恋愛SF小説『レディランサー アグライア編』1
アグライア編1 1章 ユージン
朝、目を覚ますと、それが管理システムによって秘書室に伝えられ、控え室にいたバイオロイド侍女たちがやってくる。わたしの身支度の手伝い、部屋の片付け、食事の世話。
そんなものは自分でできる……と思っても、彼女たちの存在理由を奪うわけにはいかない。
だから、人数だけを減らした。余分な人員は組織の他部署に回し、事務的な仕事をさせているので、今、わたしの私室に出入りする侍女は二人しかいない。違法組織のボスとしては、きわめて質素な私生活だ。
「おはようございます、ユージンさま」
「ああ、おはよう」
秘書室を通ってオフィスに入ると、秘書たちが、夜間のうちに入った連絡事項を告げてくれる。
それらを片付けた頃、通話があった。デスクの正面の通話画面に《キュクロプス》の一つ目巨人マークが現れたので、姿勢を正して待つ。ほどなく、向こうの秘書が現れた。
「ユージンさま、ただいま、お時間をいただいてよろしいでしょうか」
「ああ、大丈夫だ」
〝連合〟の最高幹部の呼び出しならば、最優先である。どちらも標準時で活動しているので、生活時間が一致している。朝一番の用件は、きっと重大なことだ。
すぐに、白いドレスの美女が画面に現れた。
「おはよう、ユージン」
綿菓子のようなふわふわのプラチナブロンド、ぬめるような白い肌、眠たげな灰色の瞳。
桜色の耳たぶには、きらきら輝くイヤリング。
マシュマロのようなぽってりグラマーで、ひらひらのドレスと赤い口紅を好み、見る者に砂糖菓子のような甘い印象を与えるが、内実は剛胆かつ周到な切れ者だった。実年齢は、おそらく二百歳を超えている。
「おはようございます、メリュジーヌさま」
その名前にしてからが、地球時代の伝説の妖女だ。無法の辺境に君臨する、最高権力者の一人である。
「今日は、あなたに頼みがあって」
にこやかに言われたが、それは事実上、命令である。
「先日の幹部会で、あなたを派遣しようということになったの。いま、急ぎの用事は抱えていないでしょ」
「もちろん、どこへでも行きますよ」
わたしの組織は弱小だ。それが他組織に潰されずにいるのは、こうして最高幹部会じきじきの命令を受ける立場だから。
その任務を無事に果たし続けている限り、数々の特権を保証される。
世間では、わたしのような者を〝最高幹部会の代理人〟と呼ぶ。いわば、辺境の全権大使だ。
いや、〝何でも屋〟の方が正確かもしれない。スパイ行為や破壊工作、誘拐、暗殺、要求されたことは何でもする。楽しい任務はあまりないが、断る自由はない。わたしには、わたしの部下たちを守る責任がある。
「では、ジュン・ヤザキを、わたしの元へ連れてきてちょうだい。あなたに、出迎えと世話役を頼みます」
予期していなかった名前なので、驚いた。
「あの、ジュン・ヤザキですか……」
辺境航路の英雄として知られる、ショウ・ダグラス・ヤザキ船長の一人娘。
母親は、違法組織から脱出した実験体だ。
むろん、母親の卵子から生まれたわけではなく、普通人に提供された卵子と、父親の精子からできた子供である。市民社会は、辺境から亡命してきた実験体や強化体の〝繁殖〟を認めない。
そのジュン・ヤザキは、惑星連邦で最も若い船乗りとして、一部では前から知られていたが、最近、誘拐された父親を違法組織から奪回したことで話題になり、新しいスターになった。本人が船の同僚と共に誘拐され、辺境から生還したこともある。
強運だけではなく、本人の度胸と行動力もあるのだろう、と思っていた。確か、やっと十七か十八の小娘だ。ニュース映像では、既に見慣れている。短い黒髪で黒い目の、気の強そうな少女だ。ファンクラブも盛況らしい。
「それは、彼女が〝リスト入り〟したからですか? 暗殺する代わりに、拉致せよと?」
辺境を支配する違法組織の〝連合〟が、市民社会の要人たち数十名を抹殺対象と決め、懸賞金リストに載せてから、もう何十年経つだろうか。
グリフィンと呼ばれる謎の人物が統括する組織が、懸賞金制度を運営している。それが男か女か、つまり特定の人物なのか、それとも役職名に過ぎないのか、わたしも知らない。
グリフィンもまた、最高幹部会の代理人と言えるだろう。わたしなどより、はるかに強大な権力を持つ代理人だが。
一番安い賞金額とはいえ、十代の子供がリスト入りするだけで、前例のない事件だった。
ジュン・ヤザキ本人は、十五歳の時に義務教育課程を修了して市民権を取得しているというから、もう大人だと言い張るだろうが。
政治家であれ財界人であれ、学者であれ軍人であれ、市民社会の中核の一人と認められた人物しか、このリストには載せられないはずだった。
いったん選ばれれば、それ以降、賞金目当ての暗殺者に付け狙われることになるのだから、当人には迷惑きまわりないが、それは同時に、大きな名誉でもある。
〝悪の帝国〟に真正面から敵視されるということは、その人物の偉大さの証明だからだ。
だからこそ、若いジュン・ヤザキがリスト入りしたことは、世間を驚かせた。父親が懸賞金リストに載る英雄であることとは無関係に……いや、そのせいで数々の事件に巻き込まれたわけだが……とにかく彼女自身が、新たな大物と認定されたのだ。
「彼女を害するつもりではないの。その逆よ。〝連合〟に招待するという意味だから」
と画面のメリュジーヌは微笑んで言う。この場合、招待とは誘拐だ。
「それは、父親に対する人質という意味ですか?」
何人もの馬鹿者が、懸賞金につられてヤザキ船長を殺そうと試み、ことごとく失敗している。
「いいえ、違うわ。わたしたちが欲しいのは、過去の英雄ではなく、これからの英雄なの」
「それでは……」
急な思いつきなどではないのだ。何年も前から、最高幹部会ではジュン・ヤザキの成長を見守り、将来スカウトするために、陰から身の安全を計ってきたのではないか!?
それならば、少女が繰り返し危地から逃れたことの説明がつく……七割か八割は本人の実力でも、あとの数割は……
「ええ、ジュン・ヤザキをうちに入れるわ。幹部待遇でね。他組織でも欲しがったのだけれど、今回はわたしが優先交渉権を得たの。そのつもりで迎えてちょうだい」
それにしても、十年後ならともかく、今、まだ子供から抜けきっていない娘に対して、そこまでするとは。
「ずいぶん、大胆な抜擢ですね。正義感の強い娘だと聞いていますが、脅して働かせるわけですか?」
女の恐ろしさは、男と違う発想をするところにある。六大組織から二名ずつ、合計十二名が集まる最高幹部会メンバーのうち、女はこのメリュジーヌともう一人、リュクスしかいないが、彼女たちは他の十名からも畏怖されているらしい。
「いいえ、脅しではなく、納得ずくで働いてもらうの。あなたには今後、長いこと、ジュン・ヤザキの側近を務めてもらうかもしれない……」
これはどうやら、本腰を入れてかかる仕事のようだ。
「わかりました。接触の方法は、わたしに一任ですか?」
「いいえ、計画を用意してあります。それと、ジュンに関する詳しい資料を送るわ。世間に知られていないことも、幾つかあるのでね」
報道された活躍以外に、彼らがジュンを認めた〝何か〟があったらしい。もしかして、殺しを気にしない性格だとか? あるいは、権力欲が強いとか?
辺境に新たな魔女が増えるだけなら、うすら寒い思いがする。
「力ずくの拉致でないのなら……こちらから、ジュン・ヤザキに提示できる条件は?」
「彼女が〝連合〟の一員になってくれるなら、父親を懸賞金リストから外します。ジュン本人には、わが《キュクロプス》の幹部待遇と、最新の不老処置を約束します」
なるほど。父親が命を狙われなくなるなら、ファザコン娘としては、考えるかもしれない。父親の命を守るために武道や射撃を習い、見習いとして輸送船《エオス》に乗り込んだという孝行娘だ。
実験体の母親を早くに亡くした後、彼女には、もう父しかいない。父親の親族とは、戦闘用実験体との結婚を反対されて以来、絶縁状態だという。
「まあ、彼女がうちの幹部になれば、それだけで、父親の命を狙う愚か者は、いなくなるでしょうけどね」
「しかし、彼女は、正義の側の〝新星〟になるものと思っていました」
元々、最高幹部会は、ヤザキ船長や〝リリス〟その他の有名人たちが憎くて、懸賞金リストに載せているのではない。
一種の『スター・システム』なのだ。
市民社会の大物たちをグリフィンの暗殺リストに載せることによって、辺境を支配する〝連合〟が、彼らの偉大さを認め、畏怖しているという証拠になる。
ハンターの〝リリス〟しかり。
クローデル司法局長しかり。
尊敬を集める硬派の軍人たちや、理想主義の学者たちもそうだ。
リスト入りすれば、懸賞金目当てのチンピラのために、余計な危険を招くことは確かだが、市民たちの尊敬は増す。警護も手厚くなる。世間に対する発言力も強くなる。
彼らを中核として、市民社会がまとまることが肝要なのだ。健全な市民社会が存続してこそ、新しい人材が生まれ育つ。
そして、その中でも最優秀の人材を勧誘し、違法組織に取り込める。
辺境の人間たちは、不老処置で長生きするのが普通だが、だからこそ、繰り返し清新な人材を入れていかなければ、組織が硬直化する。あるいは弛緩する。それが、最高幹部会の考え方だ。
悪党狩りのハンター〝リリス〟が長く戦い続けていられるのも、グリフィンの側が、密かに手加減したり、庇護したりしているためかもしれない。それはわたしも、メリュジーヌに尋ねて確かめたことはないが。
わたしは彼女の配下の一人に過ぎない。不要になれば、いつでも切り捨てられる存在だ。
「ええ、新星には違いないわ。ただ、わたしたちの新星として売り出すの。そうしたら彼女の元に、まともな人材を集めやすくなるでしょう。既存の組織を信用しない者たちでも、ヤザキ船長の娘なら注目するわ」
「なるほど、人寄せパンダというわけですね」
だが、本当にそれだけことなのか? ただそれだけのために、大組織の幹部の座を用意して、小娘を出迎える?
悪くはないが、どれだけ本気で売り出すつもりなのか……そこにどれだけ、わたしの裁量が発揮できるのだ? それともわたしは、いずれ、彼女の抹殺まで背負わされるのか?
***
メリュジーヌとの通話を終えると、送られてきた資料に目を通した。ジュン本人は軍や司法局に警護されている身だから、誘拐の手段を講じなくてはならない。その方策が、既に出来上がっているようだ。
それでは、彼女を拉致してメリュジーヌの元へ送る途中で、説得を試みることになる。市民社会を捨て、残りの人生を、辺境の違法組織で過ごせと。
人間がバイオロイドを培養して奴隷にし、人間同士で殺し合っている世界。
人体改造や人為的進化の研究が続けられ、生体実験が繰り返され、様々な怪物が生み出されている世界。
まだ若い娘を、こんな世界へ引き込むのは、確かに残酷だ。しかし、それは彼女の能力が招いた運命。
いったん引き込まれてしまえば、慣れてしまう。わたしのように。
リゼル。マリシア。
妻と娘から引き離され、もう十五年。条件は単純だった。わたしが最高幹部会に尽くしていれば、妻と娘は無事でいられる。
四歳だったマリシアは、もう一人前の娘になってしまった。わたしの顔など、写真でしか知らないだろう。女手一人で娘を育てたリゼルも、数年前から、恋人を持つようになっている。わたしは単に、行方不明になった、元夫。
もう、わたしに帰る場所はない。
わたし自身が既に、辺境に染まってしまっている。できることは、精々、自分の組織内のバイオロイドたちを守ってやることくらいだ。
ジュン・ヤザキはどうだろう。彼女がこの世界で地位を得たら、弱い者たちを守ってくれるだろうか。そのために、他組織と戦ってくれるだろうか。
だが、やりすぎると最高幹部会に睨まれる。
〝連合〟を存続させつつ、辺境の邪悪を減らすことなど、できるのか。
甘い期待はするまい。父親の七光に守られてきた娘だ。権力を与えられたら有頂天になって、変質してしまうかもしれない。司法局員だったわたしでさえ、もはや、殺人や誘拐にためらいは持たないのだから。
アグライア編1 2章 カティ
「ふええん」
どこかで、子供の泣き声がした。わたしはつい、あたりを見回してしまう。誰か、助けを求めている子供がいるの。
「お兄ちゃんのばかあ」
「何だよ、泣くなよ。返すよ、ほら」
噴水の横で、幼い兄妹が喧嘩していた。どうやら兄が、幼い妹のぬいぐるみを取り上げたらしい。それでも妹は、戻されたぬいぐるみを抱えたまま、じたばた転がって泣いている。いったん泣きだしたら、勢いがつくのだろう。
「あらあら、ちゃんと見ててって言ったでしょう」
若い母親が用事から戻ってきて、娘を抱き上げる。
「さ、帰るわよ。いつまでも泣かないの」
「だって、お兄ちゃんがねえ」
「謝っただろ。いじめてないよ」
微笑ましく言い合いしながら遠ざかる親子を、わたしは、うすら寒い思いで見送っていた。幸せな光景を見ると、自分の神経がささくれ、ひきつるのがわかる。きっと、夜叉の顔になっている。
妬ましい。
彼らに不幸が降ってきますように、と願ってしまう。
そんなことを願ったら、自分がますます惨めになるだけなのに。
――わたしだって、いい母親になるわ。妊娠させてくれる人がいたら。
ずっと、そう思い続けてきた。
でも、いない。世界の半分は男性なのに、わたしが愛せる人はいない。
今度の誕生日で、三十五歳。
もう、若い女とはいえない。すぐに四十になってしまう。その先は更年期。砂時計の砂が、みるまに落ちていく。
このまま一人で老いていくなんて、何の罰なの!?
祖父母も両親も兄夫婦も、わたしが心の病気だと思っている。だから、腫れ物に触るように扱い、昔のことは口にしない。アンヌ・マリーの持ち物は、みんなどこかに片付けてしまった。
わたしもまた、滅多に郷里には帰らない。家族や親戚に優しく気を遣われていると、感謝するより先に、苛々してしまう。
招待されて、友達の家を訪ねるのも辛い。みんな、当たり前に結婚して、家庭を築いているのに、わたしだけ、何をしているの!?
努力はした。お見合いもしたし、パーティにも出た。紹介された人とは、必ずデートした。
でも、だめ。他の男性に触られると、我慢できない。震えが走ってしまう。
わたしは、アレンでないと。
忘れろと言われても、少女時代を丸々、なかったことにはできない。双子の妹の存在は、鏡を見る度に蘇る。
アンヌ・マリー。
一卵性の双子でありながら、性格はわたしと正反対。
わたしは静かに読書や手芸をしているのが好きだったのに、あの子はいつも活発で積極的で、トラブルの元だった。
少女時代を通して、ことごとく張り合われ、意地悪をされ、わたしは疲れ果てた。大学に入って、別の学部に通うようになると、やっと妹と距離を取ることができて、ほっとした。
でも、まさか、あの子がアレンをさらっていくなんて。
ああ、わかっている。それは、アレンの選択。わたしの魅力が足りなかった。ただ、それだけのこと。
わたしより、あの子の方が、アレンには大切な存在になってしまったのよ。
***
灰色の夕暮れ時、歩き疲れて、公園のベンチに座った。風が吹くと、ブーツの足下に、赤や黄色の落ち葉が吹き寄せられる。
することのない休日は長い。買い物も虚しい。これ以上、服や宝石を買ったところで、誰に見せるの?
仕事の方がましだわ。少なくとも、仕事の時は、他人に笑顔を見せられる。
そのまま、あたりが暗くなるまで座っていた。コートを着ていても、晩秋の風は冷たい。葉を落とした梢の向こうに、明かりを灯したビル群が浮かぶ。
あそこでは、家族連れや恋人たちが、笑いさざめいている。わたしはこのまま、一人で老いていくだけ。アレンのことを忘れない限り、先へ進めない。いつまでもぐるぐる、同じ場所を回り続ける。
――だったらもう、いっそ、市民社会を捨ててもいいじゃないの。それで、アレンの赤ちゃんが手に入るなら。
アレンだって、わたしにそのくらいの哀れみをかけてくれても、いいはずだわ。
あなたが郷里の病院に残した冷凍精子、いくらわたしが願っても、使わせてもらえないのよ。くだらない法律の壁のせいで。妻や婚約者ではないから、アレン自身の許可がないからって。辺境に出ていって行方不明の人から、どうやって許可を取り付けろというの?
一週間前、初めて密かな接触があった時は、驚いた。辺境の違法組織はどうやって、不幸な者を探し当てるのだろう。
彼らはわたしに、アレンの精子をくれると約束した。わたしが、ジュン・ヤザキを誘拐することに手を貸せば。
反射的に拒絶したのは恐怖のためで、それからずっと、ぐずぐず迷い続けている。司法局に相談することもせず。
アンヌ・マリーなら、迷わない。欲しいものは、どんな手を使ってでも奪い取る。わたしはいい子ぶってばかりで、自分を汚すことができなくて、だから、こういうことになっている。
あの時、たとえ狂言自殺をしてでも、アレンを引き止めればよかったのに。
アグライア編1 3章 アレン
その通話が来た時、ぼくはオフィスで書類仕事をしていた。小組織とはいえ、人員が百名を超すと、それなりに雑務が溜まる。
「やあ、失礼……きみがアレン・ジェンセンか」
それまで風景映像を映していた通話画面に、何の前触れもなく、見知らぬ人物が現れた。
それは、二つの点で驚くべき出来事だった。この人物は、ぼくの本名を突き止めている。そして、警備室や秘書室を通さない直接通話をしてきた。よほどの組織力、技術力がなければできないことだ。
「どなたです?」
と尋ねたが、内心では、いよいよ来たか、と思っていた。
〝連合〟への勧誘に違いない。
その時はおとなしく受諾しようと、アンヌ・マリーと話していた。多額の上納金を課せられるとしても、辺境ではやむを得ない必要経費だ。他組織との提携もしやすくなる。
市民社会での税金のようなものだ。税金と違って、課税基準も使途も公開されないだけである。ごねたり、抵抗したりすれば、組織は取り上げられ、ぼくとアンヌ・マリーは洗脳されるか、処刑されるか。
「初めてお目にかかる。わたしはユージンという。《クーガ》という組織の代表者だ」
褐色のサングラスをかけた、痩せた男だ。褐色の髪に、色艶の悪い肌。物憂げな、というよりは、陰鬱なたたずまい。
その組織名は知らないが、ユージンという名前は、何か記憶にひっかかる。
「で、ご用は何です、ミスター・ユージン」
たぶん、丁重に対応しなければならない相手。
「そちらの組織の代表者は、アンヌ・マリーという赤毛の女性だと聞いている。そこは、彼女のオフィスではないのか?」
彼女も辺境では別の名を名乗っているのに、ちゃんと本名を知っているのだ。とぼけても無駄、という警告だろう。いざとなれば、故郷の家族や学生時代の友人を人質に取ることもできるのだと。
ぼくたちは確かに市民社会を捨てたが、それでも、家族や友人を殺されたいとは思わない。
「彼女は水泳中です。日課なので。ご用は、片腕のぼくが伺いましょう」
すると向こうは、薄い唇にわずかな笑みを浮かべた。
「では、きみに話そう。わたしは今、最高幹部会の命令で動いている」
あっと思った。あのユージンか。
最高幹部会の代理人。辺境全体でも数十名しかいない、トップエリートの一人だ。何かの事件にからんで、噂を聞いたことがある。
そう思って見直せば、いかにも油断のなさそうな人物に見えた。しかし、こんな小組織に何の用で。
「きみに相談したいのは、カトリーヌ・ソレルスのことだ」
いきなり、心臓を鷲掴みにされた。
カティ。なぜ、彼女の名前が、こんな男の口から出る。
「どういうことです」
平静なふりをしようとしたが、おそらく、顔色が変わっていたことだろう。ぼくの心は半分、カティのものなのだ。別れて十五年経っていても。
「なるほど。まだ未練があるか。では、彼女を保護するつもりはあるな?」
脅迫されているのだと思った。向こうは、カティを人質にとっているのだと。
「要求は、何です」
声が震えた。どんな無理難題を押し付けられるのか。
だが、ユージンは穏やかに言う。
「早とちりはやめたまえ。彼女とは、これから合流する予定なのでね。きみたちも、合流してこないかという提案だ」
合流? 何を言っている? カティは市民社会にいて、ちゃんと普通に暮らしている。航行管制局の仕事を、ずっと続けて。
「わかりやすく話そう。彼女はきみに捨てられた後も、ずっと、きみ一人を思い続けてきた。しかし、今はもう、つのる寂しさに耐えられない」
何だって。
何だって。
「そこで、我々の誘いに乗って、辺境に出てくることにした。わたしは彼女に約束したのだ。一つ仕事を果たしてくれれば、アレン・ジェンセンの精子を提供すると。きみには、そのために、我々と合流してほしいのだよ」
***
「アンヌ・マリー!!」
ぼくが岸に立って呼ぶと、彼女はゆったりと泳いできた。
熱帯や亜熱帯の植物を茂らせた温室区域にある、エメラルド色の広いプールである。裸で泳ぐのが、彼女のお気に入りだ。波紋が広がる水面の下に、すんなり伸びた白い手足が見える。
「なあに? あなたもいらっしゃいよ」
アンヌ・マリーはぼくの方に水をはねかけ、笑って誘う。しかし、今日はそれどころではない。
「すぐに上がってくれ。出航するんだ。《アグライア》に行く。カティがそこに来るんだよ!!」
「え、何ですって!?」
整えた赤茶色の眉が、険悪に跳ね上がる。今もまだ、双子の姉の名前は、彼女の神経を張り詰めさせるのだ。
「説明は途中でする。さあ」
ぼくはアンヌ・マリーの手を引いて水から引き上げ、バスローブでくるんだ。そして、三十分後には小惑星基地を離れていた。
急いだので、用意できたのはほんの五隻の小艦隊だが、道中の安全はユージンが保証してくれた。自分と合流するまで、他組織がきみたちに手出しをすることはないと。
「馬鹿馬鹿しい。あなたの精子だなんて。まったく迷惑な女だわ」
白い肌を引き立てる深緑のドレスを着たアンヌ・マリーは、近づいただけで火傷しそうなくらい、不機嫌だった。ソバージュにしたボブの髪に湿り気を残したまま、ソファで脚を組み、熱いココアを飲んでいる。
「子供なんか、他の男の精子で作ればいいじゃないの。男なんか、そこらをいくらでも歩いてるんだから」
しかし、元々、ぼくとカティは恋人同士だったのだ。アンヌ・マリーに割り込まれるまでは。いや、あれは、引き裂かれたと言ってもいい。カティの傷もまだ、癒えていなかったのだ。
「まあ、いいでしょう。この際だから、捕まえて冷凍保存にしてやるわ。これ以上、迷惑かけられたくないもの」
さすがにぼくも、迷惑をかけたのはどちらだ、と言いたくなる。
「アンヌ・マリー」
ぼくが咎める口調で言うと、鼻と頬に薄いそばかすを散らした華やかな赤毛の美女は、つんとしてそっぽを向いた。
「わかったわよ。どうせあなたは、やっぱりカティを選ぶんでしょ。邪魔なのは、わたしの方なのね」
それが途中で涙声になるから、ぼくは勝てない。アンヌ・マリーの肩を抱き、髪にキスして慰めた。
「こうして、きみと一緒に暮らしているじゃないか」
これ以上、何ができる。市民社会を捨て、辺境に出てきたのも、アンヌ・マリーが望んだからだ。ぼく一人なら、そんな真似は絶対にできかった。
ぼくは凡人だ。カティと付き合っていた学生の頃は、普通に卒業して、普通に働き、普通に家庭を作ることしか考えていなかった。
だが、アンヌ・マリーと出会った時に、全てが変わった。正確に言うと、アンヌ・マリーがぼくを欲した時に。
それはアンヌ・マリーが、双子の姉妹のカティに、強烈なこだわりを持っているからだ。
嫉妬なのか、反発なのか、それとも、ひねくれた愛情なのか。
とにかく、縫いぐるみや子犬から、恋人まで、カティの持ち物は、全て横取りしたいという歪んだ熱情が、アンヌ・マリーにはあった。あらゆる尺度で、姉と張り合いたいのだ。
「だけど、こんなに大慌てで、カティを迎えに行くんだもの。子供を産ませてやるつもりでしょ?」
ついさっきまで、ぼくは知らなかった。カティがそれほど、思い詰めているなんて。結婚していないのは知っていたが、きっと、仕事で充実しているのだろうと……そう思って、深くは追求しないできた。
だが、ぼくがアンヌ・マリーと暮らしてきた歳月、ずっと一人で肩を抱き、涙をこらえていたのなら。
足元に火がついたかのように、じりじり、そわそわする。もちろん、この動揺がアンヌ・マリーを怒らせるのは、よくわかっているのだが。
「それでカティが満足できるなら、そうしてやりたい。きみにはぼくがいるんだから、そのくらい、いいだろう?」
あらかじめ精子を採取しておき、冷凍カプセルに入れて渡すだけの、事務的な接触にとどめればいい。しかし、アンヌ・マリーは頑固に言う。
「絶対だめ。あの女、子供を盾にして、あなたを搦めとるつもりよ」
「そんなことにはならない」
カティの性格からして、そういう真似はできないだろう。彼女は善良な優等生だった。今でもきっと……そうに違いない。たまたま運悪く、違法組織に目をつけられてしまっただけで。
そして、それがぼくのせいだとしたら……何とか、カティを市民社会に戻してやらなくては。
「冷凍精子を渡したら、説得して、中央に送り返すつもりだ。彼女は、辺境では生きられない。こんな所では、子育てだってできないよ」
辺境の宇宙で生きているのは、欲張りな悪党たちと、彼らに仕える、惨めなバイオロイドだけなのだから。
「送り返したところで、隔離施設行きよ。誘拐犯なんだから」
「それでも、辺境よりましだ。自首して出れば、刑は軽い。中央の隔離施設なんて、リゾートホテルのようなものだ」
そこで、侍女のマーサとエルザが昼食を運んできた。ぼくらはいったん、議論を止める。喧嘩と思われては困るからだ。彼女たちはアンヌ・マリーを慕っているから、いそいそと給仕をしてくれる。
「こちらのフライには、このトマトソースをかけて下さいね」
「ワインは、このロゼでいかがでしょう」
「ああ、ありがとう。後はやるから、下がっていいよ」
「はい、それではごゆっくり」
二人は一礼して、控え室に消えていく。用がない時は、中央製の名作映画を見たり、ジムで運動したり、課題にしてある問題集を解いたりして過ごすはずだ。
ぼくたちの組織《アル・ラート》では、バイオロイドの部下たちを、子供のように教育している。そして、教育の仕上がり具合によって、相応しい部署に配置していく。
五年で殺したりはしない。そんなことには、とても耐えられない。
ぼくたちは、彼女たちの親のようなものだと思っている。
辺境で生き残るための違法組織とはいえ、あまり非道なことはしたくない――そう考えた結果が、女だけの組織にすることだった。
現在、《アル・ラート》にいる男は、ぼく一人。あとは全員、人間の女とバイオロイドの女たちである。
生きた男を雇うと、彼らの娯楽のために、生きた女が必要になるからだ。
どこの組織でも、男の職員や兵士に奉仕させるために、バイオロイドの奴隷女を使っている。そして、新鮮さが薄れたと思ったら、売り払うか、殺すかしてしまう。
だが、そこまで悪辣なことをすると、ぼく自身が参ってしまうとわかっていた。自分が病んでしまい、人格が変質してしまったら、どこに生きている意味があるのか。
第一、ぼくには、バイオロイド美女のハレムは必要なかった。アンヌ・マリーだけで手一杯だ。彼女を満足させるだけで、ぼくはほとんど全てのエネルギーを使い尽くしてしまう。
いや、こうしてカティの心配をすることが、既に裏切りだと、アンヌ・マリーは思うのかもしれないが。
アンヌ・マリーは、心の病気なのか? もしかしたら、専門家の手に委ね、治療を受けさせるべきだったのか?
それは学生時代から、何十回も考えてきたことだ。
確かに彼女は、普通ではない。発想も行動力も。だが、天才が普通の枠から外れているのと、同じことかもしれない。凡人の浅薄な考えで、天才を測ることはできない。
一人殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄、という考え方もある。
歴史上、戦争時には、平和時と違う判断基準が適用された。アンヌ・マリーの場合、市民社会の道徳には適合しないが、辺境のルールには馴染んだということだ。
誰かを心の病気と判定するのは、その人物が、うまく社会生活を送れないからだろう。だが、アンヌ・マリーは一応、犯罪など犯さずに市民社会にいた……最後に、周到な計画を立てて、勤め先である惑星開発局の船を乗っ取るまでは。
周りの女の子から、ボーイフレンドを横取りするという趣味は……誉められたことではないが、犯罪とも言えないだろう。それは、自分の魅力を試すという挑戦だったのだ。その趣味も、ぼくを手に入れてからは、ほとんど忘れてしまったようだし。
アンヌ・マリーは、挑戦が好きなのだ。困難なことほど、情熱を持って取り組む。
たとえば……難しい論文を仕上げるとか。双子の姉から、恋人を奪うとか。辺境に出て、自分の組織を築くとか。
アンヌ・マリーは、自分が全力で生きられる場を、ずっと探し求めていたのかもしれない。ぬるま湯のような市民社会には、とても収まりきれなかったのだ。
事実、辺境に出てきてからの方が、アンヌ・マリーは安定している。市民社会にいた時の苛々した様子が消え、毎日が楽しそうだ。他組織と戦ったり、自分の組織を強化したりして、忙しく過ごすのが合っているのだろう。
ぼくはといえば……後悔しなかったわけではない。
(あのまま市民社会にいたら)
(カティと結婚していたら)
と何百回も考えた。だが、アンヌ・マリーに呼ばれ、あれこれと相談されたり、胸にすがられたりすると、
(必要とされている)
という嬉しさが湧き上がる。
結局、惚れているのだ。つい、可愛いと思ってしまう。放っておけないとも思う。ぼくでなければ、他の誰が、アンヌ・マリーを理解してやれるのか。
それは、ぼくの自惚れであるかもしれない。あるいは、共依存なのかもしれない。学生の頃も開発局の頃も、友人たちに何度も忠告された。
『アレン、きみは利用されているんだよ』
『いずれ、ぼろぼろにされて捨てられるよ』
『あの女には、良心も良識もないんだから』
『悪いことは言わない、カティの方に戻れよ』
だが、十五年経った今でも、アンヌ・マリーはぼくを頼る。ぼくに甘える。やはり、愛されているのだ、と思う。ぼくがいれば、アンヌ・マリーは他の男を必要としない。
もしも、そう思うことが間違いなら、いずれ、ぼくの命で自惚れの対価を支払うことになるだろう。
それはもう、仕方ない。自分で選んだ運命だ。
だが、カティは違う。彼女は市民社会で、まともな人生を送るべきだ。ぼくらに近づいてはいけない。
まさか、違法組織に利用されるほど、思い詰めていたなんて……
ぼくの忠告など、聞いてくれるかどうか、わからない。だが、説得はしなければ。カティが遠くで幸せに暮らしていてくれると思えばこそ、辺境での暮らしに専心することができたのだから。
アグライア編2に続く
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