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魂の形について。イキウメ「人魂を届けに」観劇レビュー(考察)

こんにちは。今日は映画ではなく、イキウメ『人魂を届けに』の観劇レポートといか考察です。


あらすじ

人魂(ひとだま)となって、極刑を生き延びた政治犯は、
小さな箱に入れられて、独房の隅に忘れもののように置かれている。
耳を澄ますと、今もときどき小言をつぶやく。
恩赦である(捨ててこい)、と偉い人は言った。
生真面目な刑務官は、箱入りの魂を、その母親に届けることにした。
森の奥深くに住む母は言った。
この子はなにをしたんですか?
きっと素晴らしいことをしたのでしょう。
そうでなければ、魂だけが残るなんてことがあるかしら。
ところで、あなたにはお礼をしなくてはいけませんね。
母はベッドから重たそうに体を起こした。
魂のかたちについて。

イキウメHPより

かなり抽象的な会話劇が中心で、その場では頭の中では追いつけなくて明確に理解するのが難しくありました。なので最後の暗転の時間、頼むから終わらないでくれ、、、もう少しヒントをくれ、、と祈りましたが届かず。笑
休憩なしの2時間弱ほどで幕が閉じました。体感は1時間。といっても、疑問が残ってモヤモヤするとか、不快な感じはなくて、とにかく帰りの電車では登場人物たちのセリフや行動を必死に思い出して繋げて、より深く理解したいと思える舞台でした。


出演者の皆様です。

登場人物たちについて

前作、『天の敵』と同じように語り部というか、中心となる人物(今回でいえばではその家の主人と、訪ねてきた刑務官の男)がいて他の役者たちがその人たちが話す物語の登場人物としていろんな役に成り代わる構造でした。ただ、決定的に違うのは、他の役者たちは中心人物たちの語る物語の中だけではなく、そこに実際に存在する人として板上にいること。つまりこの家の住人?たちです。この住人たちは各々生きることを一度諦め、森を彷徨った挙句、この家の主人、山鳥という女性に助けてもらいここで生活しています。

山鳥と名乗るこの家の主人はここの住人たちに「ママ」「お母さん」と呼ばれ母のような存在で慕われています。が、公安の男の話では山鳥は男であると言います。おそらく山鳥は同性愛者であり、パートナーの死も婚姻関係がないからこそ立ち会えず、その後もパートナーの遺族や周囲から受け入れられず、ここの住人たちと同じように森を彷徨ってきたのでしょう。山鳥が「法に助けられたことはない」と話すのも無理はありません。この前提で他の登場人物たちの言葉を振り返ると、葵が「恋人を失った。別れたわけでもフラれたわけでもない。でもどうしても一緒にいられなかった」と話すのも、清武が「どこに行ってもバカにされた」と話すのも山鳥自身の体験と重なる部分もあり、そこの居場所が山鳥にとっても住人たちにとってどれだけかけがえのない場所であるかを理解させられました。トランス女性として女性の姿で生きることを望んでいたのか、そうでなくても、もしこの姿であればかつてのパートナーのそばに入れたのにという悔いる思いからなのかはわかりませんが、彼女がその姿でいるのは、それを許さない社会や法に対して強烈な嫌悪感があるのが伝わってきます。

そして、個人的にすごく面白いなと思ったのが、そこに存在する住人としてのセリフや人生と、八雲が話す中で関わりのある人物(演じている役者はそれぞれ同じ)のリンクの仕方です。なんて表記しよう難しいな、、
例えば、浜田さん演じる葵は八雲の妻を演じる瞬間があります。先ほどの書いた「恋人を失った。別れたわけでもフラれたわけでもない。でもどうしても一緒にいられなかった恋人を失った。」というセリフは葵も同性愛者であることを想像させましたが、彼が八雲の妻を演じることはまずそこの暗示でもあるなかなと。また、葵は冒頭で「魂をお金で買える」と話すシーンがあります。八雲の妻は息子を失い、憔悴しきった中での自分の言葉が、八雲の手によってお金となり3万円渡される。彼女は3万円分の魂、というよりかは、息子そのものが3万円と引き換えに失われたように感じたのでしょう。その後彼女は魂を、息子を「返して」と絶叫し、家を出ていくことになってしまいます。3万円で失われた魂の隙間が寒く寂しく耐えられず。きっとこの事実が葵の言った「どうしても一緒にいられない」ともリンクしてくると思いました。同様に大窪さん演じる清武も、銃乱射事件を起こしたアーティストを演じますが、まず一貫してキャラクターが同じであることや言葉が攻撃的であったり、自分が不幸であると過剰に思い込んでしまったりと繋がっている部分が見受けられる。あああ手元に台本があればもっと確かなことが言えるのに、、、盛さん演じる公安の陣も、ルールを守らない若者を殴りまくる男を演じますが、これも、命を投げ打ってでも法に従い悪を許さない陣の姿勢とあまりにリンクしてるなと思いました。
そしてもはや同一人物であろう、藤原さん演じる棗。

同一人物であるだろうと思う理由は一つ明確にあって。冒頭に陣とすれ違いでここにきた八雲は時系列的にあり得ないと話します。おそらくこの家がある森は時空が歪んでいるのではないでしょうか。
少し話はズレますが、先日レビューした映画『秘密の森のその向こう』でも「森」を通してタイムループします。それは日本で馴染みある、『千と千尋の神隠し』だったり、異世界の生物と出会う『となりのトトロ』などでも「森」というものを通して常識では考えられない出来事が表現されます。「自然」という広大で未知で脅威にもなりうるその空間はそういった表現に用いられることが多いのかな、、と思いました。余談でした。
その可能性があるとすれば今話した二役が全て同一人物の可能性も出てきます。八雲の妻が必ずしも女性であるとも限らない。となると、棗は父親である(と仮定する)八雲の元を去った後、この森を彷徨い、この家に住み、八雲と再会する。そして棗はラストシーンで崖っぷちにいる人たちを救うキャッチャーになるため明日街へ戻ると話します。もしかすると八雲が見守る中絞首刑となった政治犯は棗だったのかもしれないと個人的に想像しました。そして3万円で奪った魂は回り回って八雲の元へ形として現れた。結果的に棗に導かれ彼自身の魂を取り返しにきたのかなと思いました。
ぜんっぜん違ったらおもろいな、

人々を救いたいと、この守られていた場所から出ていった子どもたち。彼らにとって「人を救う」ということが、この社会から救ってあげること、つまり生きることをやめさせることが彼らにとっての救済とでも言うのでしょうか。政治犯を作り出したのは山鳥なのか、社会なのか。
この物語における「魂」とは何なのか。誰かを思いやる気持ち、感情がゆさぶられる感覚、生きることへの執念、揺るぎない信念、、多忙な単調な日々の中で常に「魂」を持ち続けることが今の社会においてどれほどハードルの高いことか。そりゃあそうですよ。ある程度心を閉じないと、この世の残酷さや理不尽さに耐えられませんよね。そこから引き戻してくるように絶え間なく世界での酷烈な出来事が画面を通して目に飛び込んでくる。心を痛めるのも億劫だからまた見ないふりをして心を閉じる。苦しくて辛い日々の中、生きることを諦めることは魂を失ったわけではありません。うまく見て見ぬふりができなかっただけ。本当に怖いのは何かを感じることを止めること。そしてそれに気づかないこと。あの孤独なミュージシャンも奇跡を目の前で起こして、魂を守って自分で命を立つ姿を見させて、みんなの「魂」を取り戻したかったのかもしれません。


ちょっとちょっと過去最高の文字数、、ここまで読んでくださりありがとうございます、、本当に、、、


ご拝読ありがとうございました。。。

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