旅行記と偏屈日記 二冊

・曇りの天候なので低気圧で頭痛の一つや二つでも起きるかなと身構えたが、存外そんな時に限ってすこぶる健全である。頭は比較的すっきりしている。

・昨日借りた本をさくっと読了してしまった。「0メートルの旅」、岡田悠さんのエッセイだ。noteでかなりの人気作家なのを読了後に知った。自分はオモコロから関連書籍を読んでいるのだが、そもそものオモコロがバズリ集団なので、興味ある書籍は必然的にミーハー丸出しになる。

・自己発掘めいたコンテンツはほぼない。基本的にはそこそこ人口に膾炙したものに手を出す。それが私だ。

時折、自分の今まで消化し切ったコンテンツを列挙するときがある。列挙してつくづく「普通だ・・・」と感じる。

ミーハーであり、衆愚の一人であることをしっかりと自覚する。

そもそも、消費するコンテンツで個性を出そうとしてる時点で怠惰な姿勢だとは思う。

かと言って、何か大きな行動を起こすこともない。どーしょーもないくらいに、普通。

同じく借りていた哲学者中島義道の「狂人三歩手前」もその日のうちに読了し返却した。

いつ読んでも中島義道はめんどくさい。組織が嫌いで、日本の管理放送が嫌いで、善人も嫌う。そして実生活にその「嫌い」が相対した時、しっかりと怒り自身の不快を発露する。

彼は自身を「感性のマイノリティー」と言った、人から優しさを受ける事を不快に思い、日本特有の対立を避けようとする善良な市民性を嫌い、紋切型の言葉で交わされる「大人な」コミュニケーションにも反抗する。他の大多数から見れば「屈折した」彼の内情を外界に放出し、それによって軋轢や衝突が起こる事に全くと言って良いほど物怖じしない。

きっと「優しい人」が中島氏と出会ったら、さぞ「優しい人」は彼を不快に思うのだろう。それくらいに私が、いや私たちが共有している「なんとなくの平和」「なんとなくの正義」に彼は反抗し続けている。

読んでいると、氏の強烈な言葉に当てられて、ついぞその思想を内面化しようと試みてしまうが、そんな怠惰な読者に対しても中島氏はぴしゃりと突っぱねる。

「私は私の本が好きだという人が嫌いだ」

件の書籍にはそんなことが書かれてた。どうやっても歩み寄ることは許されていない。それはそれで、まあ健全な事だろうと思う。私にとってもありがたい。実際私は氏の感受性とは真逆の「マジョリティ」だ。



旅の経験から日常に小さな改革を施す優しくも興味深い「0メートルの旅」と

その感受性から生きている中で衝突と格闘が付き纏う人のエッセイである「狂人三歩手前」

どこか両極にも見える二冊の本を一日で読んで返却した。

だが不思議と消化不良は起こさなかった。むしろどちらもしっかり情報として蓄積されている。

返却のついでにまた新しく本を借りた。

本の名前は「ギレルモ・デル・トロ創作ノート」

今度もちゃんと消化できるといいのだが。

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