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やっちゃば一代記 実録(10)大木健二伝

スエヒロの厨房
 その頃のビフテキは六十銭から一円で、もりそば、カレーライスが十銭
前後。薄給の野菜問屋の奉公人には高根の花だ。
 健二がスエヒロの厨房にいる時間はだんだん長くなっていた。勤めの三
分の一はスエヒロで過ごし、野菜の下ごしらえ、スープの仕込み、テーブ
ルの準備まで手伝った。スエヒロのスープの作り方は、まず、ずん胴型の
鍋に牛骨、セロリ、ニンジン、タマネギを入れてストーブの上で半日以上
ぐつぐつ煮込み、それから卵の殻を投げ込んでおくというものだ。なぜ卵
の殻を入れておくのか不思議に思った健二は翌日、殻を掬い上げた料理人
に促され、鍋の中を覗き込んだ。スープは鼈甲色に澄んでいた。卵の殻が
牛肉の脂肪分を絡めとっていたのだ。素材の吟味、下ごしらえ、スープつ
くり、肉の処理と焼き具合など、スエヒロの料理人は一から十まで手間ひ
まを惜しまなかった。健二にとってスエヒロは洋食と食材への眼を開かせ
てくれる寺子屋となった。洋食マナーも客席を覗き見して覚えた。
「おいおい健二、見てろよ、あの客、フィンガーボールの水を飲むぞ。」
 十人分の席はいつもふさがっているが、七、八人はろくにフォークの使
い方も知らなかった。一見客は常連客の一挙手一動にちらちら目をやって
は、ぎこになくビフテキを口に運んだ。滑稽であった。しかし、そこには
新しい時代の息吹を懸命に吸収しようとする庶民の一途さがあった。
「おい健二、ちょっと来い。食べてみろ!。」
料理長が焼き上げたビフテキの皿を差し出した。
ステーキにはポテトフライ、さやいんげん、トマトそしてクレソンが添え
てある。ジュージューと焼きたての音がするビフテキに醤油ダレを落とす
と、いい匂いが鼻先に立ち上ってきた。生まれて初めてビフテキを口にし
た。その料理長の目が優しく笑っていた。
 牛肉はもっぱら牛鍋(関東)と、すき焼き(関西)に使われていた。野菜など
と煮込むことで肉の中の旨味をそとに引き出す料理だが、ビフテキは火力
の強い炭火(備長炭など)で焼くことでよけいな脂肪を飛ばし、旨味を肉の
中に閉じ込めておける。肉そのものの味はビフテキが勝るといわれ、それ
はまず、食道楽の関西で広まったのだ。

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