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やっちゃば一代記 実録 大木健二伝

将来の道を決めるとき
 大木家は代々、真言宗である成田山新勝寺の講元だが、重左エ門の代に
七福神のひとつ恵比寿を祭る山を購入した。小さな祠にすぎないが、当時
は神を祭る山をもつという事は非常に名誉なことで、家の格を上げたもの
だった。その神山はいまでも国道一二六号線から左手に望むことができ、
目印は雷に一刀両断されながらも樹齢数百年を保ってきた杉の大木が現在
も聳え立っているという。持ち山は松や栗などの樹木で覆われ、大木の家
にとっては貴き神山だが、健二にとっては運動場であり、御狩場だった。
時期には栗、初茸、松露が採取できた。その初茸や松露がどこに出るか、
熟知しているのは健二を置いてほかにいない。
「そろそろ茸が出る頃だ、松露も出ているかもしれない。採ってこい」
健二は指示されるまでもなく、小一時間もしないうちに初茸や松露で笊
いっぱいにして帰ってきた。松露には色の違いで粟松露と米松露の二つが
あり、白い方の米松露より茶色がかった粟松露の方がおいしかった。
旨いかどうかは見た目では分からないものである。母はとってきた初茸で
混ぜご飯をつくった。すぐに健二を遣って隣近所におすそ分けされたが、
そのときの健二は「自分も家の役に立っているのだ。」と内心得意だった
 将来を決める時が来た。
担任教師は中学の進学を強く推してくれた。健二もそのつもりだった。
だが父(新太郎)は「自分の道は自分で見つけろ」とにべもない。所詮、
次男は家を出ていかざるを得ないとはいえ、父の返事はあまりにぎわって
と思った。 八日市場村は古来、八の日に市が立ち、とりわけ木綿の市で
にぎわってきたが、この村にも糸偏景気の波が押し寄せた。
大木家は重右衛門が財を成し、土地を買い足して地元では屈指の大農家と
なっていたが、家督を継いだ長男、新太郎が大正バブルに便乗して生糸関
連の商いに手を出してからというもの、広大な土地は次々と切り売りされ
かつての勢いはすっかり失せていた。大戦景気はとうに去り、株価大暴落
金融恐慌、コメの大凶作、貧富の拡大、労働争議等々一国の経済にも各所
でひび割れが生じていたのである。」
 「健ちゃん、東京へ出ないか。食いしん坊のおまえにピッタリの仕事が
ある。」遊び友達がそう言って紹介してくれた。
 八日市場村から東京までの汽車賃は一円二十銭だった。奉公先の俸給は
食住付きとはいえ月二円、たびたび里帰りできるほどの額ではない。だが
そんな弱気はさらさら湧いてこなかった。見るもの聞くもの東京は中学へ
の進学よりはるかに魅力があった。

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