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仏教でひもとくウィズコロナ~星野源の楽曲を手がかりとして~ その⑵

※ これは、2021年5月25.26日、 真宗大谷派九州教区鹿児島組北薩ブロックの「坊守・女性門徒の会学習会」にて配付した、私がつくったレジュメです。
何日かしたら非公開か有料記事にしようと思います。
その⑴から⑷まで掲載するつもりです。

❷次に、この後に続く歌詞に「瞳閉じよう 耳を塞ごう それに飽きたら 君と話そう」とある。

これは、一度騒がしい世間から離れて寂静じゃくじょうに遊び、またこの世界に立ち戻って、あなたとのささやかな対話を楽しもうという意味に取れると思うが、より具象的な例として、私は昨今のネット上での誹謗中傷の激化を想起した。

星野源の4月の楽曲発表から紅白歌合戦での歌唱までの間、常にこの問題は起こっていたし、特に印象に残っているニュースとして、2020年5月23日、フジテレビの恋愛リアリティー番組「テラスハウス」出演者の木村花さんが、ネットでの誹謗中傷を苦にして自死したという事件があった。

言葉が取り扱い注意の危険物であることは、釈尊が既に指摘されている。たとえば、『スッタニパータ』第657には、「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。」と説かれている。

しかし、現代の口業悪は口だけのわざではない。

言葉は文字として可視的なかたちになるが、現代、その文字はインターネット上で無尽蔵に、かつ恒久的こうきゅうてき堆積たいせきできるようになった。すなわち「指先の口業悪」とでも言おうか、かつては限られた場所と時間の中でのみ消費されてきた言葉が、口以外からも発信できるシステムが過ぎてしまったために、ガセやデマやプロパガンダ、人を傷つける言葉が目視的に永続的に蔓延まんえんする社会になってしまった。

そういったことも含めて、星野源は「瞳閉じよう 耳を塞ごう」と言っているのではないだろうか。

このように、人間の素朴な営みとは違い、現代はあまりに声が聞こえすぎており、またその声に苛まれる、「情報過多」という現代人特有の生活苦が生じている。それは不特定多数の人間の思惑しわくさらされるということでもあり、ただでさえストレスであるが、中には特に悪意をはらんだ言葉もある。

誹謗中傷は名誉棄損とは違う。誹謗中傷は人格毀損であり、命への攻撃である。絶対に許されるものではない。また、命を損なわしめようと画策する行為は、その人に掛けられた本願を損なわしめようとすることにもなる。

誹謗ひぼう」は仏教語では「誹謗ひほう」と訓じ、『真宗新辞典』(昭和58年/法蔵館)に「誹謗正法ひほうしょうぼう」の項目で載っている。曰く、

「正しい教法をそしること.五逆と共にきびしくいましめられる重罪.正法とは仏法をいい,謗法ほうぼうの相は仏・仏法・菩薩・菩薩法を否定することで,自らそう思ったり他人の説に従って思い込むことを指す.」。

これは仏教徒最大の罪と言っても過言ではなく、どんな造悪ぞうあく凡夫ぼんぶでも念仏申せば救うと誓った法蔵菩薩ほうぞうぼさつ(阿弥陀仏の修業時代の名前)でさえ、「唯除五逆ゆいじょごぎゃく 誹謗正法ひほうしょうぼう」といって、五逆(母殺し・父殺し・聖者殺し・仏の体を傷害し流血させる・教団を分裂させて乱す の5種の罪)と誹謗正法の者は救われないという。



❸また、「嘲る」「誹謗」といった口業悪から派生して、新元号の「令和」に関して思い出すことがある。

「令和」の語の典拠は、『万葉集』の梅花の歌、三十二首の序文「初春のき月、気く風なごみ、梅は鏡前きょうぜんひらき、蘭は珮後はいごこうを薫らす」というもので、これを現代語訳をすれば、「時あたかも新春のき月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉おしろいのごとく白く咲き、らんは身を飾った香の如きかおりをただよわせている(『萬葉集 全訳注 原文付』中西進 参照)」という意味である。

一方、『無量寿経』に、人間の抱える5種類の悪とその報いとしての苦果くかを説く箇所がある。その一節に「瞋目怒譍しんもくぬおう 言令不和ごんりょうふわ 違戻反逆いれいぼんぎゃく」とあり、読み下すに、「目をいからしことば怒らし、言令ごんりょうなごやかならずして、違戻反逆す。」となる。

すなわち、仏説の中の、娑婆の我々の実相じっそうというのは、「瞋恚しんに(腹立ち)に暮れて、目も言葉遣いも荒々しいものであり、道理に背き、真理にもとって生きているのだ」と明かされ、更に、「人間のつくりだす、怒りやねたみがはびこり、言葉の通じないこの世界の悲惨さをよく受けとめよ」と説かれるのである。

「令和」という元号制定の美しい故事こじにばかりに目が行きがちだが、優雅に夢見ばかりするのではなく、一生造悪たる我が身の事実やこの世界の現実にも目をましたいものであるし、そんな我々や世界に対して、「それが人でも うんざりださよなら 変わろう一緒に」と歌いかける星野源の言葉が、「愛が足りない こんな馬鹿な世界」になおさら響いてくる気がする。

この「愛」という語をたどって、『無量寿経』をめくると、「和顔愛語わげんあいご 先意承問せんにじょうもん (和顔愛語にして、意を先にして承問す)」という個所が出てくる。

これは、阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩という名の修行者であった時、その菩薩行ぼさつぎょうのひとつとして、「相手の思いを先んじておもんぱかって、和やかで穏やかな笑顔と慈愛に満ちたあたたかい言葉を発する」というご修行をなされたという意味である。

常に嘲りあい、目をいからしことば怒らし、言令ごんりょうなごやかならない我々は、こんな今だからこそ、愛の発語者たる法蔵菩薩の願力がんりき帰命きみょうすべきなのではないだろうか。


⑵おわり。⑶につづく


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