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不毛か有毛

中島らもさん『恋は底力』のエッセイに

「世界は終わるメソメソと
ドカンとではなく」
とあったのを今でも気に入って気になって覚えている。
誰かの詩の引用だったかと思うけどそちらは思い出せず、私の中では
その言葉を教えてくれた人は中島らもさんだから、らもさんが好きだ。

恐竜時代がドカンと終わったイメージだけど、やはりメソメソとした流れも多少はあったのだろうか?

メソメソ終わるのは恋なのらしい。
決して美しくなさそうだ。
地球の最後はどんなだろうか。
環境破壊の点から見ればメソメソが似合ってる。そのメソメソを避けたくて
今日もペットポトルのピリピリを上から下へピリピリして、裸の透明にしてゆすいだ蓋をシンクの横っちょで乾かして、ゆすいだボトルを岩のりのカラ瓶に逆さまに干して、ごちゃついた台所にうんざりして、あーー!全部まとめて燃えるに放り込みたい!!と思ってもやっぱり紙ごみは資源に細々と分けた。

しかしそんならもさんは確か酔っ払つて階段から落ちて死んだ気がする。
これはドカンだろうか?闘病が長かった等と比べればドカン寄りに思った。
理想はピンピンコロリと聞く。
大往生、ぽっくり死に、老衰。
あまり人を悲しませずにもし最後がきてしまったら、『あーやっぱり、らもさんはらもさんぽい死に方だったなぁ』‥そんな感じもしてる。

地球の最後に私は付き合わない。
うちの子供たちもまだまだだろうと思う。うちの子供の玄孫くらいになったら‥
結局未来はよく見えない。

見えているのはメソメソでもドカンでもその最中にいる時はきっとそれしか感じられないのだろうから幸せなんだと思う。
わざと悲しくなりたくはない。
だけど味わっていることがすべてかなと思う。

最中(さなか)

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