なんてことのないこと。
noteにする必要もない。短い話だから。
私は人に何かをすることが好きだ。プレゼントを渡すとか、頼まれ事を積極的に引き受けるとか、喜ばれそうなことはとにかくやりたくなるタイプだろう。プレゼントだって金に糸目はつけまいと、借金さえしたことがある。バカバカしいと思われるかもしれないが、その当時の私にとってはそれが何より最良の選択肢だったわけだ。
その理由は様々で、人の輪の中に居続けたいからとか、相手に喜ばれれば関係を保っていていいはずだという打算とか、誰彼より人に尽くしている優越感を得たいだとか、基本自分本位ながら、相手によって何かしらのメリットを求めてそういった行動に移してしまうわけである。
当然、これは健全ではない。
貢ぎぐせと言うのか、少なくとも私は幼少から浪費癖はあったので、欲しいものはすぐに買ってしまう方だった。それが、好きなアーティストだの芸能人だのができ始めると、その相手が喜ぶことで自分の喜びを得られることに気がついてしまう。手っ取り早く相手を喜ばせるには現物である。あるいはお金という話もあるけれど、それはグッズなんかで還元しているから、本人の反応を直接見たいとなるとやはりプレゼントになってくるわけだ。これが良くなかった。
中学生の頃だった。とあるアーティストにハマって色々と見漁った時期があった。Twitterのアカウントが作れない年齢だから(誤魔化せばいくらでも作れたものを、そういうところ律儀な人間だったのである)ゲスト状態でツイートを追いかけて、何かが投稿されようものなら、DSやらWiiUやらを駆使して確認していた、そんな時期だった。
その頃、今で言う「推し活」文化はまだ言葉すら生まれていない。差し入れとかプレゼントなんてものは珍しく、ライブに来て、歌を聴いて、満足して帰るという流れが主流だったようだ。これはあくまで私の好きだったアーティストの話だが。
それだから私はひたすらにその「ライブ」に憧れていた。こればかりは自分でお金を稼げるようにならないと行けないと考え、働ける年齢、つまり高校入学まで偉いことに行きたい気持ちを募らせて待っていたということだ。これが良くなかった。
実際に高校生になり、私はバイトをやり始めてすぐに制限ギリギリまでシフトを詰め込んだ。この影響で半不登校になったりしたこともあったがそれはさておき、中学生のころに貯め続けた青い憧れをそのまま抱いて小金持ちになってしまったのである。そして悪いことに、ちょうどこの頃から「チェキ」や「差し入れ」が当たり前になる文化が私の好きなアーティスト近辺にも流入し始めた。散財、貢物の連鎖が始まって、感覚はいずれ麻痺していった。
そんなこんなで、友人に対しても何かにつけてプレゼントをしたがる人間が出来上がったわけである。金もないのに、だ。
ところがそれを自虐的に話していたところ、ある友人から、それならプレゼントを貰うより一緒に遊ぶ方が嬉しいと最近になって返されたことがある。
要は「一緒に遊べるだけでいい」という、ものでもなく、金でもなく、私自身に価値を見出しているというストレートな金言である。
私は非常に衝撃を受けた。
人間、自己肯定感が下がりきってしまうと、一緒に遊んで楽しかったね!と言い合う仲であっても括弧書きでその時の体験が、だのご飯が、だのと付けてしまうものだ。これが災いして、ここまでストレートに言われて始めて、友人という存在に安心感を抱いた。
無償の愛でも有償の愛でもなく、人間と人間の付き合いを確かに私は出来ていたのだという安心感、それを初めて他人に知らされた喜び、これを誰かに伝えたかった。
自己評価とは難しいものである。いつか私も、誰かの存在をありのまま肯定できるような人になりたいと思ったのだった。