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生存に付きまとう本質的な心許なさ、

一月二八日

ダダは子供らしさに於いて
精蟲みたいだ
兎に角扇風機を持たしてみろ

『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社)

午前九時。トマトジュース割りのイオンウイスキーを飲みながら。
さしあたり抑鬱を、《「もう取り返しがつかない」という悪性の焦慮感と無力感に裏打ちされた持続的沈痛気分》と定義したい。さいきん頻りに「二〇二一年の三月中旬あたりに帰りたい」と思っている。荒井由実の歌みたい。月並みなことをあえて言いたい。過去はどうして「美しい」。当時さだまさしの「道化師のソネット」ばかりを再生させていたのを覚えている。きょうのように明け方散歩のあとに酒を飲みながら。そのころはたしか斉藤環と與那覇潤の共著『心を病んだらいけないの?』を読んでいた。ねんじゅう本を読んでいる俺のような人間にとっては「過去の記憶」はまずもって「本の記憶」である。そのころの俺はシェ・リビエールと名付けられた三階建ての建物に住んでいた。上階の子供の足音がうるさかった。でもその時期の俺の心は安楽的だった。なぜか。「もうやがて共同住宅を離れられる」という希望を抱いていたからだろうか。たまたま脳内の神経伝達物質の働きが良かったためとも考えられる。いずれにしてもそうした「帰りたい過去」があるだけでも私は恵まれている。抑鬱が晴れない。「今年のうちに死にたい」と何度も口ずさむ。誰もがほんとうは死にたがっているはずなのにどうして誰もそう言わないのか。お前ら無理して「元気なふり」しすぎなんだよ。きもいんだよ。まじで。ああ、人々がもっと苦痛に満ちた顔をしながら生きてくれたら。「この世の終わりのような顔」。私なら「この世の終わりに直面しているような顔」と書きたい。オッケーグーグル、餓死に至るステップをおしえて。オッケーグーグル、ラプソディー・イン・ブルーでも流してよ。心心心。この空虚な非実体。心臓に薔薇が咲いた場合の対処方法。小鳥よ、歌え。えめらるど・まうんてん。天使の睾丸を乾燥噴霧器に入れろ。幽明の境の上に脱糞。言葉がもう出てこない。もう私に語ることなんか、ない。死人に口なし。世界はもう、瓦解もしくは溶解するだろう。どこに避難しても、無駄だよ。ご存じの通り、もう手遅れなんだ。もう何もかも終わっている。人間は一人も存在しない。もう何もかもが終わっている。虚人の群れ。泣くな。自己憐憫に耽るな。それは生者にしか許されていない振る舞いだ。きょうもまた、哀れな男が坂を、転げ落ちている。だいいち空気が薄すぎる。死ぬのも不可能なら生きるのも不可能だ。誰一人として《世界》に歓迎されていない。そんなこと誰もが知っている。

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