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【掌編小説】 夢なし男の独白

 毎日がしんどい。うだるような暑さは確かに疲れを倍増させたが、しんどいのは今更だ。

 毎朝目を開けるのがそもそもしんどい。
 朝起きることに寝る前から息苦しくなって心地よく眠れないし、本当に寝れたのか疑うほど疲れがとれていない。
 体が重い、瞼が重い、空気が重い。
 清々しい朝なんて、ここ何年もご無沙汰だ。隣にカノジョの一人でも眠っていれば気晴らしになったのかもしれないが、カノジョなんてそれこそ何年も前からいない。
 いつも一人で眠りについて、いつも一人で朝を迎える。

 鏡にうつる姿も一人分、コップにささった歯ブラシも一人分、無くなった歯磨き粉を変えてくれる人もいない。
 嗚呼、嗚呼、とその一つ一つを噛み締める度に、足が重くなる。
 歯ブラシを加えたまま、風呂場に行ってシャワーを出して、お湯が出るまでの時間で服を脱ぐ。目を覚ますための朝シャンも、本当は夜がしんどくて始めたものだ。
 しんどい朝から始まって、しんどさは時間と共にかさましされるだけで、毎日が、僕から生気を奪う。

 仕事に行きたくないから朝起きるのが嫌で、次の日が来るから夜寝るのが嫌になった。
 仕事に行けばただ時間に追われ、ミスをして叱られ、毎日愚痴るからカノジョができない。
 俺の負の連鎖は仕事から始まっているのに、生きるために仕事に精を出さなければいけないなんて、どんな災難だ。

 重たい体を引きずってなんとか準備を済ませ、家を出る。
 車のエンジン音、信号の音、シャッターの開く音、重なる足音。
 生活音に気が揉まれる。
 重い空気を少しでも軽くしようとイヤホンを耳に突っ込んだ。最近は無料で色んな曲が聞けるようになった。好きな曲よりも流行りの曲よりも、知らない曲を耳にする方が新鮮だった。特定の曲しか聞かないなんてルーティンは気を重くする一方なんだ。
 いや、そもそも。
 ルーティンが僕に嫌気を運んできていた。仕事が近づいて来ている足音に聞こえて、耳を塞ぎたくなったんだ。

 駅に着き、エスカレーターに乗れば自動で体は運ばれる。
 楽をさせようという優しさで、地獄へ早送りされている気分だ。逃げようと引き返そうものなら、足をとられて転げてしまうんだろう。そして逃亡の罪状で、みっともないと笑われるんだ。
 大人が一番嫌がるやり方で追い詰めて、改札を通るよう仕向ける。改札で閉じ込めて、電車に乗れと迫る。逃げられないと悟って、仕方なくホームに降りれば、俺と同じような顔をした連中が苛立ちを露に列を作ってる。
 いつもの光景。
 黄泉への入口に並ぶ死人のように、会社という地獄へ向かう電車を待ってる奴ら。
 俺もその列に並ぶのかと思うと、更に気は重くなり、何十人もの人間を背負っているような感覚を覚える。
 不機嫌は最高潮だ。

 嫌だ。
 嫌なんだ、もう。
 働くのも、動くのも、目覚めるのも。
 何もかも、嫌なんだ。

 どうして死者の列に並んでいるのに、あの世に行けない?
 どうして地獄にいるのに、生きるためと口にしなければならない?
 矛盾しすぎてはいないか?

 その矛盾が、どれだけ僕を苦しめてるか、お前らに分かるか?
 分からないよな、きっと。
 例えここで叫んでも、俺も同じなのに何言ってんだと口々に言うんだろう。
 不平不満なんてみんな同じだと、俺を変人扱いするんだろう。

 もう嫌だ。
 嫌だ。
 嫌なんだ、もう。
 矛盾なんて、糞食らえ。

 それでも生きるなんて。
 聖人になんて、俺は成れないんだよ。
 毎日不満だらけで、毎日生きることに苛まれてるんだよ。

 こんな人生に、どんな意味があるというんだ。
 この命に、どんな意味があるというんだ。
 意味がないなら、どうして俺は生きてるというんだ?
 なぜ生きるためにこんなにすり減らさなきゃいけない?
 すり減らすことが生きることだから?
 なら、生きる意味とは何だ。

 列からはみ出そう。
 生きることを手放そう。
 それが、苦しみから解放される唯一の手だというのなら。

 誰かがぶつかってきた。
 嫌でも列から放さない気だ。
 そこまでして、解放させることを邪魔するのか。
 苦しめと、言うのか。
 まるで罪人にするかのように、力で圧そうと言うのか。
 嗚呼、地獄が近づいてくる足音がする。
 気休めの音楽が、無情にも腹のあたりでぶら下がっている。
 吊し上げられる俺を予感させているのか。

「だって、会社に殺されるなんて、一生の恥じゃない? だったら私は、どれだけ笑われても、夢を叶えるための一生にしたいわ。そのために会社を利用するのはありかもしれないけどさ。あ、やっぱ嫌かも。毎朝こんな辛気くさいおじさんに囲まれるの」

 一生の恥?
 お前はまだ世知辛さを知らないだけだ。

 夢を叶える?
 そんな寝言を言えるのは学生の間だけだ。

 夢を叶える一生なんて、親が許さない。世間が許さない。友達すら、許さないんだよ。

 列から外れる。
 今度は誰にも邪魔されず、先頭に立てた。
 なんの印もない場所に、立てた。
 終わるんだ、全部。
 親の軋轢も、世間の常識も、友達の意味のない同調も。
 全部、終わりだ。

 光に照らされる。
 両耳から流れる曲で頭は満たされ、遠くで警笛の音がする。
 俺を、迎えてる、音がする。

 全部、全部手放すんだ。俺が。
 地獄を抜け出すんだ、そうやって。
 だって、それしか方法はないだろう?
 社畜には。
 世の中の、社畜には。

 風が吹く。体が押し戻されて、誰かの声が、遠くに聞こえた。

 世の中は、社会は、同僚は、救ってもくれなければ、殺してもくれないんだよ。
 そんな、世知辛い世の中なんだよ。
 なのになんで、生きていけというんだ。なんで俺は踏みとどまるんだ。

 会社に殺されるなんて一生の恥だ。
 自分の弱さが露見するだけで、何も良いことなんて、何も。
 分かってるよ、笑いもんだよ、同情されるだけだよ、どうせ。
 それでも、俺は楽になるんだ。楽に、なりたいんだよ。

 親も、会社も、友達も。
 手放したいんだ、もう、いらないんだよ。
 生きてる限り、ついて回るんだから、仕方ないだろ。手放す方法なんて、他の方法なんて。
 俺を惨めにするだけじゃないのか?
 持ってなければ、俺は死んだも同然だって、思うんじゃないのか?
 生きているのに、死人みたいに思われて終わるんだろ?
 だったら、ここで俺がいなくなっても変わらないだろ?

「もう少しで、死ぬところだったんですよ! 大丈夫ですか? どこかに連絡しますか?」

 連絡? なんのために? 死にたいんですって、死に損ねましたって? 冗談だろ。

「大丈夫です。問題ありません」

 立ち上がって、踵を返す。
 列に戻れば、戻れば。
 なんだ、変わらないじゃないか。何もかも。

 行くのか、それでも。地獄に。
 全部いらないと思ったのに、また取り戻しに行くのか? 自ら。

 なんて馬鹿馬鹿しいんだ。生きるというのは。それに、執着するというのは。
 俺は一体、なにを守りたかったんだ。死んでまで。

 帰ろう。

 もう何もいらない。全部、捨てるんだ。今、俺は。

 手放すなら、別の方法で良い。苦しいだけなら、しがみつく必要もない。何もいらないなら、何かを持っている必要もない。

 ただ、帰るんだ。

 誰も居ない、誰も待たない、何もない場所に、帰るんだ。

 俺は振り払ったんだ。
 何もかも。
 俺を列に戻そうとした、あの手を。
 気遣うふりをする、世間を。
 俺は今、全部捨てるんだ。

 だから、もう、気負う必要なんてない。

 足が少しだけ軽い。
 首を吊るためのネクタイはゴミ箱へ捨てた。財布だけポケットに移して、鞄も捨てた。携帯は、今から解約しにいこう。引っ越しも、考えた方が良いのか。家賃、あれじゃ高いよな。無収入になるなら。貯金、いくらだ?
 思い返して、よく頑張ったと、自分を称えたくなった。

 そうだ、好きな曲を聞こう。弔いと謝辞と褒美と、始まりの合図に。

 死ぬくらいなら一度、夢を叶えてみよう。
 夢を叶える一生を生きてみよう。
 ここから。
 誰のものでもない僕を、生きてみよう。


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