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すぐいなくなりそうな美少年転校生、トマトとアップルパイの終末論的接吻、

七月十七日

人間の利益とはそもそも何であるかを、正確無比に定義できる自信が、諸君にあるというのか? いや、それより、ひょっとして、人間の利益はある場合には、人間が自分に有利なことではなく、不利なことを望む点にこそありうるし、むしろそれが当然だということになったら、どうなるのだ?

ドストエフスキー『地下室の手記』(江川卓・訳 新潮社)

午後十二時十七分。アルフォートのリッチミルク三枚、紅茶。正午ぴったしに悪夢から覚めた。学校系のやつ。言うまでもなく学校系の悪夢は「チャイムが鳴っているのにまだ教室の外にいる」系の悪夢と、「教室で自分の座る席だけがない」系の悪夢に大別することが出来る。こんかいは後者。フロイト的夢解釈は後にしよう。とりあえずセナを見て心を落ち着かせろ。昨夜、腹筋運動とオナニーを済ませたあと、七月十五日の刈谷ハイウェイオアシスでのILLAYのライブ動画が新しく出ているのに気付き、心臓の高鳴りを必死に抑えながら見た。人は激しい恋をするとこういう紋切り型しか使えなくなる。セナもその二人の兄も黒のノースリーブ(!)を着ていた。セナの「半袖焼け」がこの上なくセクシーだったけど、なぜかふだん覆われているところのほうが焼けているように見えた。ふつう逆じゃないの。こういう謎なところも含めていい。美少年は神秘的でなくてはいけない。むかしバローの高尾店で俺の惚れた学生アルバイターは、最初見たときは極端な長髪だったのに、次見たときは極端な短髪になっていた。それに白髪の混じり具合がハンパではなく、どんな客にも満面の笑みを絶やさなかった。こんなのはどう考えても菩薩にしか出来ることではない。彼を前にして彼が菩薩の化身だと分からなかった人間の節穴はもうどうにもならない。俺からすれば鈍感罪は殺人罪よりも重い。彼はサノだったけど今回はセナか。sanoとsena。音的にも似ている。これは何かの暗示だろう。セナはサノの弟菩薩なのか。それにしても動いているセナをユーチューブで見るだけでもこれなのに生で彼の姿を見たらやはり失神するだろうな。そういえばグループサウンズなるものが「音楽シーン」を席巻していたころファンが失神したとかいう事件があった。その真偽はともかく、御本尊を眼の前にして失神もしないようではファンとは言えないとは言っておきたい。ILLAYのレパートリーはそう多くはないと思われる。ライブ動画では、「celeste」とか「wankara」とか、だいたいいつも聞いたことのある曲が演奏されているから。少ない持ちネタをとことん磨き上げた黒門町こと八代目桂文楽の流儀というわけか。来年のいまごろもセナはこの濁世にいるのだろうか。すぐにいなくなりそうな転校生にしか見えないのだけど。セナが地上からいなくなるとき俺も地上からいなくなるだろう。よく考えたら俺も人間ではないのだ。俺が人間の姿をしている菩薩に敏感に反応出来るのは、俺自身が菩薩になりかけているからなんだ。そうでも考えないと俺のこの明晰さを説明することが出来ない。

リンダ・ノックリン『絵画の政治学』(坂上桂子・訳 筑摩書房)を読む。
目から鱗の連続。美術史は作品の構図がどうだとか色彩がどうだとかいう観点で論じられることが多いが、ノックリンはそうしたフォーマリズムの方法の支配に強い疑念を示し続けた人だった。スーラを論じた第9章が一番愉快だった。エルンスト・ブロッホが彼の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を論じている文章を読んで、著者はこの作品を「反ユートピア」として受け止めるようになったという。「ああそういう観点はぜんぜん無かった」としか言えない。私はどんな絵画作品もごく素朴にしか見ていなかった。その「政治的文脈」を無視していた。その点で愚鈍だ。明晰なのか愚鈍なのか分からない。ドガの反ユダヤ主義について論じた章も刺激的。「趣味は印象派絵画の鑑賞です」なんて高尚ぶりたがるボンクラにこそ読ませたい一書。
上裸でいるとなぜかワキ毛の存在が気になるんだ。今夜剃ろうか。でもタンクトップを着た時にワキ毛がないと恥ずかしい。こういう「男らしさ」の記号に結構こだわりがあるから。誰もてめえのワキなんか見てない? その通り。さあ昼食だ。きのうアオキで買ったキャベツをオイスターと一緒に炒めます。メメント森永卓郎。世界は今日もカラッポだ。カラッポな奴らがカラッポな言葉を垂れ流している。

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