#1 夢見た未来
お忙しいところ、大変申し訳ございません。私の名前は石井裕と言います。急な依頼に迅速な対応をしていただき、どうもありがとうございます。しかも直に会ってお話を聞いていただけるなんて。今は、どうしても映像に残るわけには行かないのでご不便をお掛けします。
今回、お呼び致しましたのは他でもありません。貴方が調べている事件についてです。
お話するに辺り、お願いしたいことがあります。
真実を知って欲しい。そして誤解をされて、謂れのない差別を受けている子供を貴方の手で救って欲しいのです。
どうかお願いします。もうこの方法しか私には思い浮かばない。昨今のメディアは世論操作が過ぎる。記事の閲覧数を稼ぎたいからと言って、公式発表を切り取り、発言者本人が意図していない事実を吹聴するなんて、頭がおかしい。
だから記者の中でも、貴方のようにしっかり裏付けを取り、どんな権力者にも媚びない誠意のある方に真実をお話ししたかった。
他の二十人は知りませんが、あの子だけは本物です。ヒトガタにすり替わっていない。
あの凄惨な現場を見ましたか?地獄でしたよ。私は地獄を見たことはありませんが、もしこの世に地獄があるなら、あんな酷い場所です。なのに、あそこから何とか逃げ延びた人達が病院に搬送された後、まるで生き残った事が悪い様な記事を出されました。しかも、それを鵜呑みにした人々にネット上で住所を晒され、我が家に戻れば家族と隣近所の住民に鼻つまみ者にされる。
…ご存知かも知れないですが、事件後に何人か自殺者が出ています。それも原因は記事だというのに、あたかも事件のせいと書かれて、無関係の人々は手を叩いて嬉しがる始末。
もう被害者達のあんな姿を見たくはない。人間はなんて汚いと嘆くのに疲れました。
すみません。取り乱しました。時々、様々な他人の思いに引っ張られて、冷静さを保てない時がある。感情を制御する訓練はしたのですが、上手く行かないものですね。
私は医師免許を持つ精神感応者です。能力は記憶の読み取りと他者の記憶をぼかすこと。はあ、記憶を改ざんする能力はありません。何なら医師免許をお見せします。お疑いでしたら、ID番号を控えて調べてみて下さい。
えっ?異能者は信用ならない。嘘ついている可能性があるって?もうこればかりは信頼していただく他ない。嫌ならコーヒーの代金ぐらいはお支払い致しますので、お帰り下さい。また別の手を考えますから。
ええ、そうです。私の診断する患者は人格や人生が変わる強烈なトラウマを持っている事がよくあります。多くは時間が解決しますが、生涯苦しむ大きな傷になる。私の仕事は患者に立ち直る時間を与えることです。他の科と違って、すぐに効く薬なんてありません。それでも貴方のお蔭で犯罪者にならずに済んだ。現実に向き合う勇気を貰ったと言われたら、人の役に立っていると嬉しくなりますね。
実は来月で仕事を辞めます。その時に他の能力者によって記憶を消されることになっている。お会いできるのは、これが最初で最後です。本日中でしたら、もう一度お会いできるかも知れませんが。そうです。もし道端ですれ違っても私は貴方を判らない。声を掛けないことをお勧めしますよ。不審者と思われますから。
いえ、そんなに驚くことではありません。患者の個人情報保護や病院の機密保持の側面もありますが、主に自分の精神を保つためです。バカ真面目に仕事をやりすぎたせいで、AIに止められてしまいました。もう精神値が基準越えしているので、医者としての寿命というやつです。
前置きが長くなってしまいました。これからお話しするのは、あの事件で救いだされた男の子と病院に勤務していた医師の記憶です。なるべく客観的にお伝えしますが人間は感情の生き物だ。少々、脱線してしまっても大目に見て下さい。
今回の事件より三年前、何故少年が現場となった病院へ毎日通うようになったのか。そこからお話します。
ああ、そう仰ると思いました。しかし、これはとても重要なことです。事件の話だけをしていたら全容は見えてこない。どうか焦らず聞いて下さい。
吉田は不満だった。低学年の時に協調性に難ありとAIに診断され、学校に通わず自宅学習をさせられていた。そこまでは良い。決して良くはないが。数学では毎回高得点で、全体の教科でも優秀な成績を修めているから、勉強のノルマをこなしておけば近所で仲間と遊びたい放題だ。だからこの際、良いとしておく。
協調性回復プログラムの一環で少年野球のチームに所属しているが、今日の試合前のことだ。なんと保護者に数名の異能者が居て、その人達が何故かチームの人事に口を挟み、やりたくもない捕手に抜擢された。
人間は誰だってミスするだろうに、少しエラーしたり、ヒットを飛ばさないと悪口と陰口を叩かれた。
試合結果は接戦後に負けてしまった。でも最後は俺のミスじゃない。外野のエラーだ。
負けて皆が苛々している中、自分達が横槍を入れた癖に監督の人事に対して悪口を言った親の言葉を真に受け、チームメイトがあからさまに吉田に喧嘩を売り、それを高値でお買い上げした。これはもうしょうがない。どうも喧嘩を売られたら脊髄反射で買ってしまう性分のようだ。損な性格をしていると思う。変えようだなんて、ちっとも思わないけど。
ちなみに喧嘩では勝った。俺って口論も強い。売る相手を間違えたな。
大体、こっちにだって言い分がある。お金を稼ぐ能力があるかどうか知らないが、何の人事権もない保護者が自分の子供の投手姿を見たいから、お前は捕手をやれだなんて横暴だ。公式試合だったのに。そりゃあ、もう何回もやったこともあるから捕手は誰よりも出来るけど。本当は投手だってやりたかった。一番の花形だし。
言い争いが見つかり、喧嘩両成敗で監督のお叱りを受けた。その後は家に戻らず、市内の外れにある病院の裏庭まで走って来た。ここには丁度良い壁があって、キャッチング練習が出来るからだ。もう、かれこれ三十分は怒りに任せて壁に白球をぶつけている。
せっかく家族が試合を観に来てくれたのに。冷や水を浴びた気分だった。何より本当に勝ちたかった。あとちょっとで勝てたのに。全部、人のせいにしやがって。野球はチームスポーツの筈だ。負けたのは俺だけのせいじゃないと唇を噛んでいた。
思い出すと、また悔しさが込み上げて来た。力任せに壁に球をぶつけると、跳ね返った球を上手く捕れない。球は病院の塀を飛び越えて、二階の窓が開きっぱなしになっている病室へ吸い込まれていった。
「嘘!?」
あの球は家に一個しかない。しかも最近、親に強請って買って貰った大切なものだ。
すぐに取りに行かなければと思い、日頃から鍛えている運動神経を活用して塀を乗り越えた。病院の敷地内に無断侵入したが、幸いなことに誰も見ていない。
風と木々のさざめきの中、吉田は走った。こっそりと行って帰らなければ、今度こそ父親に怒られてしまう。父は普段は優しい人だったが、周りに迷惑を掛けたり、女子に意地悪をすると烈火の如く怒る。今日の試合で何があったか聞いている筈だから、これ以上怒られる要素を増やしたくない。
件の窓の近くに大木があった。それをひょいと登り、枝を伝って二階の窓に飛び移る。
病室の中は薄暗かった。暖房が効きすぎていて、少し暑い。窓から見て奥のベッドは空だった。しかし中央に位置するベッドは白いカーテンが引かれている。そこには人の気配がするので誰かいるようだ。
部屋の中には用途不明の医療機器があちこちに置かれている。機械の音がピッピッと不気味に鳴り、人工呼吸器の音と相まって不気味な雰囲気を醸し出していた。
気づかれないように靴を脱ぎ、そろそろと室内を見て回る。少し経ってから、扉の近くまで転がっていた白球を見つけた。ほっと胸を撫で下ろして、ポケットにしまう。
背後から固い何かが落ちる音がした。びっくりして振り返ると小さな人工呼吸器が床に落ちている。しかも先程まで聞こえていた機械音が変化して、明らかな警告音が鳴り出した。
突然の事態に慌ててしまう。とりあえずナースコールを呼ばなければと思い、波打つカーテンの中を覗き込んだ。
白いベッドに埋もれるように、小柄で体の細い男の子が横たわっていた。右腕にはたくさんの管に繋がれている。顔色が悪く、白を通り越して青みがかっていた。
骨が浮き出るくらい筋肉がない痛々しい姿だ。寝返りを打とうとしたのか身体ごと廊下側を向いている。
彼は起きていた。苦しそうに息を吸いながら薄く目を開き、左手を微かに動かした。
その時、何故そうしたのか、自分自身でもよく分からない。吉田は彼の左手をそっと両手で掬い、細心の注意を払って握りしめた。
手は暑い部屋の中なのに、ひんやりと冷たい。その温度にぞっとしてしまう。
すると突然、彼の不健康な肌色に赤みが戻る。それは握りしめた手から全身に広がっていった。呼吸も徐々に落ち着き、今にも閉じそうだった瞼は驚いたように見開き、瞳に光が差していく。
まるで魔法を見ているようだ。
彼は何事か呟いたが、まったく聞こえない。しょうがないので手を握ったまま、口元に耳を寄せた。
「手が、あったかいね。」
掠れていて、殆ど吐息だが嬉しそうな声で話す。
「お前、しゃべれたんか?そっちの手が冷たいだけやで。俺のは普通。待っててな。今、人呼ぶから。」
「必要ないよ。すぐ来るもの。」
「えっ?」
彼がそう言った途端、部屋の扉が開いた。あっという間に、三、四名の大人達に取り囲まれる。
「お前、何処から侵入した!」
首根っこを掴まれて耳元で怒鳴られた。
今日は、おとんに絶対怒られると、うなだれる。齢九歳にして人生とは理不尽で、ままならないものだと実感した瞬間だった。
室内に入って来た大人たちは急速に回復した男の子を見て驚いた。その間、吉田は猫の仔のように襟首を掴まれたまま別室に連れて行かれた。
腕時計に内蔵された端末機器を読み取られ、すぐに名前と住所がばれてしまう。どうやら、ただの一般人だと判ると、すぐさま親を呼ばれた。そして、どんな方法でセキュリティを潜り抜けて病室に侵入したのか尋問を受ける。
正直に病室の窓から入りましたと言ったら唖然とされた。今時の子供は危ないから木を登るという発想自体が無いらしい。だから木を使って、窓から侵入されると思わなかったそうだ。マジか。俺って、すごいじゃん。やっぱり天才。
よく話を聞いていると丁度、特別病棟は安全装置の点検中だったらしい。だから警報機も鳴らなかったのか。
「君は異能者か?一体、あの子に何をした。」
異能者とは各地に点在する異界の穴の影響で超能力を使える人間のことだ。特徴は三つあり、身体能力に優れ、常人より怪我や病気の回復速度が速い。そして一つ以上の超能力が使えることが挙げられる。
大概、能力や記憶の発現は十二歳までに起きる。中学生に上がる前に異能者テストがある。テストと言っても大層なものではない。子供達に穴の周辺で採れる光緑石を持たせるだけの簡単なものだ。その石は能力者が触れると緑色に光る為、それで見分けることが出来る。
ちなみに、まだ九歳なのでテストは受けていないし、未だに能力の発現も起きていない。
もし異能者だったら、すぐにここからワープして逃げているわ、と思った。とにかく違うと首を振って、親が来る前に室内から抜け出せないかと画策する。
「え~先生、上手いな。僕、そんなに有能そうに見えます?きっと溢れ出るんやね。類まれなる才能が。」
「話を混ぜっ返すんじゃない。おい、石を持ってきてくれ。」
背後に控えていた秘書らしき人が頷き、すぐに石を持って来た。目の前に座る険しい顔をした厳つい男性が小さな箱を空けて、中身を取るように指示する。吉田は不承不承、石に手を伸ばした。
眩い緑の光が室内を照らす。石のまわりに細かな光彩がとりまく。その輝きに見とれていたら、石はパツンと音を立てて、空中に離散した。
室内に居た人間が全て押し黙った。今、何が起きたかを、この場の全員が判らなかったからだ。それぞれが目配せをして、場を仕切り直すように努めて明るい口調で話す。
「とりあえず君は異能者で間違いないね。」
見れば判るや~ん、とは言わなかった。もしかして壊した石の値段を請求されるのだろうか。そうしたら、もう両親に顔向け出来ない。残された道は家出だ。今の貯金はいくらだっけと本気で現実逃避をしていた。
逃げ出す間も無く、怒り心頭の父親と、膝に頭が付きそうな程、頭を下げる母親がやってきた。
吉田にとっては死刑宣告に等しい。
父親が神妙な口調で頭を下げた。すぐに自分も隣に行って、両親に何か言われる前に同じく頭を下げる。
「この度は申し訳ありません。うちの愚息が御迷惑をお掛け致しまして…」
「いえ、とんでもない。病棟に侵入を許したのは驚きましたが、それは此方の不手際です。それよりも息子さんは素晴らしい力をお持ちのようだ。逆に私達の方が頭を下げる必要があるようですね。」
顔を上げて、怪訝そうな顔を向ける両親に厳つい男性は笑いかけた。
「息子さんの力を私達に貸してください。もしかしたら難病に苦しむ子供の命が救えるかもしれない。」
その子は七年前にムクロの巣で見つかった。
生まれたばかりの乳飲み子は巣の中でも食糧庫と呼ばれる死体置き場に放置されていた。
異能者で構成された討伐隊の証言に寄れば、白い布に包まれて怪物達に食べられぬよう死角に隠されていたそうだ。
当時、討伐隊の人々は初めてムクロの巣に乗り込み、本体を倒すことが出来た。しかし救出出来たのは、その赤ん坊ただ一人であった。
三十年前、国際機関の研究所が不慮の事故で世に解き放ってしまった食人生物がムクロだ。現在、四体が未だに世界中で人を喰らい続け、人類とムクロとの戦いは膠着状態に陥っている。
ムクロは大都市など人口が集中している場所に巨大な白い繭の作り、そこで人を食べて知能の低い変異体と呼ばれる緑色の流動体生物を産み、その変異体が新たな獲物を捕らえ、巣に持ち帰る。このムクロや変異体は銃や剣では弱らせることは出来ても殺せない。止めを刺せるのは異能者だけだった。
救い出された子供は引き取り手が無く、施設に預けられることになった。 しかし間を置かずに病院へ入院してしまう。原因は彼の持つ異能が強大なため幼い人間の身体に耐え切れず、徐々に衰弱してしまうからだ。それは一億人の一人の確率で発病する難病だった。特効薬も無く、対処法も不明。ただ死を待つばかりの子供がつい先日、手を握られただけで劇的な回復をした。これを奇跡と呼ばずに何と言おうか。研究所に勤め、この話を聞いた人々は口々に言った。
奇跡は構わないけど、やることを増やさないで欲しい。状態がある程度は安定する予測なら一般病棟へ移してよ。
大体、つい最近まで死にかけていた患者の診察を研修医に任すのも、どうかしている。指導医の帯同もないじゃない。人手不足もここに極まれりね。
モニカは紙の書類を捲って、例の少年の部屋の前にいた。無機質な白い廊下に子供の笑い声が響きわたる。
この建物は国際異能理化学生体研究所、通称異研と呼ばれている。病院と併設されて建設された研究所だ。
現在、研修医一年だがチームを組んでいた同期の一人が謎の腹痛や寝坊、身内の不幸によって来なくなってしまった。手術を体験した人間は一定数、医者という職業が嫌になる人がいるようだ。そのせいで今年は研修生の人手が足りず異研に属する入院患者の回診はほぼ一人で行うことになった。異能に関する病気全般を扱うため中央病棟にも患者の病室が点在しており、ようやく異研に入院している少年を診察すれば退勤できる。当直明けの勤務で疲れ切っていたので気持ちが尖っている自覚があった。一旦深呼吸して、平静を装う。
気持ちを切り替えてからノックをする。返事がないので静かに入室した。
「そういえば、お前なんて名前?」
ほぼ息のかすれた声が苦しそうに返事をする。
「名前が無いの。親がいないから。呼ばれる時はID番号かキュウちゃんって言われる。」
「キュウちゃん?」
「部屋の番号らしいよ。ここは209だから。」
「かっこ悪い名前~!よっしゃあ、俺がもっと、ええ名前付けたる!」
数秒間の沈黙後、華やいだ明るい声が室内を満たす。
「たくみ、や。今日からお前の名前は巧。異能が巧みに操れますようにって。」
モニカは二人の話を聞きながら、カーテンの中を覗き込んだ。野球のユニフォームを着て、大きなバックを背負った少年が、ベッドに横たわる患者の手を握っている。
どうやら患者のある程度の事情は聞いているようだ。
「ありがとう。嬉しいな。」
巧は微かに微笑んだ。
数日前より断然、顔色が良い。身体の筋肉はまだ全然ついていないが、表情筋を動かせるようになっている。
「ええか?名づけ親は本当の親も同然。巧は俺のこと大切にせなあかんで。具体的に言うと俺の言うことは絶対や!」
会話の雲行きが怪しくなってきたので、野球帽を被った少年を患者から引き剥がした。
「馬鹿なこと言わないちょうだい。ほら、貴方も別室に呼ばれているでしょう。さっさと行きなさい。」
しっしっと手で追い払う。二人は揃って、不満な顔をした。
「えー!看護師さんのいけず!今、良い話してたやろ!空気読め!」
「空気を読んだから割って入ったのよ。あと私は看護師ではありません。時間厳守でしょ。遅れたら親御さんに通知が行くわよ。」
そうきっぱり言い切るといきなり舌を出された。その態度に、いらっとしたので、乱暴に髪を掻き混ぜようとする。しかし動きを読まれ、するりと扉の方へ向かってしまう。
「巧、また後でな!」
ぶんぶんと手を振り回して、元気よく廊下を駆けていった。遠くで誰かに廊下は走るな!と怒られている。
明るいが嵐のような少年だ。しかも口がよく回る。
彼は一日に一回、少年のお見舞いと、この研究所に訪れて異能の診断を受けることになっていた。治癒能力の所持者と目されていたが違うようだ。本人の力が、どう作用して難病が改善されたのか解明できていない。彼がどんな異能か早急に特定しないと、まだ幼い身だ。何がきっかけで彼の力が暴走するか判らない。その為、異研に訪れる度に様々なテストを行い、能力の特定をしようとしていた。
ベッドの高さをパネルで調節しながら、モニカはため息をついた。
子供だから元気が有り余っているのは分かる。だが度が過ぎる気がした。研究所に勤めている人達に煙たがられないと良いんだけど。
顔を上げたモニカの正面に悲し気な目で黙って俯いている男の子が見える。その表情に、こちらはちっとも悪くないが酷い罪悪感に駆られた。
「ほら巧君も、そんな顔しないで。また来るって言っていたじゃない。」
名前を読んだら巧はまた目を細めて微笑んだ。番号以外の名前を貰ったことが相当嬉しかったのだろう。
友達も親も居ない。病室だけで世界が完結していた少年に初めて出来た友達だ。しかも、その友達は近くにいるだけで日々衰弱していく身体を治してくれる。
この出会いは奇跡で間違いないわね。この子が生きることを最後まで諦めなかったから、起こったのだ。神様なんているか判らないけど、幸運を掴んだのは間違いない。
モニカはこの大人しくも儚い子供の気持ちを尊重してあげたいと思っていた。
「カンゴシさんも優しいね。」
「だから私は看護師じゃないの。モニカで良いわ。医者で間違いはないけど、まだ研修が終わっていないもの。」
肩をすくめて、なるべく冷静に返した。勿論、ただの照れ隠しだ。
外の世界を知らない純粋な心だ。大人の世界に慣れて来た身としては、この子の一挙手一投足がキラキラ光る宝石箱のように感じる。
早く全快して退院してくれないかな。未来ある患者と医療従事者の双方にとって、それはとても良いことなのだから。
回診を行いながら、そんな事を考えていた。
冬はあっという間に過ぎて行った。
その間に巧は順調に元気になっていった。ようやく点滴の回数が減り、普通の食事をとるべく、ふにゃふにゃになったお粥から挑戦していた。
最初、体調は良い時と悪い時が交互にあった。また時折、呼吸さえ困難な激しい発作に見舞われたが、吉田に手を握って貰うと徐々に回数が減っていった。順調に回復している様子を見て、もしかしたら異能の病気で快癒した初めての患者になるかもしれないと研究所の人々は浮足立っている。
最近では身体の筋肉をつけるため、まずは立ちあがる練習から始めることになった。生まれてから一回も立ったことがなかったので地面に足を付けることさえ一苦労だ。
それもこれも全て吉田のように走り回ってみたいから頑張っている。
「えっ、そうなの?」
「うん。お兄ちゃんみたいに外行って走りたい。流れる景色を見てみたいんだ。」
正直に胸の内を吐露する。吉田は手をもう一度、ぎゅっと握った。
「なんや、先に言ってくれれば協力したのに。」
吉田はわざとらしく左右を確認して病室の扉から廊下を覗く。そしてにやりと笑った。
何だか変なことを思いついたようだ。
「なあ。今日は晴れているし、外に行ってみんか?」
「良いの?」
「今日は点滴終わってるし、大丈夫やろ。知らんけど。」
そう言って、背中を向けてしゃがみ込む。巧は首を傾げた。吉田が何をやりたいのか。全く分からなかったからだ。
焦れたのか、すぐに顎はここ、足はこっちと指示が出る。数秒後には吉田に背負われて、階段を駆け下りた。
巧は生まれて初めて、大きな声を出した。顔に風が当たり、心臓がドキドキした。目に見えている景色がどんどん後ろへ流れていく。
裏口から外へ出た時、視界に光が溢れた。眩しくて思わず目を瞑る。今日は快晴やでという声が聞こえて、そっと目を開けた。吉田は巧を裏庭のベンチに降ろす。
木々の間から光が降り注ぎ、柔らかな風にのって甘い花の匂いがする。昨日雨が降った名残か茶色の土から、植物の葉っぱから雫がポトリと落ちた。 空を見上げれば透き通る青空があり、西に傾きつつある太陽が元気に輝いていた。
巧の人生で外へ出たことは一回も無い。調子の良い時に読む本でなんとなく知ったつもりになっていた。だが屋外とは、こんなに光に溢れて綺麗なものだったとは。太陽に照らされて研究所の建物から伸びている影でさえ新鮮だ。
「お兄ちゃん!あれ何?」
指さす先には緑色の足が鋭角に曲がった緑の生物がいた。虫も見たことないの?と驚きながらも、その一つ一つに応えてくれる。
あれはバッタ。これはコオロギ。こちらは毛虫。大きな銀杏の木や冬に咲く花の名前。鶏が好んで食べると言う雑草の種類まで教えてくれた。
初めて触った土は湿っていた。ただ日差しがある場所だと色が変わって表面がボロボロとこぼれる。
空気も新鮮だ。深呼吸をすると清々しい気分になった。
太陽の光に当たっていると何だか気持ちまで暖かくなる。巧は瞳を輝かせて、それらを眺めていた。
「なあ、何で俺の事を兄ちゃんって言うんや?」
脈絡もなく相手は切り出した。
突然の質問に巧は困ってしまった。伝えたい言葉はあるけど、伝えて良いか判らない。同情されたいわけではない。しかし、そう解釈されてしまったら、どうしよう。今まで見たことのない新しい世界をくれる人間に嫌われたくなかった。
じっと急かすようにこちらを見る吉田に折れて、必死に言葉を紡ぐ。
「あの…あのね。僕、家族いないでしょう?だから家族とか兄弟が欲しくて。えっと、もし嫌じゃなければ、その変な言い方かもしれないけど、本当の僕のお兄ちゃんになって!」
絶対に言い回しが変だ。嘘でも本当のお兄ちゃんみたいに感じているとか言えば良かったのに。途中からおかしなことになっていた。駄目だ。全然上手く話せない。気持ち悪いって言われたら、どうしよう。
言った後で、俯いてしまった。人とそんなに話さないから、これで伝わるのか判らない。
不安で縮こまっている巧の頭上から、あっけらかんとした声がする。
「別に、ええよ。」
「えっ、本当に?」
「弟分は何人居ても構わんし。」
弟分って何だろうと疑問に思った。だが絶対にこちらの気持ちが全然伝わっていないのは確かだ。
ぶんぶんと首を振り回して、違うよと声を上げる。
「違う!本物の弟になりたい!」
「ええっ?無理やろ。だって俺、もう妹おる。そもそも血が繋がってないやん。」
「でも、お兄ちゃんの弟になりたい!」
視界が涙で歪んだ。言うんじゃなかったと後悔した。一人では何にも出来ない自分があろうことか家族が欲しいなんて、おこがましかったに違いない。
「あ~もう。この程度で泣くな。ええよ。名づけ親で巧の兄貴な。しゃあないな。そうと決まったら特訓や。」
「特訓?」
「俺のおとんはな。せっかく人間に生まれたなら強い身体と心を持てって、いつも言ってる。」
吉田は腕に力を入れて、力瘤を出した。日頃、野球で鍛えた自慢の身体だ。大人になったら、誰よりも強いアスリートになると決めているそうだ。
「俺の弟になりたいなら、まずは身体を鍛えるんや!ええか?」
きらきらした笑顔を向けて、事もなげに彼は言った。
「うん。僕、強くなる!」
お兄ちゃんに追いつきたい。一緒に走り回りたい。最近はずっとそんな事ばかり考えていた。自分の願いがより明確になった瞬間だった。身体を鍛え、今よりもずっと強くなる。そして命を諦めかけていた自分を救いあげた、この人の役に立つ。
だって初めてだったんだ。手を握って笑いかけてくれて、痛みと苦しさをとってくれるなんて。
まずはちゃんと食べて、誰の補助も無く歩けるようにしなければいけない。涙を拭きながら巧は強く心に誓った。
「よっし。目指せ、ムキムキ!」
「ムキムキ!」
単語の意味を、よく分からずに片腕を上げて復唱した。その様子がおかしかったのか、隣で笑い声が弾ける。巧もつられて笑った。
幸せだ。数か月前の自分が見たら、泣いて羨ましがるだろう。
しかし楽しい時間は長く続かなかった。
「こら、早く戻りなさい!」
室内から怒号が飛んだ。見つかってしまったようだ。すぐに鬼の形相になった大人達に囲まれてしまう。
「外は雑菌だらけなんだ。まだ抵抗力のない身体で土に触るなんて。何を考えているんだ!」
「えっ~。だって巧が外に行きたいって言ったから。俺、全然悪くない。」
あれ?そうだったっけと思った。走ってみたいとは言ったけど、外へ出たいなんて一言も言っていない。
混乱している内に、どんどん話は進んで行く。吉田は何とか責任をこちらに押し付けようとするが巧の代わりに滅茶苦茶怒られている。
先生達の中に精神感応者の異能がいたようだ。動く嘘発見器は一番偉い人にヒソヒソと耳打ちをしている。何だか感じが悪い。
胸の辺りがムカムカした。折角の楽しい時間が無遠慮に踏みにじられた。 頭がクラクラする。足をふらつかせながら、怒りに任せて立ち上がった。
「お兄ちゃんをいじめるな!僕がお願いしたんだ。いつも部屋に居て気が滅入っている僕を連れ出してくれた。お兄ちゃんは悪くない!」
「おう。言ったれ、言ったれ!流石、俺の弟や!」
無責任に囃し立ててはいるが、ふらつく巧の背中をそっと支えた。それだけで、どんどん体調が良くなってくる。更に弟と認められたことで、巧は舞い上がった。
そんな二人の様子に困惑した大人達は、とりあえず中へ戻るように言った。立ち続けるのが困難だったので渋々室内へ戻ることになった。
二人はそれぞれ別室に連れて行かれる。巧は除菌の上、すぐさまベッドへ逆戻りだ。意外と疲れていたのか、身体を横たえると、いつも以上に重力を感じた。一方、吉田はモニカがやってきて、二時間懇々と説教したらしい。
そうこうしている内に夕方になり吉田の母親が迎えに来た。今日はもう会えないと落ち込んでいると大人たちの目を盗み、病室に吉田が姿を現す。
「ちゃんと病気治ったら、また外行こうな。」
懲りずに耳打ちした。うんと、笑って互いの拳と拳を合わせた。
この人と一緒にいると世界が広がる。本人は自覚がないけれど予想も出来ない未来と勇気をくれる。
今日の外の景色を瞼の裏に思い浮かべて、巧は掛け布団を肩まで引っ張った。
今は思うように動かない身体だが今日より明日。明日より明後日、必ず前に進むことを信じている。
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