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映画 「箱男」 見てきた

その昔、安部公房の小説「箱男」を挫折した私がリベンジを果たすべく映画「箱男」を鑑賞した。思ったことをちょこっと書こうと思う。あらすじは書かないが内容に少し触れるところがあるのでそこはどうぞ悪しからず。                            

ちなみに、シアターに集う客は私を含め7名。貸し切り感満載であった。        

感想その①                                     
映画を見ても内容はやっぱり難解。モノローグ?妄想?現実?これらが交錯して今のはどっち?とわからない場面があった。これは私の読解力不足によるところであるが原作同様、そのあたりを故意にぼかしたり、色々差し込んでいるのだと思われる。これは、自己同一性に対する疑問を呈しているのであろうか。「私とは何者か」そのような問いを全編にわたり語りかけているのかもしれない。

感想その②                                 
登場人物の男性3人(永瀬正敏、佐藤浩市、浅野忠信)の箱に入ることへのの偏執、街でたった一人の箱男になることへの並々ならぬ執念、椅子取りゲームならぬ箱取りゲーム(いやゲームではなく命を懸けた真剣勝負)の決死の様相。それを看護師の女性(白本彩奈)が半分好奇心、半分呆れ気味に付き合っている。箱の解釈だが作品が示唆するものとは異なるが、私には箱が段々母の胎内のように見えてきた。男性、女性の描き方が子供と母親の関係性のように捉えられたこと、そして箱に入ることへの異様なまでの執着と憧憬は、出産と同時に母子分離を余儀なくされた人の幼児ならぬ胎児退行のように見えてしまった。箱=胎内の絶対的安全基地から外界を傍観者(強者)として覗き見たい、という幼児願望が潜んでいることの顕れのように感じた。そのような視点で捉えると、物語のクライマックスで主役の箱男(永瀬正敏)は看護師の女性に箱から出ることを促される。それは箱の中から社会に出ることであり、全てを守られた胎内環境から出てくること、出産、分娩の暗喩のように見え、それは人における根源的なテーマを訴えかけているように思えてくる。                                

感想③                                  
②では箱を母子分離、胎児退行の象徴と書いたけど、映画の主題としては、都市化により埋没する個人、埋没することで獲得できる都市生活者の免責事項、それが社会の災厄として将来もたらしかねないこと、そういった社会や時代に対する警笛のような意味合いがあるのかなと感じた。エンドロールで流れるキャスト、エキストラ、制作関係者の名前が全員の自筆であったことは匿名社会における個人の存在の意味を問うているものかと思った。               

以上、当時の私にリベンジを果たすため映画「箱男」を鑑賞したのだが、まさかの答えが、母子分離、胎児退行、誕生の物語であったとは思いも寄らなかった。いやこれも全て、作品のなかの男女の描き方が私に母子幻想を想起させたのであって私がそんな願望を抱いているという訳では無いはず。と思いつつも一方では、これらがリンクしたということは私の深層心理のなかにもそのような願望が渦巻いていると思ったほうが賢明だろう、と考える自分もいる。確かにこれは20歳そこそこのあまちゃんでは辿り着けない境地であり、そう思うとなかなかに感慨深い。                     

映画「箱男」はやっぱり映画であっても奥が深過ぎ、難解過ぎな作品だった。しかし個人的には自らの経験的成長の過程と内面の成熟を知ることのできた作品でもあった。過去に触れた作品と私のあいだには新たな出会いという形で再会できる巡り合わせが用意されている。そんな小さな喜びを得た9月の週末であった。

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