煩音問題、いまだ解決せず
一月四日
また私のなかの「黒い犬」が頭をもたげ歩き回ろうとしている。ウィンストン・チャーチルのばあいそれは重い抑鬱の兆候を指すものだったが、私にあっては抑鬱だけでなく強迫神経症も付いて来る。わけても隣人の生活音にいちいちドキドキしてしまい、とても不快な気分になる。いま気になってならない音はドアの開閉音。おそらく折戸タイプのクローゼットドアか、キッチンとリビングをつなぐ室内ドアだろう。原因を突き止めるべくあまり耳を澄ませ過ぎると余計に神経症が強くなるので、詳細に渡るこんな文章を書くこと自体をこんごは控えたほうがいかもしれない。
そもそもワンルームにドアなどいらないのだ。クローゼットの扉もいらない。玄関とベランダ側とトイレにだけあればいいんだよ。それだけで煩わしい開け閉め音の頻度は半減するだろう。
すべての生活音は個体伝播音と空気伝播音に分類されるが、耳栓やホワイトノイズによって防ぎにくいのは圧倒的に前者である。固体と固体とがぶつかる音は隣からだけではなく、上からも下からも斜めからもやってくるからね。
集合住宅で生活するいじょう隣人の生活音はある程度覚悟しなければならない。低家賃なら尚更だ。設計者やオーナーが低所得の入居者のイライラ低減のためにコストをかけてくれるとは思わない。それに専門的なことは分からないが、建物の強度上、壁やスラブの厚さには一定の上限だってあるだろう。
私はもう金輪際、集合住宅には住みたくない。これまで四つの集合住宅に住んできたが、やはりどこも住み良いところなどなかった(もちろん家賃をケチっているせいもあろうけれど)。部屋と部屋とが物質的につながっている以上、他人の生活音が耳に侵入してくるのは防ぎ難い。
いっぱんに誤解されているが、煩音問題は「人間関係」なんて生易しいことでは無くならない。よくいわれる「お互い様精神」がこちらにあったところで隣人にあるとは限らない。おうおうにして孤独で貧乏で教養に乏しい暮らしが長くなり過ぎると、「周囲」への感覚は「過敏」になる。内にこもるあまり対人感覚がグロテスクに歪んでしまう。ちょっとした生活音でさえもが「自分への攻撃」として感受されるようになってしまう。意識するとしないとにかかわらず、鬱屈レベルが高い状態にある人間は「怒り」の素材をそこらじゅうに見出しがちだ。こうした「かりそめの怒り」の表出によってこのどうしようもないどん詰まりの不快が限界点に達するのを回避しているのだ。ああ人は哀しい。
だから「共用廊下ですれ違えば挨拶する程度の人間関係」さえ最初から気付けないことも少なくない。騒音トラブルの対策を紹介しているネット記事のたいはんが「糞バイス」に終始しているのは、PV稼ぎにしか興味のないこれらのライターが最初から「まともな入居者」しか想定していなからだろう。
耳が痛くなるのであまり言いたくはないが、集合住宅の「民度」はおおむねその家賃に比例しているような気がする。もっとも、家賃が高くなればそのぶん防音効果が上がり「問題」が発生しにくいという見方も可能だから断定はしません。ただやはり、ごく大雑把にいって、最底辺の賃貸住宅というところは、「コミュニケーション能力」に乏しいせいで高給の仕事に就けない中年あるいは高齢者が集まりがちのところなのである。「人間関係資本」に乏しいせいでやぶれかぶれになっている人、孤独をごまかすため昼間から酒ばかり飲んでいる人、「吾輩の辞書に配慮という文字は無い」といわんばかりの人の割合が他に比べて高い。書いているうちにひどく暗然としてきた。
ともあれいま私が悩まされている煩音問題の原因はひとえに私の心的状態にある。たしかに隣に住む年金爺さんにデリカシーが欠けていることは確かだが、かといってこの爺さんが衆目の一致するところのDQNであるというわけではない。廊下で出会っても挨拶はするし、世間話だって何度かしている(しかもかなり長く)。
集合住宅トラブルの筆頭として挙げられる騒音問題のほとんど大部分は煩音問題なのであり、もしなにかしら具体的な対策を練ろうとするなら、その観点を忘れるべきではない。
このあと図書館で「初読み」してきます。
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