時代に僕を捻じ曲げた音楽たちを聴きなおしているのだ。

 ブランキーに始まり、ミッシェル、大学時代に聞いていたスーパーカー、ナンバガ。どれを聞いても、今の自分にそれほどでも、昔の自分には確実に響いていた音楽が、少しむず痒い感じで鼓膜を震わす。過去の震えが、今の僕にゆっくり伝播しているような気がして。少し恥ずかしい気がするが、懐かしさというのは偉大である。すべてのものは懐かしくなるっていう、当たり前のことを何度も感じ入る。

 音楽を聴きなおすための一つのツールとして、SNSを使っている。好きなミュージシャンの出演情報とか、だれだれがどんな音楽を聴いているとかを知るためだ。

 最近よくやっているのが、他人のプレイリストをちゃんと聞くということだ。

 プレイリストというのは、様々な曲、アーティスト年代ジャンルを問わない曲を、ある程度のテーマをもってまとめたものだ。

 例えば、大学生の彼のプレイリストは、”たのしい”だとか”邦ロック”だとか大雑把なものでまとめている。ボサノバの次に、青春パンクが流れたり、青春パンクの次に、ねちょねちょしたラップが流れたりする。情緒が歩かないかで言ったらないが、私はこんなプレイリストも好きだ。
 愚かなる血液型診断を信仰した場合、明らかにA型であろう彼女のプレイリストは、”雨”だとか”苦しい時”だとかちゃんと再生順までこだわってプレイリストを作っている。

 プレイリストには、完成度と色がある。その人の生活が映る。エゴが出る。
 
 アーティスト自身が、この順番に聞いてね、おすすめだよと言っているアルバムを一素人が解体して、ぐちゃぐちゃに張り付けるのがプレイリスト。そこにアイデンティティを見出すのは、少し傲慢かもしれないが、それでも僕は人のプレイリストを聴くのが好きだ。

@taoyakanaseikatu

 SNSで注目しているアカウントは、人それぞれあるだろう。私にもいくつかある。その中の一つが@taoyakanaseikatuだった。なぜIDで読んでいるかというと、SNSのユーザーネームは「 '  _ ' 」こんな感じの顔文字だからだ。
 
 彼か彼女かわからないこの人のツイートがなんだか好きだった。たまにツイートする、自作のプレイリストがなんだか好きだった。

 彼、彼女のツイートは、シニカルでなんだか突っかかるような感じがして好きだった。
 彼、彼女は生活を見せびらかすことはしないが、投稿の節々に生活の香りを感じた。あざといことはせず、淡々と、たおやかな生活のための、最低限の自己表現。心の奥底で起こってしまう、自己顕示欲をすごく謙虚に消費していた。

 その謙虚な自己表現の一つが、プレイリストだ。彼、彼女は立派なサブカルオタクで、私と同じように90年代のロックスターに気をくるわせられた同胞の一人だ。初期アルバムの隅に隠れた曲をここぞというところで入れてきたり、王道な曲も逆張りをせずプレイリストに織り込む。
 彼、彼女のプレイリストは隅々までこだわりと音楽への情熱であふれていた。好きだった。
 
 彼、彼女のプレイリストには少し特徴がある。プレイリストの名前が、気候の名前になっているのだ。

 例えば、”土砂降りの雨”。雨で低気圧で、それだけでやる気が出ないのに、より陰鬱な気持ちに、でもなんだか救われるような気持になるプレイリスト。
 ”気分の乗らない晴れ”。このプレイリストは、晴れって、まぁいいけどさ、うーーん。みたいなプレイリストだ。気分の乗らない晴れの日に、このプレイリストを聴くと、カラ元気が、元気に変わったり、逆もしかりっだったり。
 ”赤い夕暮れ”。真っ赤に燃える夕暮れのプレイリスト。情熱だけが表出してきているような、あのドラマのように夕日に走って行ってしまうようなそんな曲たち。

 彼、彼女のプレイリストはこんな風に、統一感を持ったテーマに沿って作られていた。
 彼、彼女はこのような自己表現をしていたのだ。おそらく、本当にその天気の時に、ちゃんと吟味して選んで作ったものだった。天気によって、僕はそのプレイリストを聴いて、散歩したり、ぼーっとしたりをよくしている。


 そんな彼、彼女のアカウントは今は動いていない。すべてのツイートと、30あまりのプレイリストを残して、今は動かない。
 
 今年の7月に最後の投稿。

「今日は晴れですね。https://open.spotify.com/playlist/71RMAVa4YS4U0dzlsdkg4G?si=c97309ad7a9a40ed

 プレイリストの投稿だった。

 

証明

 暇も暇な日があった。しかも何日か。音楽の熱も、少し収まってきて、やることないなーと、空を見ていた。

 すると、ずんずんと足を速めるように黒い雲が西から東へ。向かいの家の屋根のトタンに雨がはねて音を出し始めた。雨が降ってきた。

 あ。これって夕立か?と思い立ったが、時刻は13:20。昼立ちだ。

 なんだか心に引っかかるものがあって、連想ゲームが始まった。その連想は、SNS関連のものに行きつき、そして最終的に@taoyakanaseikatuを思い出した。
 
 忘れていたわけではないし、彼、彼女がいなくなったのを悲しまなかったわけではない。だけれど、SNSはふっと消えて、ふっと戻るものだと思っていたので、対して気にしてはいなかった。実生活が忙しくなっただけかもしれないし。

 けど、久しぶりに訪れた彼、彼女のページはまるで廃墟のような気がして、とてもさみしくなってしまった。今ではいいね欄も見えなくなってしまって、本当に生きているかどうかがわからない。

 インターネットの存在はすべてちょっと確かで不確かだと思ってはいたが、これほど不在が、実在を証明したことはなかった。

 彼、彼女がどうしているのか急に気になって、柄にもなくDMをしてしまった。もちろん返信はなかった。

 彼、彼女の実在をどうにか確かめられないか思案した。だけど、SNSでしかつながっていない、しかもリプライも対して贈ったことのない私が、取れる手段なんてなかった。

 雨がセンチメンタルな気分を呼び起こしたと、大人な対応をして、眠ることもできた。
 
 だけど、今回はなんだか。

 
 彼、彼女のツイートを僕は見直した。一から見直した。ネトストのごとく見直した。だけど、そこには今の@taoyakanaseikatuはいない。単なるログでしかない。今の彼、彼女がいないことにはその投稿たちは、ただの文字列にしか見えなくなってしまった。

 ふと、音楽アプリを開く。彼、彼女のアカウントを開く。そこには30あまりのプレイリストが。

 今の天気。”どうにでもなれという雨”のプレイリストを聴く。土砂降りだけど、どうにでもなれと、開き直るようなプレイリストだ。

 the band apartの”雨上がりのミラージュ”から始まり、RCサセクションの”雨上がりの夜空に”で終わるプレイリスト。曲順とかも、どうにでもなれって感じがして、好きだった。

 四曲目、ASIAN KUNU-FU GENERATIONの"迷子犬と雨のビート"を聴いてふと思う。この曲、プレイリストに入ってたっけ。

 普通に好きなアーティストのアルバムでも、曲順を覚えている人は少ないだろう。だから、別におかしくはないし、気にするほどでもない違和感なんだけど。変わっている気がする。

 ”ハワイの13時”のプレイリストを聴く。やっぱり変だ。一曲目は申請かまってちゃんの”ハワイ”だった気がするのに、3曲目に変わっている。

 この音楽ストリーミングサービスはプレイリストの変更が、同期されている。プレイリストの作成者が、プレイリストの内容を変更したときに、それを共有している人のプレイリストまで変更が同期されるのだ。

 もし、この推測、つまりプレイリストが変わっているっていうことは、彼、彼女が生きていて、プレイリストを聴いているっていうことだ。

 彼、彼女はSNSをやめただけで、たおやかな生活は捨てていないんだろう。

 そう思えたから、そう思っておくようにした。ちょっとだけ揺らぐ存在が、彼、彼女のプレイリストを補強する。

 彼、彼女のプレイリストにいいね!を押して、たまーに聴いて、それで満足だった。

 

今日の天気は?

 外に出かける用事があって、その日はほとんど外にいた。役所での面倒ごとを済まして、適当な中華料理屋でお昼を食べる。
 
 予定が終わったて最寄り駅についたのは、夕方に足を突っ込んだくらいの時間だった。隣駅では、完璧に晴れだったのになんだか雲が怪しい。雨の気配がする。

 もちろん、僕は傘なんて持っていないし、ここから家まで歩いて20分。僕は賭けに出た。残り20分雨が降らないことを願って、駅をたつ。

 賭けには負けて、風がぴゅーと吹いて、雨を運んできた。家まで残り13分とかの場所で降り始めたもんで、始末が悪い。周りは住宅街だから雨宿りする場所もない。

 もういいやで、私は雨に降られながら進んだ。西のほうはオレンジがかった空が見えるのに、私はびしょぬれ。しまいには坂の手前にできている大きな水たまりにはまってしまい、靴下まで濡れてしまった。雨の音がノイズキャンセリングをしているような音を出して、地面に打ち付ける。

 丘の上にある家まで、濡れながら帰るのは、非日常でたのしくて、でもやっぱりちょっと不快で。

 家につく少し手前のところで、雨がぱたりと止んで、西の空の色が東のほうまで引き延ばされてきた。それも、虹色の帯をともにして。

 虹がきれいだった。靴下がびちょびちょだけれど、そんなことどうでもいいぐらいに虹がきれいだった。東京に来てよかったと思った。向かいを歩いている人に話しかけたくなった。

 そんなきれいな景色が九月上旬の東京の、端のほうには確実に存在していた。

 
 その日の夜。音楽を聴くアプリを開いた。新しい投稿の文字が光る。
 
 そこには、”夕立”と銘打たれたプレイリストが投稿されていた。@taoyakanaseikatuの物だ。

 そのプレイリストの説明欄には、

「虹も出ました。でも、夕立のほうがなんだか風情があった気がします。」

 と、虹に浮かれていた私を刺すような言葉が。

 彼、彼女は確実に存在する。まだ、たおやかな生活を求めている。夕立の中で何かを思って、共感が欲しくて、プレイリストを作っている。

 彼、彼女の中に、私は存在していないかもしれない。だけれど、こんなにうれしい。





 夕立の時はこのプレイリストを聴いています。まぁ、夕立にそんなに遭遇することはないんですけどね。

 https://open.spotify.com/playlist/3SOBvh1imcqqaBoIcOGv8Z?si=85dddf2a2746413b

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?