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恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 泉編』6

泉編6 7章 ダイナ


滅茶苦茶、車で走り回った。湖岸を走り、森の中の林道を走り、繁華街を通り抜け、川沿いを走り、野原を突っ切り、何時間も走り回った。

気がついたら、水も飲まず、食事もせず、夜中になっている。

さすがに疲れてしまい、森の外れの空き地に車を停め、積んである非常食に手を伸ばした。がつがつと食べて、水を飲み、外に出て深呼吸をする。冬の夜気を吸って、少し頭が冷えた。

みっともない。馬鹿みたい。思春期の男の子みたいな、荒っぽい運転をして。身内の経営する都市だから、あたしがどこにいても、常に都市の管理システムに守られるけれど、そうでなかったら、どんなトラブルを招いているか。

そこは、真っ暗な湖に面した空き地で、背後は深い森林だった。兄さまの屋敷がある湖とは、別の湖だ。遠い対岸に明かりが幾つか見えるけれど、こんな時間に林道を走る物好きはいない。

何やってるんだろう、あたし。

理屈ではわかる。泉はようやく落ち着き所を得たのだから、喜んであげなくては、と。

でも、それがなぜ、シレール兄さまの所なの。他の誰かの元であれば、心から祝福できるのに。

泉の背後に誰がいるにせよ、泉自身が兄さまを好きになったことは間違いない。兄さまを害することなんか、しないだろう。たとえ、グリフィンにどう命じられても。

兄さまもまた、泉を大事にしているのだろう。でなければ、ああして自分の屋敷に出入りさせるはずがない。サマラおばさまを失ってから、ずっと独り身を通していた兄さまなのだから、これは喜ぶべきことだ。紅泉こうせん姉さまなら、きっと言う。よかったね、と。

なのに、あたしときたら、何も言えずに逃げてきてしまった。兄さまが後から知って、呆れているわ。ダイナは、まだそんなに幼稚なのか、と。

あたし、兄さまを失望させてばかり。

ハンターになりたいと言って、修業のためにリーレンの護衛役を引き受けたのに、あんな結果だったし。ヴェーラお祖母さまの秘書役だって、結局、馘にされてしまったわけだし。

これから、どこへ行って、何をすればいいのだろう。もう、指図してくれる人もいない。子供の頃なら、ああしろこうしろと、常に誰かが教えてくれたのに。

わかっている。もう大人なのだから、自分で決めなければならないと。それができなければ、甘ったれの〝末っ子〟のまま。いつか妹か弟が生まれたとしても、何も教えてあげられない。

その場で空に足を蹴り上げ、突きを繰り返し、躰が火照るまで動いた。それで少し、楽になった。

ぐちぐち悩んでいても、煮詰まってしまうだけ。紅泉姉さまなら、

『動いてから後悔すればいい』

と言うところだ。車に戻り、しばらく眠ろうと思った。小型トレーラーの内部には、最低限の生活設備がある。センタービルに泊まる必要はない。

ところが、林道の向こうから、車がやってきた。この距離まで管理システムが警告してくれなかったということは、不審者ではないということだ。

「ダイナ、こちらへ来なさい」

通話システムから流れてきた声は、シレール兄さまに間違いない。あたしは車内で固まってしまった。叱られるに違いない。話を途中にして逃げ出すとは、何という礼儀知らずかと。前にも、ケーキの箱を落として逃げ帰ってしまったわけだし。

でも、ここでまた逃げたら、もっと叱られる。

というより、あたし、いつまで、兄さまに怯えていないといけないの?

子供の頃は、叱られても、お説教されても、仕方なかった。でも、今は一応、社会人としての経験を積んでいるのに。

紅泉姉さまなら、誰が相手だって、平然として能天気を通す。それは、自分の信念にも、行動にも、自信を持っているからだ。

ああ、あたしも豪傑になりたい。少なくとも、一人前の女性として、きちんと対応したい。

あたしは車を降りて、枯れ葉の積もった砂利道をざくざく歩き、闇の中でライトを灯している兄さまの車に近付いた。移動オフィスになる中型のトレーラーなので、側面の扉から中に入れる。黒髪を短く整えた兄さまが、見慣れた濃紺のスーツ姿で立っていた。

「久しぶりだな」

冷静なこの声。じかに聞くのは、何年ぶりなのだろう。

あたしが黙っていると、冷淡な顔のまま、

「何か挨拶はないのか」

と言う。急に、胸に怒りが湧いた。兄さまこそ、あたしに泉のことを報告するべきではないか。大きな変化があったのは、兄さまの方なのだから。

「おめでとう」

泥団子を投げつけるように、言ってしまった。

「素敵な恋人ができて、さぞ楽しいでしょう」

兄さまは少し沈黙したけれど、表情は変えないまま、

「そこに座りなさい」

と作り付けのソファを示す。あたしが座ると、車は動き出した。あたしの車も、追従してくるようだ。兄さまはテーブルをはさんで、斜め横に座る。

「泉は、おまえのことを覚えているわけではない。グリフィンの手配で市民社会から脱出したわけだが、おまえのことは、後から記録で教えられただけだ。だから、実際のおまえがどういう人格で、泉とどう触れ合っていたのか、よくわかっていない」

「そうなの。だから?」

泉はあたしに、殺しに来たのか、と尋ねた。あたしは、泉の中では、敵に分類されているのだ。たぶん、最初からそうだった。あたしはただ、女学校のみんなと仲良くしたかっただけなのに。

物見遊山同然の、ボディガード志願。その能天気が、泉の心を傷つけたのだ。

不老の一族、英雄である〝リリス〟の身内――それがどれほど恵まれたことなのか、人から妬まれ、憎まれることなのか、あたしはきっと本当には、まだわかっていないのかも。

「泉は上から〝リリス〟関係者のスパイを命じられて、わたしに接近してきたわけだが、辺境での緊張の日々に疲れていた。わたしもまた、おまえが巣立ってから、寂しい毎日だった。お互い、心に隙間があったわけだ。だから……こういうことになった」

他人事みたいに言う。その〝こういうこと〟が、あたしを打ちのめしたのに。

だいたい、寂しいって何よ? 兄さまが?

そんなはず、ないでしょう。

「泉には、優しいんだ。あたしには、ずっと冷たかったのに」

怒りを隠せず言ってしまったら、兄さまは、わずかに苦い顔をした気がする。

「わたしが突き放さなければ、おまえは独り立ちできなかっただろう」

そうなの? それって、親心?

とても、素直に感謝できる気分ではない。あたしはずっと、兄さまに拒絶されていた。

「おかげさまで、お祖母さまに鍛えられました。秘書の仕事も、できるようになりました。最近は失敗続きで、お暇を出されてしまったけど。またこれから、どこかへ行って、修行してきます」

といっても、行くあてはない。紅泉姉さまたちに頼るのも、違うだろうし。

こうなると、あたしはつくづく、〝したいこと〟のない人間なのだと思う。子供の頃はハンターに憧れていたけれど、それはもう、醒めてしまった。あたしには、紅泉姉さまのような無限の情熱がない。

だって、小悪党を退治したところで、根本的な解決にはならないんだもの。辺境の違法組織がすなわち、邪悪の根源というわけでもないのだし。

悪というものは、市民社会にもある。苦しんでいる人たちに対する無関心、それが最大の悪だろう。

でも、凡人に何ができる?

あたしだって、いま、辺境の改革のために何かしているかと問われたら、答えられない。姉さまたちを援護するという意欲も、どこかへ消えてしまっている。今はただ、兄さまに怒りをぶつけたいだけ。

「何の修行だ? おまえが安全でいられるのは、一族の都市にいる時だけだ。その外をふらついて、無事でいられると思うのか」

わかってる。

「じゃあ、市民社会に行きます」

もう、売り言葉に買い言葉。

「司法局を頼るのなら、仕事をさせられるぞ。そのざまで、護衛や追跡の任務が務まるのか。紅泉には性格的な問題があるが、それでも仕事には真剣だ。おまえには、それだけの使命感はないだろう」

うう。

「本気で市民社会に根を下ろすつもりなら、それなりの覚悟が必要だろう。ただ縁故に甘えて遊びに行くつもりなら、向こうにとっても迷惑だ」

ああ、また。いつものパターンだ。兄さまには、あたしが幼稚に見えて仕方ないのだろう。あたしもまた、自分が途方もなく甘ったれの役立たずだと感じてしまう。

お祖母さまの元で働いていた時は、少なくとも紫のハイヒールを見るまでは、それなりに役立っていたはずなのに。

「もう関係ないでしょう!!」

あたしは立ち上がって、自棄のように叫んでいた。

「もう兄さまの元から巣立ったんだから、お説教なんかされたくない!!  自分で決めて、自分で責任とるから、放っておいて!!」

違う。あたし、お説教されて、半分はほっとしているのに。

兄さまがあたしのことを心配していなかったら、こうやって追いかけてきてくれるはず、ない。あたしはまだ、気にかけてもらっている。泉に対する気持ちの、十分の一くらいでも。

「ダイナ」

兄さまが、難しい顔のまま、あたしに手を差し伸べてきた。

「戻ってきても、構わない」

え。

何ですって。

「おまえはもう成人したのだから、確かに自由だ。しかし、元通り、わたしと一緒に暮らして悪いことはない」

あたしは虚を突かれた。

そんなこと、できるの。していいの。兄さまは、あたしの世話係から解放されて、ほっとしているのだとばかり思っていた。

「あたしがいたら、邪魔でしょう? だって……」

泉にとっては、邪魔に決まっている。でも兄さまは、あたしの心配を取り除いてくれた。

「泉は普段、自分の組織で仕事をしている。わたしに会いに来るのは、月に一度か二度くらいのものだ。おまえは別に、泉と顔を突き合わせる必要はない」

そうなの、本当に? シレール兄さまは、あたしが毎日、身近にいても構わないの?

はっと気付いた時は、兄さまの手に手首を掴まれている。温かくて、器用な指を持つ、大きな手。

じかに触れられるなんて、何年ぶりのことだろう。小さな頃は、毎朝、髪を梳かしてもらったり、膝の上で絵本を読んでもらったり、していたというのに。

触れている場所から体熱が伝わってきて、燃えるように熱く感じる。あたしは声も出ず、身動きがとれない。兄さまは手を離さないまま、少しあたしに近寄って座り直す。

「ここにいるのなら、おまえにできる仕事を探そう。マダム・ヴェーラには、許可を取る。《ティルス》以外の姉妹都市で働くのも、いい経験だろう」

あたしが呆然としていると、兄さまは苦笑した。

「せっかく来たのだから、少しは落ち着きなさい。明日、ヴァネッサ叔母上たちと相談して、おまえの仕事を決めるとしよう」

***

奇妙なことになった。あたしは《サラスヴァティ》でも、総督秘書の役目を仰せつかってしまったのだ。

仕事自体は、すぐに慣れた。《ティルス》で鍛えられていたから、それと同じことをすればいいだけ。総督であるヴァネッサ叔母さまに指図を受けて走り回り、任務を果たしていく。忙しいことは忙しいけれど、合間に息を抜くことはできる。他の秘書たちとランチに出掛けたり、繁華街を歩いたり。

変わったことは、センタービルではなく、湖岸にある兄さまの屋敷で寝泊まりするようになったこと。兄さまも、毎日そこから仕事に出掛け、そこに戻ってくる。だから、朝晩は大抵、兄さまと顔を合わせることになる。

あたしが食堂で食べ始める時間に兄さまが出掛けていったり、逆に、兄さまが起きてきた頃にあたしが出掛けたり。それでも、

「おはよう」

「行ってきます」

という挨拶はできる。夕食は大抵、一緒になる。

たまに、泉が兄さまに会いに来ると聞いた時だけ、あたしがセンタービルに泊まるようにすれば、顔を合わせることはなくて済む。

奇妙に安定した日々が、しばらく続いた。

毎晩、兄さまとあたしはアンドロイド侍女に給仕され、同じテーブルの両端で料理に向かう。ぽつぽつと、都市であった事件や、新しい店、他組織の動向などを話題にする。それから、おやすみと言って、それぞれの部屋に引き上げる。

これなら、同居人というだけのことだ。少なくとも、あまり親密な家族ではない。

それでも、毎日、顔を見られるのは嬉しい。夜の間も、兄さまが同じ屋根の下にいると思えるのは、幸せなことだ。

なのに、何だか引っかかるものがある。そわそわして、心が落ち着かない。

何だろう。何が不満なのか。

たぶん、兄さまとの距離が、中途半端に開いたままだからだ。兄さまは余計なことを言わないし、あたしも聞かない。あたしより、泉と一緒にいる方が嬉しいんでしょ、本当は泉をここに置きたいんでしょ、なんていうことは。

結局、あたしが兄さまと泉の間に居座って、邪魔をしているだけではないの?

だから兄さまも、どこかに気を取られているような、他に大事な用を残しているような態度でいるのではないか。

***

粉雪がちらつく夕方、あたしは外から帰ってきて、暖炉のある居間に入った。あたしも兄さまも本物の炎が好きなので、冬の間、暖炉ではよく薪を燃やす。

仕事の資料を見ながらココアを飲んでいるうち、兄さまも帰宅してきた。一緒に食事できると思って食堂に行ったら、兄さまがテーブルに大きな紙の箱を置いている。

「ダイナ、おまえにお土産だ」

「あ、ありがとう」

でも、なぜ今日? まだ誕生日でもないし、何かの記念日でもないと思うのに。

箱の大きさと軽さからして、中身は開ける前にわかった。ドレスだ。しかも、広げてみたら、パールホワイトのロングドレス。デコルテを大きく出すデザインで、薄い半透明の裾が幾重にも重なって、ふわりと広がっている。まるで、雪の精みたい。

これなら、合わせるのは真珠かダイヤ、それに白かベージュのハイヒール。すぐにでも着てみたいけれど、これを着て、行くような先がない。

市民社会ではよく職場のパーティや、地域のお祭りがあるけれど、辺境には『誰もが参加できる楽しい集まり』というものがない。

ビルの落成式だの研究所のお披露目だのは仕事がらみだし、他組織との会合は、常に厳しい緊張を伴うものだ。楽しく出席できるのは、精々、一族内での季節の行事や、誰かの誕生日程度のもの。

「あの、誰か、おじさまかおばさまの誕生日だったかしら?」

あたしがあやふやに尋ねると、兄さまは言う。

「いいや。たまたま新人デザイナーの腕試しで、おまえのサイズのドレスを作らせてみただけだ」

あ、そう。そういうこと。

でも、経緯はどうあれ、新しいドレスは嬉しい。仕事用のスーツばかりでは、飽きてしまう。

「着てみてくれるか」

と言われた時も、デザイナーのセンスが確かか、確認したいのだと思った。でも、

「これを一緒に」

と差し出された小箱には、あたしが思い描いた通りの宝石と靴が入っていた。ダイヤと真珠の、白いジュエリーだ。さすが、兄さまは抜かりがない。

「じゃあ、待ってて。すぐ着替えてくる」

「急がなくていい。わたしも着替える。それから、食事にしよう」

急に、ただの夕食が、正式な晩餐会になった。身支度をして上階から降りてくると、食堂には銀の燭台で長い蝋燭が灯され、複雑な光と影の模様を織り成している。暗い窓には幾つもの明かりが映って、宮殿の一室にいるみたい。低く、穏やかなクラシック音楽も流されている。

兄さまも、黒の正装で現れた。泉が見たら、きっとうっとりするだろう。そもそも兄さまは、すらりとした背丈の、際立った美形なのだ。ただ、憂鬱そうな表情の時が多いだけ。

兄さまは手を差し出してきて、あたしの左右の手を軽く握ると、真正面からあたしを見下ろす。

「ちょうどいいな。わたしのイメージ通りだ。次のドレスも彼に作らせよう」

ほうらね、これも仕事の一部なのよ。あたしがどきどきする必要はない。兄さまにとっては、あたしはドレスの台なのだから。

「男性デザイナーなの?」

「そうだ。男に女物を作らせると、夢のあるデザインになる」

夢なんて。いつも現実的な兄さまが、珍しい言葉を使う。でも、女性のデザイナーだと、自分が着たいものを作ることが多いから、確かに、もっとシンプルで実用的になってしまうかも。

真っ白なふわふわドレスを汚さないよう、慎重に椅子に座った。シャンパンで乾杯し、アンドロイド侍女の運んでくる前菜を食べる。

話題は中央の政治家のこと、ヒットした映画のこと、兄さまが昔読んだ小説のこと。それも、あたしに何かを教え込むのではなく、ただ、穏やかな時間に相応しい話題だからという感じ。

これまではずっと〝教師と生徒〟だったから、いまようやく〝大人同士〟の会話になっているのかもしれない。

そういえば、《ティルス》の屋敷では、夕食は正装というのが決まりだった。でも、紅泉姉さまたちがずっと留守で、他の親族も仕事で欠けることが多かったから、あたしは内心で、

(普段着で構わないのに、面倒くさい)

と思っていたものだ。子供のあたしが着るのは大抵、白い襟のついた地味色のワンピースだったし、当時は食欲優先だったから。

でも、こうしてドレス姿で席に着いていると、たまにはいいか、と思えてくる。だって、気軽に出掛ける先のない違法都市では、こうやって自宅で優雅な時間を作らないと、永遠にドレスの出番がない。兄さまも、礼装が似合って素敵だし。

デザートが済むと、兄さまが静かに立ち上がった。もうお開きなのかと思ったら、

「せっかくだから、踊ろう」

と手を差し伸べられたので、びっくりする。

兄さまの合図で、音楽もワルツに変わった。食堂の隣には広い客間があり、そこの家具は既に邪魔にならない配置になっている。これも、兄さまの命じたこと?

音楽に乗ると、躰は勝手に動いた。兄さまのリードは、あたしの記憶にあるよりソフトだ。

子供時代に兄さまと踊った時は、あくまでもダンスの稽古であり、貴婦人に必要な教養という位置付けだった。あたしは細かく注意されながら、必死でリードについていったものだ。

あの頃は、毎日、新しいことを教えられ、懸命に駆け足していたようなもの。兄さまの要求水準はかなり高かったので、後で女学校に通った時は授業が楽に感じられ、改めて感謝したものだったけど。

でも、今日のダンスは堅苦しくなく、ただ、楽しい時間を少し引き延ばすためのものだった。

それなのに、背中に軽く置かれた手が気になる。兄さまに淑女みたいに扱われるなんて、逆に気恥ずかしくて、それを隠すため、ぺらぺらと軽薄にしゃべってしまう。

「あのね、このドレス、宝石も、とってもすてき。ありがとう。デザイナーの腕試しであたしがこんなに得しちゃって、いいのかしら。あ、今度、紳士服のデザイナーと関わることがあったら、兄さまのスーツを注文するわね。たまには、濃紺とグレイ以外の色もどうかしら。薄紫とか青も、きっと似合うわよ」

すると、あたしと踊りながら、兄さまはふっと微笑んだ気配。

「男の服は型が決まっているから、新調しても、あまり面白くない。それより、明日のダンスも予約したい。明日はまた、違うドレスを贈るから」

あたしは唖然として、足が止まりそう。心臓まで、どきどき激しく打ち出した。まるで、プレイボーイの口説き文句みたいじゃない?

そうしたら、兄さまは足を止めて身をかがめ、あたしの額にそっとキスをした。

「今夜は楽しかった。お姫さまを独占できて」

どうやって飛び退り、二階に駆け上がり、自分の部屋のドアをばたんと閉ざしたのか、よく覚えていない。淑女にあるまじき、品位に欠ける退場だったのは間違いない。

兄さま、いったい、どうしちゃったの。おやすみのキスなんて、はるか昔に終わった習慣なのに。

ううん、あたしの方が変。

あたしは耳まで熱くなり、頭に血が昇って破裂しそうだった。懸命にこらえていないと、壁に体当たりして悲鳴をあげてしまいそう。

お姫さまって言ったわよね。兄さまが、泉にならともかく、あたしにあんなことを言うなんて。

だいたい、ドレスや宝石を贈ってくれるのも変。新人の腕試しなら、自分の秘書のドレスでも命じればいいんじゃないの?

どうしていいかわからず、ドレス姿でうろうろと歩き回っては、自分の頭をぽかぽか叩いた。

自分が度を失っているのがわかる。これじゃあ、まるで……

いつかミカエルに言われたことが、頭に甦った。ダイナさんが、シレールさんと結婚すればいいんですよ……

まさか。そんな。兄さまには、泉がいるのに。

なのに、心臓がどくどくいって、収まらない。あたし、爆発しそう。

兄さまにキスされた瞬間、悲鳴を上げてしまいそうだった。あたしの全身が、それを喜んで溶けてしまいそうだったから。

***

翌日は、仕事が終わる頃(細かいミスは幾つかしたけれど、大事には至らなかった)、兄さまからの使いのアンドロイド兵が来た。

『この服を着て、使いに付いて来るように』

届けられたのは、深い赤のロングドレスと、それに合わせたハイヒールで、金のイヤリングとネックレスも箱に入っていた。胸元に金色のレースが使ってあるので、赤毛のあたしが着ても、それなりに似合う。誰にデザインさせようが、兄さまの趣味が反映されているのだ。

身支度して、同じセンタービル内にあるホテル区域に行くと、広い続き部屋で兄さまが待っていた。やはり、正装だ。

「赤も似合うな」

と言われたので、あたしは自分の戸惑いを隠すため、文句をつけた。

「子供の頃は、地味な服ばっかり着せたくせに!! しかも赤毛の子には、赤やピンクは似合わないって言ってたじゃない!!」

でも、兄さまは悠然たるもの。

「子供のうちは、物事が制限されていた方がいい。その方が、早く大人になろうと思って頑張れるだろう」

うう。やはり勝てない。

でも、華麗な赤いドレスだと、気分も浮き立ってしまい、それ以上の文句はつけられなかった。あちこちの鏡に映る自分を見ただけで、わくわくする。今夜のあたし、けっこう綺麗なんじゃない?

案内されたテーブルに着いて、白ワインを使ったカクテルで乾杯した。

「ひょっとして、兄さま、退屈してるの? だから、こうやって……」

デートごっこみたいなことを。

でも、その言葉が口から出ない。デートと言ってしまったら、とても気まずい気がする。

「長く生きていると、生活に飽きることがある。そういう時は、いつもと違うことをして、気分を変えるんだ」

そんな、老人みたいなことを。

「兄さまは、まだ若いでしょ」

少なくとも、一族の中では若手に分類されている。だから、色々な仕事を譲られているのだ。

「百年も生きていれば、外見はどうであれ、もう老人だ。老人の楽しみは、若い子が元気にしているのを見ることだ。わたしにそのくらいの娯楽を与えてくれても、いいだろう?」

どういうんだろう。本当に、あたしを見て〝大きくなったな〟と感慨にふけっているのかしら。

「そんな辛気臭いこと、言わないで。兄さまらしくないわ。まさか、泉にもそんなこと言ってるんじゃ……」

思わず口からこぼれた台詞に、自分でストップをかけた。これまで、泉のことは、極力、口にしないできたのだ。考えたくない。兄さまが、泉と二人きりの時、どんな表情をして、どんな言葉を口にするのかは。

でも、兄さまは澄ました顔だ。

「泉にとって、わたしは保護者のようなものだ。あの子は他で気を張っているから、わたしと一緒の時だけ、安心して甘えられるのだろう」

あの泉が、兄さまに甘えるですって。それを想像したら、こっちが赤くなってしまう。

聖カタリナ女学院にいた頃、泉は文武両道の秀才で、みんなの憧れだった。いわば、学院の王子さまだったのだ。でも、わずか十七か十八の少女だったことも間違いない。泉は、自分の弱さを他人に見せまいと努力して、背伸びして、疲れきっていたのかもしれない。だから、辺境からの誘惑に負けてしまった……

急に気がついた。

もし、兄さまも、厳格なふりをし続けて疲れているなら、それはどこで癒されるの?

兄さまがあたしに求めているのは、そういうこと? あたしに、可愛い妹になれと望んでいるの?

***

それからしばらく、贈られたドレスを着て、シレール兄さまと向かい合い、正餐を楽しむ日が続いた。

昼間のビジネススーツを脱いで、女らしいドレスをまとい、美味しい料理とお酒を味わうことは、一日の終わりには、ちょうどいい気晴らしだとわかった。

あたしが美しいドレスを着ることが、兄さまの目を楽しませているなら、それは嬉しい。いまだ優雅な美女とは言えないにしても、少しは大人になったと自分で思えるし。

お互いに、頭を痛めるような難しい話はしない。中小組織同士の争いの調停とか、研究施設に紛れていたスパイの処分とか。そんなものは、明日になれば、また押し寄せてくるのだから。

貴重な夜の時間の、ほんの二時間か三時間、世界の果てにいるかのように、他のことを全て忘れて、二人でいられることを祝福する。

毎晩、別世界へ小旅行しているかのよう。

部屋には新しい花が飾られ、違う音楽が流される。兄さまと何曲かダンスすることも、最後におやすみのキスを受けることも、毎晩のことになれば、それなりに慣れてくる。

それでも、兄さまに引き寄せられる時の嬉しさは格別だった。背中を支えてくれる手の温かさ、額に受ける慎重なキスの感触は、こそばゆくて癖になる。

もっと長く一緒にいたい気もするけれど、そうしたら際限がない。また明日の晩、こうして向かい合えるのだから。

あたしはようやく《サラスヴァティ》に碇を下ろしたようで、安心していた。兄さまとも、以前とは少し違う形で、また親密になれたと思うし。

あたしが子供だった頃は、兄さまも、厳格な教師でいるしかなかったのだ。一族の役に立てるよう、能力を育てなければならなかったのだから。でも、あたしが自立できるようになれば、もうがみがみ叱る必要もない。

穏やかに話していられるのなら、心地よい時間が過ごせる。古典文学の話、地球時代の神話の話。話題の映画や、新しいインテリアの流行。兄さまの寸評は的確で、こちらも勉強になる。泉も、だから、兄さまと一緒にいたいんだろうな。

あたしがほとんど毎日、仕事以外の兄さまの時間を奪っているのは、泉にしてみたら不公平かも。

いいえ、かも、じゃない。不公平そのものだ。

本当は泉に、今の組織から抜けて、こっちに来るように言うべきでは?

別組織への移籍は、上手く話をつければ、可能なことだ。兄さまなら、遺恨が残らないよう、泉を引き抜くことができるはず。それが不可能なら、罠を仕掛けて、向こうの組織を潰すことだってできるだろう。よほど強力な組織でない限りは。

でも、その提案は、あたしの口からは出なかった。このままでいたい。もう少しだけ。

いいでしょう、そのくらい? だって泉はもう何年も、兄さまの優しさを一身に味わってきたのだもの。

   泉編7に続く

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