やっちゃば一代記 実録(30)大木健二伝
やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
農業協同組合法
昭和二十一年のGHQ主導の農地改革と並行して翌年十一月農業協同組合法が公布された。終戦の昭和二十年時点で、自作地は全耕作地の半分を占めたが
四年後には九割近くまで拡大した。といっても個々の小作人の生産力は依然として非力だったうえに、それまでなら地主に肥料、種、道具を用意してもらっていたものすべて自前で調達しなければならなくなった。そこで農協組織によって共同購入や共同販売などの経済行為を進める政策が取られるのだが、組合法公布の二年後から各地の農協が経営不振に陥り、農家に参入する人は減りこそすれ増えることはなかった。とりわけ首都圏近郊産地は加入の利点がないためか、農協組織率は現在でも低い。
農家がこんな状態だから、市場にはもっぱら個人出荷が多かった。
そして、そうした生産者を陰に陽に支えたのは仲卸業者だった。
なかでも築地市場の仲卸業者は戦前の大根河岸の頃から、個別に”やま”を抱え、作物の選択、栽培指導、出荷規格、資金繰り、代金決済など多くの機能を担ってきた。
築地の仲卸は業務内容が時間と手数、さらにリスクを伴うことから、それぞれジャガイモ、タマネギ、ダイコン、つまもの(促成野菜)といった特定商品の専門問屋として暖簾を掲げていた。八百屋というなんでも取り揃えた一般の青果商とはだいぶ違っていたのである。
大木もそうした仲卸の仕事にこだわった。というより、荷受けが集荷した野菜を単に右から左に流すだけの仕事に飽き足らないものを感じていた。
新しい野菜は自分が育てる。やま周りの醍醐味を荷受けに独占させたくない。大木の頭の中にはいろいろな野菜の顔がひしめいたいた。