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恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 泉編』2

泉編 2章 シレール

まあ、いつかは来るはずの時だ。それにしても、あんなに慌てて逃げなくてもいいような気がするが。

床に落ちている箱を取り上げ、蓋を開いてみたら、手作りらしいケーキが入っている。レモンクリームを塗った表面には、蜂蜜浸けに見える薄切りのレモンが敷き詰められていた。わたしが教えたレシピの通りだ。

デコレーションは少し崩れてしまったが、食べるのに支障はない。ダイナが作ってくれたものなら、大事に食べよう。

「わたしの靴、どこかしら」

素足のまま、ハイヒールの片方を持ったいずみが、バスローブ姿で現れた。昨夜、ここのソファでもつれ合った後、わたしが抱えて寝室へ連れていったので、靴がばらばらに落ちることになったのだ。

「あら、それはなに?」

わたしは箱をテーブルに置いた。冷静な声が出せるといいが。

「ケーキだ。後で食べよう。いま、取り落としてしまって、少し形が崩れたが」

「あら、珍しい。あなたが取り落とすなんて……」

泉は疑わず微笑んで、近くの床から靴の片方を取り上げた。

「支度してくるわ」

と言って、自分の寝室に消える。

この屋敷には既に、彼女専用の部屋があった。衣装も靴も宝石も、山ほど揃えてある。ほとんど、わたしが贈ったものだ。一族の女性が愛顧する店であつらえた、四季おりおりのドレス。宝石類。真珠に翡翠、ピンクの珊瑚、サファイア、ルビー、エメラルド。

端麗な黒髪の美女に相応しい、選び抜いた品々ばかり。

欲しいものは自分で買えるようになった娘だが、昔、サマラに教わった心得だ。女は、自分がどれだけ大切にされているか、贈り物で判断すると。

それで泉がいい気分になれるのなら、贈り物を積むなど容易いことだ。

わたしは厨房へ向かい、アンドロイド侍女に指図して、遅い朝食を作らせた。

ダイナは、戻ってくるだろうか。それとも、このまま逃げ去るだろうか。わたしのことを、女遊びにうつつを抜かす、だらしない男と思っただろうか。昔の厳格さは、ただの体裁だったのかと。

わたしだって、自分から望んで、こういうことになったわけではない。わたしに近付いてきたのは、泉の方だ。

もっとも、彼女の正体を知ってからも、彼女を遠ざけなかったのは、わたしの選択だが。

***

泉と差し向かいで、朝食を済ませた。森と湖を見渡せる、明るい食堂だ。入り江の一つを独占しているので、他の建物が視野に入ることはない。許可のない者が、近くに入り込むこともない。

湖面は昼の光を受けて、穏やかに輝いている。本格的な寒さが訪れる前の、穏やかな秋の日だ。

「ケーキを切りましょうか」

少し崩れたケーキにナイフを入れながら、泉は一瞬、動きを止めた。しばし考えてから、わたしを見る。

「もしかしたら……ダイナが来たの?」

勘のいい娘だ。いつかこういう日が来ることも、わかっていただろう。

ただ、自分がどんな顔をしてダイナに向き合うかは、まだ決めかねているようだった。

「わたしに顔を見せる前に、逃げていった。たぶん、女性の存在に気付いて、動転したのだろう」

わたしが説明すると、泉の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。

「そうだったの」

しかしそこには、怨念や敵意はなかった。負の感情は、既に浄化されたのだと思う。わたしと過ごした、穏やかな時間のうちに。

わたしもまた、この娘に癒された。意識してダイナから離れることは、わたしにとっても、かなり辛いことだったから。

自分から転属を希望して、《ティルス》からこの《サラスヴァティ》に来たのだが、さすがに都市管理の仕事だけでは、自分をごまかしきれない。

職務から離れた時間は、本を読んでも音楽を聴いても、何かが足りない気持ちにまとわりつかれる。元気な足音、無邪気な笑い声。ダイナが小さい頃は、どんなに楽しい日々だったか。

秘書として働くダイナのことが気にかかり、幾度もマダム・ヴェーラに連絡を取ろうとしては、思い止まることの繰り返し。自立しようとしている娘を、わざわざ引き戻すような真似をしてはならない。

心に、大きな隙間があったのだ。

そこへ、泉がやってきた。最初は、取引のある中堅組織の使者として。

わたしの感傷かもしれないが、この子はどこか、サマラに似ている気がする。それも、わたしを教え導くようになる以前の、まだ完成されていない頃のサマラだ。

この複雑な世界と、どう折り合っていけばいいのかよくわからず、体当たりで試行錯誤していた若い娘の頃。その頃のサマラはきっと、背伸びして大人の男と付き合い、彼らから、貪るように何かを吸収していたのではないか。

順送りに、次の世代が同じことを繰り返す。今はわたしが、若い娘を教え導く役回りだ。サマラが見たら、きっと笑うだろう。

(シレール、あなたも大人になったものねえ)

黒髪の娘は、わたしとの間でも、所属組織における通り名の〝桜〟を使っていた。だが、わたしは彼女の本当の名前を知っている。

牧田まきたいずみ

かれこれ七、八年前、市民社会の女学校を舞台に、ダイナと死闘を演じた娘だ。

泉は、ダイナが悪党狩りのハンター〝リリス〟の縁者だと知らされ、誘拐して人質に取ろうとした。少女を操ったグリフィンにとっては、失敗しても損はない、たくさんの試みのうちの一つにすぎない。

市民社会の英雄である〝リリス〟を捕えたり、殺したりできれば、市民たちの受ける打撃はいかほどか。

結果、泉は重傷を負って記憶を失い、それでも犯罪者としての刑を受け、ある植民惑星の山奥にある隔離施設に収容された。更正の可能性が高い犯罪者、もしくは心に傷を負った犯罪被害者など、特殊な患者だけを入れる施設だ。

そこからどうやって脱出したのか、正確にはわからない。おそらくは、グリフィンの采配だろう。〝連合〟の懸賞金制度を統括する、謎めいた人物だ。特定の個人ではなく、地位を示す称号かもしれない。

実際に辺境から手を伸ばして泉の脱走を助けた人物は、グリフィンの部下の誰かだろうが、後にバイオロイドの偽者を残し、発覚を防ぐ周到な細工を施した。司法局がいつか囚人のすり替えに気付いても、ここまで泉を追跡してくることはできないだろう。

泉は辺境の一角で顔をいくらか整形し、声や指紋・網膜紋なども微妙に変え、桜という新しい名を与えられ、中規模組織の新人として舞台に上がった。

そこから数年で、彼女はぐんぐん昇進し、下級幹部の地位を手に入れた。その昇進速度から見ると、失った記憶の一部は取り戻したらしい。たぶん、ダイナに負けたという屈辱の記憶も。

そして、泉はこの《サラスヴァティ》へやってきた。艶やかな黒髪を鋭角なボブカットにし、深紅のスーツに身を包み、真珠とルビーを光らせ、艶然と微笑んで。

「わたし、この街は初めてで、勝手がわかりませんの。よろしければ、食事をするのに良い店を教えていただけません?」

彼女がわたしに近付いてきた理由の半分は、おそらく、グリフィンの命令だ。わたしは多分、〝リリス〟の協力者としてマークされている。いくら偽装工作をしても、〝リリス〟の活動は長く続きすぎたのだ。

〝リリス〟が辺境のどこで、どのような援助を受けているか、グリフィンは既に突き止めているだろう。使用した武器や艦隊の特徴を分析すれば、追跡はできる。

ただ、辺境に根を張るわが一族と、真正面からぶつかることは避けて、偵察しつつ、付け入る隙を狙っているのではないか。

だが、泉を行動に駆り立てる他の理由も、じきにわかった。この娘は、ダイナに対する執着を持っている。羨望、反感、嫉妬、何かそのようなもの。

想像はできる。学生時代の泉の目に、屈託のない天才肌のダイナは、耐えられないほど、まぶしく輝いて見えたのだろう。

泉はダイナにたどり着く手掛かりとして、わたしに張り付くことにしたのだ。

わたしは知らん振りして、彼女の誘いに応じた。わたしの目の届く範囲に置いておく方が、ダイナのためにもなると考えて。

だが、交際が始まると、わたしは泉を痛々しく感じるようになった。この子もまた、漂流者なのだ。それが、たまたま、わたしのいる浜に流れ着いた。

ならば、ここに居て何の不都合がある。わたしもまた、世話をする誰かが欲しかったのだから。

***

《ティルス》で暮らすダイナの様子は、総帥夫妻から聞けた。賢くて強い娘だから、心配はない。予想通り、秘書の仕事もすぐに覚えた。いずれは、新たな総帥になる娘だ。それで当然。

生きて、元気なら、それでいい。

少なくとも、ダイナが〝リリス〟の一員になるより、ずっとよかった。重犯罪者を狩るハンターなど、命が幾つあっても足りない仕事だ。そんなことは、軍や司法局という組織に任せておけばいい。

ダイナの戦闘方面の師匠である紅泉こうせんが、

『あんたは、別の道を探しなさい。小悪党狩りは、あたしと探春たんしゅんだけで沢山だから』

と宣告してくれて、助かった。一般市民を食い物にする重犯罪者など、後から後から湧いて出るのだから、放っておけばいいのだ。どうせそのほとんどは、もっと狡猾な犯罪者に食われ、淘汰されていく。

そもそも、繁栄する違法都市を経営している我々こそ、最も成功している犯罪者ではないのか?

市民社会の禁じた肉体強化や遺伝子操作を、我々はもう何百年も行っているではないか?

それが悪いとは、わたしは思っていない。科学の恩恵を受けること自体は、当然の権利だ。

ただ、それが他の誰かに犠牲を強いることなら、それにはいくらかの躊躇を感じる。それが、我々が〝リリス〟を援助する理由だ。

正義は、人の数だけある。

紅泉たちの〝正義〟が我々の生存を脅かさない限り、我々も彼女たちの〝正義〟を認める。

だが、いつかダイナが、一族の総帥を引き受ける時代が来たら?

ダイナの正義は、一族を守るだろうか。それとも、市民社会の理想を重んじて、違法組織を淘汰する方向を望むだろうか。自分の育った組織でさえも。

***

ダイナの教育係を卒業したわたしは、《サラスヴァティ》の管理仕事で大半の時間を過ごしている。

別に、心躍る仕事ではない。

都市内にオフィスや店舗や工場を持ちたがる中小組織を選別する。繁華街を見て回り、悪質すぎる商売を止めさせる。組織同士の対立が、治安の悪化を招かないよう調停する。土地やビルの賃貸料、つまり上納金をきちんと取り立てる。都市の管制宙域に出入りする艦船の監視をする……

ほとんどは、神経を使う対外業務だ。上の世代の負担を軽くするためにも、第四世代の最年長者であるわたしが引き受けるしかない。

何しろ、同じ第四世代のシヴァは家出したきりだし、紅泉と探春は市民社会に入り浸りである。第二世代の筆頭である総帥、マダム・ヴェーラは、紅泉たちのことは既にあきらめている。

「あの子たちは、何年経っても、違法都市の経営などする気はないわ。わたしだって、いつまでもこんな重荷に耐えていられないから、いずれ、ダイナに仕事を継いでもらいます」

ダイナ自身はまだ知らないことだが、それが一族の総意になっていた。

不老の一族といえど、世代交替は必要だからだ。肉体が若くても、心は老いる。飽きる。疲れる。古い考えから、なかなか抜けられない。

そして、ダイナが新たな総帥となる時、わたしにその補佐を任せるというのが、年長者たちの心積もりだった。

「シレール、あなたなら生涯、立派にあの子の補佐を務めてくれるでしょう」

ダイナ本人が、それを認めてくれればの話だが。

現在、マダム・ヴェーラやマダム・ヴァネッサの補佐を、それぞれの夫がしているのと同じこと。わが一族は、麗香れいか大姉上以来、代々、女性主導なのである。

過剰に好戦的になったり、つまらない見栄や沽券にこだわったりする男より、緻密で冷静な女性の方が指導者に向く。いざという時の度胸も、女性の方に分がある。

それならば、わたしが《サラスヴァティ》の中核業務を経験しておくことは、将来、ダイナの役に立つだろう。そう思えばこそ、ややこしい仕事に立ち向かう気力も、少しは湧く。

そもそも、第三世代の中核がこの世界を嫌い、銀河系外移民団を率いて出ていって以来、一族は慢性的に人手不足なのである。

わたしの恋人だったサマラも第三世代だが、彼女は他組織との抗争で死んでしまった。長い年月の間には、他にも何人もの欠員が生じている。だが、新たな誕生には、最長老が制限をかけている。

やたら人数を増やすと、一族の分裂・弱体化につながるというのだ。

我々としては、そのうちまた、最長老が新しい子供を〝創って〟くれるのを待つしかない。

一族の新しいメンバーは、麗香大姉上が自分の研究室で〝創り出す〟のである。非常に凝り性な人なので、納得がいく強化体を生み出すのに何年、何十年もかかるのだ。

もちろん、かつては一族内でも普通の妊娠・出産が行われていたのだが、遺伝子操作による肉体強化が進むにつれ、自然妊娠は〝困難〟もしくは〝無謀な賭け〟になってしまった。

一族内の仕事はトラブルが少ないので(都市に付属する小惑星工場の運営や、都市内のインフラ整備、生態系の管理など)、第二世代と第三世代の年長者たちが(つまり、他組織との戦いに倦んだ者たちが)引き受けてくれている。

一族の者はそれぞれに遺伝子操作を受けて誕生する上、最新の不老処置を繰り返しているので、肉体的には強壮な者ばかりだが、精神的な疲労は蓄積していく。希望を持つことに倦み、安定を好み、新たな冒険をしなくなる。

伴侶を失った記憶、大きな失敗をした記憶、友人に裏切られた記憶。

そういう疲労の沈殿を防ぐには、定期的に記憶を抹消する他ないだろうが、それを望む者はあまりいない。喜びと悲しみは表裏一体なので、悲しみだけ消すわけにはいかないのだ。

わたしもまた、中央の市民たちから見れば老人の部類に入る年齢だが、これでも、一族の中では若手なのである。責任の重圧は、わたしが引き受けていくしかない。

だが、ダイナと長く離れているつもりではなかった。

精々、十年。

そうすれば、育ての親としてのわたしの記憶は、ダイナの中で薄れていくはずだ。わたしはいずれ、一人の男として、新たにダイナの前に立てるだろう。その前に、あの子が他の誰かに惚れ込んでいなければ。

泉は、わたしが予期していなかった因子だった。自分がまさか、こんな風に情を移してしまうとは。

   泉編3に続く

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