INTJ 私の「ドアスラム」考
MBTI、なかでもINFJのあいだでとみに有名な「ドアスラム」。当人の許容量いっぱいに満ちた感情、思念という内的圧力がダムの決壊の如く抑え難い衝動となり顕在化する現象であり、結果的に周囲はおろか主体である当人の内面までも深刻なダメージを与えてしまう様態。INTJ自認の私は遠巻きに傍観をさせていただきながらINFJのドアスラムに関してそんな風に認識をしている。
INFJを例にとりもう少し書き進めるが、他者や周囲の環境にまつわるストレスを制御しきれなくなった外向感情(Fe)に対し、主機能の内向直観(Ni)+第三機能の内向思考(Ti)という強力内向タッグが強権的に作動し、負の衝動(Fe)を力づくで抑え込む。これがINFJの表層的な態度として現れる「対象の相手や周囲の環境に何の予兆も与えず静かに強制終了し今後一切の関係を断ち切る」という行為、ドアスラムの内部構造なのではないかと勝手に推測している。
いや、もしかするとINFJにとっての影の存在である内向感情(Fi)と外向感情(Fe)との激しい葛藤の末の結果がドアスラムなのかもしれない。INTJの私は、構築された関係を破綻させるほどの相反する感情エネルギーを持ち合わせていないためこればっかりは本当に憶測の域を出ない。
なお、私はドアスラムに諸手を挙げて賛同をする立場ではない。しかし、主機能Niと補助機能Feの組み合わせによるところの他者や外界に対する高い理想や賢明さ、誠実性というINFJに備えられた美点は、こうしてときにあだとなる表裏、危うさをも常に孕んでいると捉えている。しかし、これはもうINFJの避け難い一種の業なのであろうし、どのようなタイプ、いや個人においても皆こうした業を大なり小なり抱えている。つまりはそうゆうものであり、それ以上でもそれ以下でもないと思っている。
では、同じ主機能Niに補助機能TeをもつINTJのドアスラムとは果たしてどのような代物なのであろうか。一般的にあたるものでは無いがあくまで私の個人的な見解として「INTJのドアスラム」について考察をしてみる。INTJを主語にするがINTJ(私)ということでここはひとつ了承を願いたい。
INTJが他者や周囲の環境との関係の構築、継続を終了とするときは、大方、対象とのあいだに「未来が見えない」場合においてである。対人関係を例に述べると、INTJは誰かと相対するとき、Niによって目の前の相手の印象、言動からパターンを読み取り、相手の価値観やこれまで辿ったであろう過去、そしてその先の未来を想像もしくは脳内で視覚化したりその気配を感じ取っている。
この時点でINTJの脳内に両者が存在する未来像が立ち現れてこないとそれ以上の関係を進めることはなく相手と距離をやおら取り始めるだろう。この見切りの早さは補助機能Teによる判断の迅速さから来るのだろうか。結論を言えばINTJはドアスラムまで行き着かない。いわば「ドアス…」でシャッターを下ろすため相手からすれば、とっつきにくくよそよそしい人、だけど無害だからまあいいか、という評価で終わり「ドアスラム感」を持たせないのだと思う。INFJのようにFeが総じて高く無いため、関係を留保しつつ相手の良さを見つけよう、関係構築のために自分が努力をしなければ、という意欲におよそ乏しいのである。
また、これは他者から「薄情」「冷たい」と言われる点でもあるがこれまでの付き合いを終了することにあまり抵抗感が無い。そもそも、人はライフステージの変化、社会上の役割や立場の変化によりお互いの価値観や考え方が変化し会話や趣味が合わなくなることは致し方の無いことだと考えている。それを我慢して繕うことは相手に対し失礼なのでは、不遜な態度なのではなどと思ってしまうのである。
また、INTJは未来志向というか先のことに気を取られているため過去の思い出にいつまでも浸ることは無い。体内の細胞は数か月で全て入れ替わると言われるくらいだから過去の自分はもはや今日の自分では無いのだ。このような観念から学生時代の友人関係を惰性で継続することを志向しない。おそらく学生時代の友人も「連絡が途切れたけど最初からそんなヤツだったし。」という反応であろうし、つまりは禍根を残さない程度の間柄に過ぎなかった、ただそれだけのことである。
一方で、他者や外界における「この先感」「未来の関係性」がNiによって不覚にもINTJに見えてしまった場合、ドアスラムは一体どうなってしまうのだろうか…。
答えは明快。「ドアスラム…してたまるか、ぜってーさせねー」となり、これが結構に困りモノなのである。要は自分の見た直観を成就させるため、自分を変え、相手を変え、周囲の環境をも変えさせてまでも達成に励みだす。そこまでして自分の直観を正当化させたいのである。INTJのNi+Teによる戦略性、目標達成思考というのも聞こえは良いが、言い方が悪いが化けの皮を剥がすと「自分の直観は常に正しい」という信念であり、それを実現するための傲慢さは間違いなく周囲に漏れていると思って良い。私の場合に限ってだが。
なのでINTJとの永続的な関係構築を望む際は、「私がいるあなたの未来」をINTJのNiに想起させることが出来さえすればあとは結構オートマチックにコトは運ぶと思う、多分。(Niを想起させることが一筋縄では行かないのだろうが…)
私は過去、不覚にもNiによって複数の「幻影」を見させられてしまったがばっかりにそのあと引き返すことも出来ず「こうなったらもう行くとこまで行ったるわー。」と突き進んだ。結果、かなしいかな、気が付けば袋小路に追い詰められ汲々する状況へと自らを陥れている。
そんな私からすると「ドアスラムしちゃっても別にいいんじゃない?」と思うところもかなりある。INFJやINTJがシャッター下ろすのはそれなりの合理的理由があるような気もするし、何を選択しようとその結果から生じる責任を引き受けるのは自分だし。反対に「ドアスラムしてたまるか」の選択も心身を一度は壊すリスクを否定できないし、私のようにどん詰まりにはまる可能性も高く正直あまりお勧めは出来ない。けれど最終的にそのすべてを引き受けるのもまた自分である。どんな結果であれ「自分が選択した」という事実が何よりも代え難い価値なのであり、ドアスラムこそ「自分が決定した感」を満喫するには何より打ってつけの代物であろう、とぼんやり思った次第である。
というわけで最後は情けない身の上話になってしまったがINTJ(私)のドアスラムについて上記のように考察をしてみた。
以上、駄文のところお目通しをいただきどうも有難うございました。
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