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自分にとっての良識が他人にとっての良識ではない件

仕事をしていると、とても疲れることがある。
それは相手からしたら良かれと思ってのアドバイスだとしても、受ける側からしたら「・・・・・」となるタイミングだ。

「こうした方が良いですよ」
「次からはこうしてください」

誰しもが、自分の効率化を考えて、もしくは純粋な優しさでこのようなアドバイスをするのではないか。

でも、その裏の気持ちを考えたことはありますか?

特に、社会人1年目の若者でもなく中途採用のそこそこ歴の長い人間にとっては、1つの行動に辿り着くまでに、自分なりに検討し、考え抜いた上で様々な理由があり、最終の行動に行き着いていることもある。

もちろん「このようにした方が早いだろう。」
そう分かっていても、既に別の人に確認したやり方をしていたり、例えばシステム上でエラーが起きていたり、もしくは、この内容はこういう場合があるから、まずはこの人に聞いてみよう。のように、色々考えた挙句、全てに理由をもった上で行動していることが多いと思う。

それにも関わらず、ただアドバイスだけ受けると「分かっているんだけども」という思いや、少し自分がバカになった気分にすらなり、知らず知らずに心が疲弊してくるのだ。
(再度説明する必要もあるので、結果非効率だし。)
以前、勤めた会社で、その企業は8割型が新卒採用の長期勤続年数者で占めており、都度メールの冒頭に「当たり前だと思いますが」と枕詞を置く人が多かった。
でも、他社から来た私からすれば、全くもって当たり前でもなく、その企業独特の常識だったりするものも多かった。
その時は流石に繰り返されるその枕詞に嫌気がさして「あなたの当たり前は全員の当たり前ではないですよ。」と言って、その言葉をやめてもらった事がある。

企業というものは不思議で、カルチャーが形成されていき、その企業にいる人は、その良し悪しを考えずに染まっていってしまうもののようだ。

話は戻るが、例えば「こうした方が良いです!」というアドバイスは誰視点なのだろうか。その人の経験に基づく判断なのか、でもその場合、なぜ100人いて100人があなたの方法に従う必要があるのか、それはある意味エゴではないのか。こういう風に考えたことはないだろうか。

そのため、私は誰かにアドバイスをする時「私はこうして効率良くできたので、もし良かったら一度試してみてください。」という言い方にしたり、「その方法はこうした方が楽だと思うけれど、なぜそちらの方法を取ったのですか?」とそこに至った理由を聞くようにしている。

だって、ただ上からアドバイスを投げることは無責任だし、言われ続ける方はまるで馬鹿にされた気分となり、少しづつ心が疲弊していくからだ。
それにも関わらず、相手はご厚意で言ってくれているので、「ありがとう」と言わねばならない、しんどさたるや….

【あなたにとっての最適が誰かにとっての最適ではない】

是非、心において人と接してほしいものだ。



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