選択の能動性をどこまで信用できるか。


 なんとまぁ、後ろ向きなタイトルだろうと自分でも思う。コンテストと名のつくものに出すような記事ではないかもしれない。それでも、私という人間は、こんな幸せそうなテーマを見ると、ひねくれずにはいられないのである。

#自分で選んでよかったこと

 が、しかし。お金ないので、少しでも生活の足しは欲しい。だから、私は私なりに、それなりに真面目に、これまでの20年の選択を振り返ろうと思う。

 話は少しズレるが、人間が能動的に行う最初の「選択」とは、一体なんだろうか?
 生まれることは選択できない。その性別も、趣味嗜好も、境遇も、多少なりとも後天性が認められるとはいえ、その全てを選択できた人など居ないだろう。好きな食べ物にしろ、好きな色にしろ、それを好きな事に能動的な理由のある人は少ない。
 私が物心ついた時に、初めてとった選択。それはきっと、予算以内に収まる菓子をスーパーの1コーナーから探しあてる時ことだ。チョコエッグはダメで、ペロペロキャンディもダメで、ガムも、なんならチューインガムもダメだったが、それにしたって豊富な選択肢がそこにあった。私はその全てに対して、その都度納得のいく選択を取っていた記憶がある。
 その頃の私が熱中していたもうひとつの選択が、恐らく写真に撮られる際のポーズ決めだろう。
 少し前に、実家の一室を一週間ほどかけて大掃除した。ということは昔の写真などがまぁいくつも出てくる訳だが、これが不思議なもので、私は写っている自分の行動を全くと言っていいほど理解できなかったのである。
 いつからか、私は極度の写真嫌いで、写らなければ怒られる集合写真を除いてはあの手この手で写真という機会そのものを避けてきたし、撮られている私の表情はいずれもぎこちのないものばかりだ。それが、実家から発掘された数々の写真、つまり、幼稚園かそれ以下くらいの頃の私は、まるで写真に撮られる自分が大好きかのようにくねくねとポーズを取り、カメラ目線の笑顔を振りまいている。本当に同一人物か?と思ったし、いくら思い出そうとしてもその時の自分が全く思い出せない。食に関する、お菓子に関することは思い出せるのに。

 私は、写真嫌いになることを自ら選んだのだろうか。

 これはその他の全ての事例に言えることだろう、進学先にしろ、就職先にしろ、付き合いを持つ人間関係にしろ、人生で選択を迫られる重大な機会ほど、自分で選んだか、と問われると素直に頷けない節がある。
 なぜか?
 後悔しているからだ。その大小に問わず、私はこの歩んできた20年の時間そのものを、少なからず後悔して憚らないのだ。なんと後ろ向きな話だろうか。書いていて虚しくなってきたので、何かいいこともあったはずだと必死に振り返っているが、人に恵まれていた事以外、つまり、能動的でない要素でしかいいことはなかった。運だけで生きのびた20年だ。それはそれで凄いな。

“それでも後から考えれば「よかったんだ」と思えたこと”

 公式にあるこの一文。これが全くもって、今のところ、私の人生には存在しないということになる。コンテストに投稿する意義とは?まぁ、聞いて欲しい。
 (勘のいい方はお気づきかもしれないが、私はこれから、少々無理やりにでも、俺たちの戦いはこれからだ!エンドを作ろうとしている。初めてのコンテスト投稿という一片の事実に免じて、この甘えた構成を許してほしい)

 さて、恥の多い生涯を送ってきました。
 消極的に勉強をしていたことも、好きなことに夢中になりすぎて破産して借金背負ったことも、かなりレベルを落として入った大学から精神疾患を事由に中退したことも、明日を生きる金がないから成人してなお日払いバイトでその場を凌いで繋いでいることも、経験と言えば経験だが、人生の下層と言えば下層なのだ。私はこれを選択による結果だとは認めたくないし、誰かのせいにして、被害者ヅラをしていたい。だって、その方が楽なのだ、なにもかも。
 こんなことがあった、あんな日々も乗り越えた、といつか笑う時が来たとしても、どうしたってそれらの選択を後悔しないことはないだろう。ジュゲムの来ないマリオカートのような苦労の連続だったのだから。それも、過去の私がもう少し思慮深ければしなかったような苦労の連続。
 これもポジティブにしようと思えばできないことは無い。そういった苦労の積み重ねで、私はだいぶ人にやさしく、自分にも優しくなれたのだから。だからといって、胸を張って良かったなどと言えるわけは無いのである。
 それではなぜ、このコンテストに投稿しようと思い至ったのか。
 ただ荒らしたかっただけなのか?貧乏人の、キラキラしていない、後悔まみれの人間の僻みなのか?それもあるが、それだけじゃない。

 私は、私にしか持ちえない選択の答えを、この先の人生に持っている。

 散々間違えた。人よりも多く無駄な選択を行ってきた。二択はすべて外してきたと言っても過言ではない。あとから考えたら良かっただなんて到底思えもしないが、かといって、私の人生にとってまったく要らない経験だったかと言うと、そうではない。
 例えば、note。これも、一昔前まではなんだか凄そうな空間に見えて、手を出すのが億劫だった。しかし、やってみるとこれが案外楽しい。そのはじめの一歩を踏み出せたのは、失敗に失敗を重ねて怖いものがいよいよなくなろうとしているからである。
 このnote、少なくとも現時点で、私はやって良かった。と思っている。元より脳内多動気味で、意味の無い文章の羅列が右へ左へラリー状態だったところを、noteというほとんど無制限に字を連ねられる媒体では打ちっぱなしくらいの交通整理ができた。これは嘘偽りない進歩であって、恐らくこの先で、あの時やっといてよかったなぁ。と思う日が来るに違いない。
 恥だらけのこの生涯だったが、その全てはこの先で得る誉の布石なのだ。

 そういえば、私は生命保険に加入していない。子供も、パートナーもいないし、そもそもそんなに長生きする予定が今のところない。これも能動的選択と言えばそういうことになるのだろうが、言い訳はいくらでも作れる。未来を持てない社会が悪いだとか、精神を病んでいるからだとか、お金がないからだとか。
 能動的、という言葉はあまりに信用ならない。自分という人間は常々外的要素によって、その場しのぎで、思いつきで身を振るっているのだろう。自ら選んで良かったことの前に、自ら選んだことが思い浮かばないのはそのせいだ。能動とはあくまで結果論に過ぎず、あとから幾らでも無かったことにできてしまう。私が、それを選んでよかったなと思えた時、きっとそれらの選択は能動的にとったことになっているだろう。
 裏を返せば、自分で選んでよかった、と言えるように、今から行動していくことも可能なのだ。
 人生とは、基本的に空虚である。だからこそ、すべては自分のさじ加減だ。何かで大きくつまづいても、この法治国家では即死に至ることはそんなにない。五体満足でも、そうでなくとも、自分で考え、それを発信できる内は、自分の人生に自分で意味付けをできる。
 後悔のない選択をできるかどうか、それは、選択をしたあとの私にかかっている。

 多少無理やりだが、なかなか打ち切りエンドらしい仕上がりになった。筆をとってみた甲斐がある。なんでも、これは書けないな、と思うテーマでも、意外とやってみればそれなりに仕上がるものだ。

 やってみてよかった。これこそ、『#自分で選んでよかったこと』だろう。なんちゃって。

 本当は、noteでコンテストに投稿する初めての記事はこれにしようとして、書いている途中で用事が出来てしまい、下書きに保存していたところだった。
 そんな矢先に、一つ前の記事である、忘れられない旅というテーマを見つけて、楽しくなって書き進めていたらそちらが先に仕上がってしまった。
 二本連続でコンテスト投稿というのは、私にとってはあまり面白いことでもないのだが、それもまた始めたてらしい愛嬌ということで処理しようと思う。
 なにかの記事で、noteを毎日投稿したいくらいだ。と語った。その流れで行くと本日分がこれになってしまうのだが、書き始めたのは昨日のことだし、今日は今日で何かを書こうと思う。
 では、また夜に。良い一日を。

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