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【ショートショート】 夢のササユリ

 庭の手入れは、おじいさんの趣味だった。おばあさんは手をつけることが許されず、いつも家の中から楽しそうなおじいさんを眺めていた。暑さの中、目一杯の汗をかき、水分補給を忘れるおじいさんにお茶をだす。それがおばあさんに許された、唯一の役目だった。
 麦わらの下、汗だくになったタオルで顔を拭く。重たい腰をあげ、おばあさんはよたよたとベランダまで歩いた。事前に用意していた水筒の蓋を開け、冷えた麦茶を自らの手でそそぐ。日光に熱せられた体に、冷たさが染み入る。おばあさんは脇に用意した手拭いを取ると、首元のタオルと交換した。タオルを絞る。汗は滴り、石段を濡らした。
 おじいさんに許されなかった庭の手入れをするようになって、早数ヶ月。おばあさんは今もまだ、お茶だしにむかう感覚を忘れてはいない。疲労で丸まった背中を、今でも鮮明に覚えていた。お盆の上で麦茶と氷が揺れ、微かな音がする。その音を涼しげだと言って、おじいさんはいつも頬を綻ばせていた。年々しわだらけになっていき、下がっていく目尻を、よくからかったものだ。厳つい顔だったおじいさんが、自然と優しげな顔に変わっていく。そんな穏やかさと共に時を重ね、果ては二人ぽっくりと逝ければ。なんて。やはり、難しい夢だった。
 休憩がてら庭を一望する。おじいさんはこの瞬間を至福の時だと言っていた。おばあさんは今その瞬間を、体感している。しかし実感にはまだ程遠く、体はほてり、軽い目眩を感じていた。キンキンに冷した麦茶も、すぐには夏の暑さを振り払ってはくれない。暑さに慣れるのはいつだろう。どちらの息がより長く続くのだろうか。

「あら」

 昨日までは見えなかった白い花弁に、思わず声があがった。灌木に隠れて全貌は見えないが、確かに清楚な白がちらりと覗いている。おばあさんは飲みかけの麦茶をおいて、重たい腰をあげた。そよ風に助けられ、足取りが少し軽くなる。引き抜いた雑草に足を掠め散らかしてしまったが、気にも留めない。
 庭の隅でひっそりと、昨日はまだ閉じていた花弁が、外に向かって美しい曲線を描いている。
 小さく笑い声が漏れた。そっと花の前に屈むと引き抜きそうになって、はっと我に返る。植木鉢を持ってこなければ。ベランダの脇に置いた、植木鉢を取りに向かう。
 花の前に戻ると頬を撫でるように優しく、根元の土を掻いていく。乾いた土が膝元に堪って、歪な円を象った。どうしてか、視界が滲む。目元を拭こうとして、軍手を忘れてしまったことに気がついた。珍しいど忘れに、おばさんはまた小さく笑ってしまった。いつもなら、もっと早くに気づいたはずなのに。手拭いの存在さえ忘れていたなんて。おばあさんは頬を汚しながら、慎重に花を移す。嬉しさのあまりステップを刻みそうになったが、歳に拒まれた。
 家に戻り仏間に着くと、おじいさんの遺影に向かって花を掲げる。おじいさんが咲かせたいと願っていた、ササユリの花だ。

「綺麗に咲いたでしょう?」

 返事はなく、おばあさんは仏壇の前に腰掛ける。経机に植木鉢を置いた。あとで替えの土をいれなければと、小さく笑う。ろうそくに火を灯し、二振りでマッチの火を消す。そして線香を供える。少し腕が重かったのは、庭の手入れのせいだ。おりんを鳴らし、手を合わせる。おばあさんは静かに仏壇を眺めた。

「だから手伝いますよって言ったんですよ」

 おじいさんは不器用だから、繊細な花を咲かせるのが苦手だった。いや、最後まで叶わなかった。あんなに好きな花だったのに。
 おばあさんの微笑みに、うっすらと涙が浮かぶ。

「どうせなら、一緒に見たかったですねえ、おじいさん」

 掠れた声は誰にも届かず、目の前では綺麗なササユリが揺れていた。
 君の花だと言うおじいさんの声を届けるように、揺れていた。


夢はいくつになっても、絶えなく。
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《《《 11│13 》》》


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