「不適応」という言葉は、今学校に向けられている
文科省の方針もあって、かつての「適応指導教室」は「教育支援センター」に名称が変わった。
思えばこれまで、学校関係者にとって「適応」という言葉は、児童生徒に対して用いられるものだった。
「学校に適応できない子」
「うまく適応させるのはどうすべきか」
など、あくまで学校が正しくて、そこに合わない者は何らかの問題を抱えていて適応できない状態、すなわち「不適応」とされ、改善されるべきものとして扱われてきた。
けれども、考えてみれば、近代の学校が成立して(日本では)まだ150年ほどである。
人類の歴史の中で見れば、学校がなかった時代の方がはるかに長いのである。
学校は、社会の必要性から生まれた。
社会が必要としなくなれば自然淘汰されることがあっても何の不思議もない。
もともと学校というのは、ある特定の時代における教育の一形態でしかないのである。
それを、今の学校システムが、あたかも未来永劫続くかのように錯覚し、学校に絶対的な正義があるという考え方が、「不適応」を生み出したのである。
規範がなければ逸脱がないのと同じである。
一つのシステムが、絶対視されればそこに当てはまらない例外は「問題」として扱われる。
今の学校は、まさに制度疲労を起こしている。
制度自体が社会の変化に追いついていない状態なのである。
言い換えれば、学校が社会に対して「適応」できない状態にあるということだ。
「適応指導教室」が「教育支援センター」と名前を変えた今、学校関係者が真っ先に考えなければならないのは、「学校」そのものの「不適応」をいかに克服することができるか、ということである。
不登校は学校からみれば不適応に見えるかもしれないが、不登校の子どもたちは、社会に柔軟に適応しているだけなのかもしれないのである。
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