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しがない公民科教員は西田亮介の新刊にぴーんときた

お初にお目にかかります。
地歴公民の臨時任用講師を務めております、風、光、私。と申します。

坂口安吾の代用教員時代のエッセー「風と光と二十の私」からハンドルネームを取ったのですが、どうにもアバンギャルドな感じがしてなじめないので、そのうち変更するかもしれません。

さて。

この本の感想を書きたいと思って、放置していたnoteのアカウントにログインをして、レビューを書き始めました。


結論、書きすぎました(笑)


本来一つの投稿でおさめるつもりだったのですが、読みやすさを考慮して、

①なぜしがない公立高校公民科教員がこの本を手に取ろうと思ったのか?(この投稿)

②本についてのレビュー

の二本立ての投稿でいきます。高校教育とかいっさい興味ない方はこの投稿を飛ばして②だけ読んでいただいたほうが良いと思います。

それではよろしくお願いいたします。

シンプルにして究極の問い「Who governs?」

今年は公民の授業を中心に受け持つことになり、再来年度には廃止されてしまう科目「現代社会」のいいネタ本はないかなーと探していたところ


あるじゃないですか!


『ぶっちゃけ、誰がこの国を動かしているのか教えて下さい』

このタイトルにぴーんときました。失礼ながら、イヤミな教養主義者であったかつての自分(今どきの若者だけど岩波文庫とかめっちゃ読みますみたいなキャラを装っていました)ならば、まず手に取らないタイトルではあります。あとエゴサーチ大変そうという印象も抱きましたが、そうではなくて。

「誰が」

一応私は大学で政治学を学んだ(ことになっている……)のですが、政治学を少しでも勉強したことのある人間なら、このタイトルにはなるほどなと感じてしまうのではないでしょうか。

つまり、「Who governs?」(ロバート・ダール)の問いなのだと。

政治学のシンプルにして究極の問い「誰が統治しているのか?」を考えるための本であるのだということが、一目でわかりました。



べき論に偏る公民科

政治家・官僚・利益団体・メディアなどのうち、誰が権力を握っているのか。誰が統治しているのか。

既存の公民科の学習指導要領においてこの問いはあまり重要視されてこなかったのではないかと思います。むしろ「誰が統治をするべきか」「私たちはどのように政治に参画するべきか」というような価値や規範に対する問い(べき論・規範論ともいえます)、「正解のない問い」を考えさせるようなカリキュラムが組まれてます。今年度から導入された「公共」という科目においてもそのスタンスは維持、もしくは強化されているきらいがあります。

以上のような点に関して、私は一教師として、どうなのかな、と思うことがありまして……。5つ理由を挙げます。


①ひとつめに規範論と現状認識は不可分だからです。

例えば何らかの機械が故障してしまったときに、接点が悪いのか、電源が供給されていないのか、など機械の状態と不具合の原因を探ることが解決につながります。

政治や社会も同様にとらえれば、現状、政治がどうなっているのか?という分析を抜きに、政治はどうあるべきか?私たちはどうするべきか?ということは考えられません。反対に、政治がどうあるべきか?を抜きに、政治がどうなっているのか?を考えることもできないのですが。


②ふたつめは高等教育との接続、先端の研究の反映です。

現状、政治学においてはポリティカル・サイエンスと呼ばれる自然科学的なアプローチを用いた研究分野が力を増しています。別の言い方をすれば、政治学の社会科学化です。

これは、端的に言えば、規範的(政治的)な立場と学問としての政治学が近すぎたことに対するカウンターとして位置づけられます。

例えば、伝統的な政治学の主流派においては、日本は民主主義国として遅れているとの認識・危機意識が強かったので、政治学者は政権(自民党)に対して必ず批判的な態度をとらなければならない、と考えられていたそうです(勘弁してくれ)。ある種啓蒙主義的態度ともいえます。代表的なのは丸山真男であり、現代日本において如実にその系譜を継いでいるのは、橋本徹氏や安倍晋三氏を痛烈に批判した山口二郎氏などではないでしょうか(久米郁男『原因を推論する』が詳しいです)

要するに、上述の言葉を再びつかえば、政治はどうあるべきか?という政治学から、政治はどうなっているのか?という政治学へと移り変わっているということになります。

私自身大学時代にポリティカル・サイエンスをけん引する先生からご指導を受けたこともあり(ゼミなどではなく講義ではありますが)、やはりその重要性について実感しています。


③三つめは、生徒たちにとって価値や規範に関する議論をするインセンティブが小さいということです。

価値や規範に関する問いは、基本的に「明確な答えのない」問いです。自由民主主義の国に生きる以上、例えば「憲法を9条を改正すべき」という考えと「憲法9条は改正すべきでない」という考え方の両方を尊重する必要があります。

そのような価値や規範に関する問いは大学入試や定期試験には不向きです。実際私も出題されたことはみたことがありません。

よって受験を控える高校生たちにとっては、短期的にみれば、試験の点にならない勉強をするメリットはありません。もちろん長期的に考えれば、メリットはあると思いますが。また、自分の主義信条を発表することを多大なコストとしてとらえることもできます。

主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)につながるものでありながら試験にはあんまり役に立たない。私は公民科におけるこのねじれを重く受け止めています。

付け加えておくならば、教育社会学者の苅谷剛彦氏などはそもそも「試験の形式が学校における教育を規定する」という考え方について疑義を呈されています。つまり、入試をかえれば教育は変わるのか、という問いです。これは一昨年の英語の入試制度改革の失敗に対する厳しい評価であり、私も納得するところではあります。しかし、現場の人間からするとやはり入試というもののプレッシャーは強く感じるのです


④4つめは、べき論とアクティブラーニングの過剰適応をあげておきます。

従来、地歴・公民科は知識詰込み型の暗記科目である、として批判にさらされてきました。加えて授業の形式が、他の科目と比較しても教師から生徒への一方通行になりがちで、それも問題視されてきました。

私自身、地歴公民の授業は呆れるほどつまらなく感じていたので、地歴公民の時間は「お昼寝タイム」だったことを思い出します(今受けたら面白く感じるのかもしれませんが)。

過去の反省もあり、今日では「アクティブラーニング」、文科省の言葉では「主体的・対話的で深い学び」(私はこれらの言葉があまり好きではありません)が目指されるようになっています。私なりに言い換えれば、生徒たちに自発的に様々な問いについて考えさせる、そしてそれを議論する、そのような授業が望ましいとされています。

アクティブラーニングと、上述した価値や規範に対する問い、「正解の無い問い」は非常に相性が良いです。個人的には、相性がよすぎる、とも感じています。

例えば、勤務校で使っている教科書(数研)に掲載されている、アクティブラーニングのための「問い」は全部で11項目あるのですが、規範や価値への問いを列挙すると

・発展途上国と先進国のどちらがどれだけ環境問題の責任を負うべきか
・原子力発電を続けるべきか
・安楽死を認めるべきか・忘れられる権利を認めるべきか
・民族・宗教・文化などの違いを乗り越えるべきか、独自性を主張すべきか
・日本は死刑制度を維持すべきか
・首相公選制を導入すべきか
・選挙権年齢・成人年齢の引き下げに賛成か、反対か
・外国人労働者の受け入れを拡大すべきか
・国民負担率を抑制して財政再建すべきか、国民負担率を高めて財政再建をすべきか
・公正な国際取引は消費者が担うべきか、生産者が担うべきか

11項目すべてが価値や規範に関わる問いであることがわかります(この教科書(数研)はアクティブラーニングのうちディベートスタイルを志向しているのでこうなってしまうわけですが、他の教科書にも近しいものは感じます)。

べき論について考えるためには、現状どうなっているのか、を問うことが不可欠であり、それについてもサポート的な記述はあるのですが(例えば、環境問題に関して先進国と発展途上国の立場の違いを考えよう、など)、やはり軽視されているといえます。さらに言えば、○○すべきかどうかという問いの設定自体が、社会に何か不具合が起こっているという現状認識から生み出されるものであるということを捨象しているともいえるのではないでしょうか。

話を冒頭に戻しますが、私は公民科が暗記詰めこみからの脱却、アクティブラーニングを進めていくにあたって「何が起こっているのか」「どこで起こっているのか」「誰が起こしているのか」といった現状認識に関する問い(記述的推論)と、「なぜ起こったのか」という前後の出来事、因果関係に関する問い(因果的推論)をもっと重視するべきなのではないか、と考えています(そういう私の「べき論」が、精密な記述的推論と因果的推論を踏まえたものであるのか、というツッコミはもちろん受け入れます。メタ視点大事)。

言い換えるならば、もっと「科学的」な公民科目を志向してはどうか、という提案です。

知識の暗記だけではなぜいけないのか、それは急速に変化する社会では、手に入れた知識もすぐに陳腐化してしまうという考えに由来します。ゆえに文部科学省が習得させることを目指すのは「生きる力」。すぐに役に立たなくなる知識ではなく、生涯にわたって「役に立つ」能力です。

その観点からすれば、科学的な考え方、つまり正確に現状を把握する力や因果関係を考察する力は、間違いなく「役に立ち」ます。旧来、このような科学的な考え方は理科や数学といった理系科目によって養われるものとされてきましたが、文系の学問である経済学や政治学、社会学といった学問が「社会科学」としての側面を重視している以上、高校の文系科目においても科学的な考え方を涵養することは重要なのではないでしょうか

指導上の利点もあります。いかに市民性教育・シティズンシップ教育が大切であるといったところで、現状、価値や規範に関する問いを学校で議論することは難しいと感じています。日本人は諸外国と比較して政治に関する議論を避ける傾向にあると言われます。私自身もっと政治に関する議論ができたほうが良いと思っているのですが、だからといって急速に推し進めることは厳しい。生徒の家庭、宗教的信条などと密接にかかわる議論を強要することはできません。しかし規範的な議論からすこし離れた科学的な議論であれば学校の中でもある程度やりやすいのではないかと思っています。

もちろん価値や規範に関する問いを軽視するわけではありません。ですが、「深い学び」を実践するにあたって、旧来の手法に対するオルタナティブを見つけたいというひそかな自分の野望があるのです。


⑤最後にべき論に傾斜する公民科への違和感の理由として、根本的なべき論の問いが隠されているということをあげておきます。

上述したように、勤務校の使用する教科書に死刑制度や原発の存廃に関する問いなどは提示されているのですが、そもそも民主主義は望ましい政治体制なのか?なぜ私たちは社会に参画しなければならないのか?といったさらにラディカルなものについては基本的に考慮されていません

ざっくりと言ってしまえば、公民という科目自体、学習指導要領及び教科書にはある種の規範的な主張が込められているからです

自由民主主義と資本主義を大切にしてね!選挙に行って投票してね!ちゃんと働いて税金を納めてね!日本のことを好きでいてね!国際貢献してね!

適当に列挙してみましたが、公民が文字通り「公の民」を育成するための科目である以上、特段私は問題に思っていません(監視は必要です)。一部の教師の方は例えば「愛国心」という言葉にアレルギーを持っているようですが……(感情としては理解できます)。

しかし、いかにべき論について議論したところで、公民という科目が持つ根本的にして規範的な主張に疑いの目を向けないで、なにが「深い学び」になるのだろうか、と思わないでもないのです。

事実、生徒から「共産主義って案外よくないですか?」と聞かれた時はギョっとしてしまったのですが、お隣の中国が急速な経済成長を遂げ覇権国家としての道を突き進む今日、そう感じるのも無理はないなと思います。

なぜしがない公立高校公民科教員がこの本を手に取ろうと思ったのか?

すみません。この時点で猛省しているわけです。

本の中身も読まずにタイトルだけで6000字書いちゃいました。

たぶん、ここまでお付き合いいただいた方でもブックレビューの記事だということを忘れておられるのではないでしょうか。


上記のように私も一教員として公民科の教育について試行錯誤して、もやもやしていたわけです。

自分の主張のように「科学的な公民」というものを目指すのはよいが、それは学習指導要領以上の内容であり(下手をすれば大学レベル)、それを独善的に生徒に押し付けるのもなあ、と思ったり。いくら考えても、給料は増えないしなあと思ったり。

再掲。

そんななか、この本の存在を知りました。そしてぴーんときました。

西田亮介先生は、20代からメディア論・公共政策論の分野でご活躍されてきた研究者です。新聞・テレビ・雑誌にも積極的に出演されていて、いつぞやかの中央公論でみかけてから、私にとって気になる学者のひとりでした。

しかし、実は単著を読んだことがなく、代表作『メディアと自民党』読もうかなーとか思いつつも、忙しさにかまけて手を出せず…

そこで

とつぶやいたところ、

なんと西田先生ご本人からエゴサ&リツイートされてしまいました!


というわけで

なぜしがない公立高校公民科教員がこの本を手に取ろうと思ったのか?

答えはリツイートされてしまったからです(しょうもない)。今日思うのは読書のコストって案外高くね?ということなのですが(書店に行く、金がかかる、重い、読むのに時間がかかる、保管場所をくうなど)、著者ご本人から本買ってね!と言われると、重い腰をあげたくもなるものです。


オチがついたところで次回投稿では中身についてもっとしっかりレビューします。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

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