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知の貧民窟、想像的破壊、実働部隊、

二月六日

自分の書くものは自分という一個の哀れむべき人間の単なる「呻吟」だと考えている。呼吸のある間は毎日の所作と同じくそれを繰りかえして終始するまでで、いずれは次第に枯れ細ってゆく虫の声と同様にきこえなくなってしまうのである。まったく果敢ないものだ。いや、世の中のありとあらゆる存在は悉く仮現で幻の如く夢の如く、すべてははかないものであるというのが何千万年以来の「真理」で、なんといおうがいたし方がないのである。しかし生きているあいだは中々諦めがつかない自分のような人間は死ぬまでは苦しみ悩んで生き続けるにきまっていると思っている。なぜ? だかわからない。しかし苦しみ悩んでいるのは自分ばかりではないのだ。この地上に存在している生物――特に人間の背負わされた「運命」なのだ――まったくつまらん籤をひき当てたものだ。いくら考えてみてもひき合わない!

辻潤『癡人の独語』「天狗になった頃の話」(オリオン出版社)

午前九時四三分。スープパスタ、緑茶。今日も布団のなかで二時間あまり過ごす。布団のなかがこれほど快適なのに人はなぜ布団の外に出たがるのだろうか。ほんらい人はその生涯を布団のなかで生きるべきだ。というか母体の外に出るべきではなかった。受精卵が子宮内へ到達したのが間違いだった。そもそも精子と卵子は結合すべきではなかった。意識など、感覚など、生物など存在するべきではなかった。物質、いやこの宇宙は存在するべきではなかった。「何かがある」ということがあらゆる厄介事の基本条件なのだとしたら「生の煩わしさ」はこれからも永劫に続くだろう。俺はもう覚悟している。フランス外人部隊(レジオン・エトランジェール)のドキュメンタリーをぜんぶ見終わった。もともとこの「傭兵」部隊は一八三一年にルイ・フィリップ(前年の七月革命で国王に即位)によって創設された。主としてフランス植民地における反乱を鎮圧するためとされている。自国民を出来るだけ死なせないために外国人を傭うなんて、さすがフランス、発想がえぐい。まあこのくらいの計算高さがないと植民地支配なんかできないよね。もっともこれはフランスに限ったことではない。傭兵の歴史についてはいずれ詳しく書きたい。このフランス外人部隊に在籍したことのある野田力の書いた本をずっと前に読んだ。「私には無理だ」というのが当時の読後第一の感想。幼稚ですまん。だいたい私は怒られたり怒鳴られたりするのが死ぬほど嫌いなんだ。二十代の前半に西欧料理店でのバイトを三日で辞めたのも「やや強い口調でねちねち説教された」のが原因だった。軍隊の厳しい訓練を耐え抜くにはある程度マゾ気質に恵まれている必要があるだろう。「すすんで自らを限界に追い込む自分」に私は「発情」できない。いや本当は「発情」しそうになることがある。だから余計に嫌なんだ。貧困なり戦争なりによって「自らを限界に追い込まざるを得ない人々」からすれば、「すすんで自らを限界に追い込みたがる人々」などずいぶん滑稽な存在に見えるだろう。「自己鍛錬」なんてものはろくなものではない。それは「鈍感」と「差別」の温床である。「男のなかの男」になどならなくてよろしい。そういうものに陶酔を覚えてしまう感性は、ジョージ・L・モッセのいう「市民的価値観(リスぺクタビリティ)」を強化的に再生産し続けるだけだろう。がいして自分に厳しくしたがる人間は他人にも厳しくなる。そういう人間が増えると、「嫌なことは嫌だ」という私のような人間の居場所が、どんどん狭くなる。
きのうは、結晶化した水蒸気が頭の上から落ちてくるなか、一三五〇円でカットしてくれる床屋QBハウスへ行ってきた。珍しく待たされなかった。今回は「四ミリの刈り上げ」と頼んだ。次回からずっとこれでいこう。後頭部がかなりひんやりする。「空気が頭にぴったりと貼りついているような」という三島由紀夫の『金閣寺』にある直喩をいま思い出した。
いまからご飯を炊いて、一時間ほど本を読んで、図書館に行くか。だるいし相変わらず抑鬱気味だが、図書館通いならなんとか続けられそう。本が俺に読まれるのを待っている。

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